人間は、「最低だ」という意味で、よく、クソと言う。下品ではあるが、最低であることを最も効果的に言うにはそれが一番なのだろう。
『僕は友達が少ない』という小説・アニメで、10歳の銀髪の美少女マリアが、彼女からみれば、世の中の大半のことは最低なのか、やたら「ウンコみたいだ」と言う。せっかく可愛いのに勿体無いと思う。
ところで、『荘子』にもこんなお話がある。
ある偉い人が本を読んでいたら、庭で仕事をした大工が上がってきて、「旦那様、何を読んでおいでですか?」と尋ねた。
偉い人は、「昔のとっても偉い人の教えが書いてあるのだよ」と大工に言う。
すると大工は、「なんだ、それじゃ、その本はウンコみたいなものですな」と言った。
2千数百年前の中国であるが、大工が簡単に書斎に入ってこれるのだから、良い旦那様ではあると思うが、そう言われて彼は、「大工ふぜいに何が分かる!たたではすまさんぞ」と激怒して言った。
だが、大工には、自分が言ったことは当たり前のことなので平気だ。大工は言う。「あたしゃ、息子もせいぜい仕込んだが、それでも、70もとおに過ぎた今になっても、私にしか出来ないことがあります。その経験からも、言葉で教えることなんか、たかが知れてると分かるのです」。
※これは、荘子の外編のお話で、荘子直筆ではないかもしれない。内編の本には基本的に載っていないが、下記に紹介する書籍には載っている。
『論語』を有難がって読んでいる人もいるが、それは、せいぜいが孔子のウンコである。
そりゃ、孔子は賢い人なので、教えがよく伝わるよう、最高の表現で書いたのだろうが、所詮、言葉である。
だが、ウンコからでも、それを理解する方法はある。それは、千回くらい読むことだ。そうやって、文字の間に潜む霊のようなものを感じることだ。
また、論語を偉そうに講釈している人より、それを一度も読まず、「孔子様、どうか知恵をおさずけ下さい」とずっと祈っている人の方が賢いことが多いのである。
そんなことをよく分かっていたのが釈迦だった。
自分が生きている間や、直接指導した弟子達が教えている間はまだいい。しかし、いずれ、自分の教えは何の効果もなくなることをよく知っていたのだ。
そこで、人間を理解し尽していた釈迦は、難しい教えなど無用の、英知を得る最高の方法を残し、「これだけで良い」と言ったのだ。それは、「仏様を褒め称え、いつも想え」ということだった。そのためには、仏様の国や仏様のお姿をイメージしろということだが、名前を呼ぶだけでもいいとした。それが、念仏という教えになった。
万巻の経典を読むより、「南無阿弥陀仏」を唱える方が良いということで、法然はそれを教え続けた。
念仏はウンコではなく、美味しい食べ物である。
一方、道元は座禅という形で、親鸞は、信心という心で、宇宙一体化の道を説いた。それらも、理屈無用の優れたものである。
至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナは、最終的には、ただ自分を拝めと教えているのだ。それで万事OKである。
尚、キリスト教では、詩篇という形で、それをしたと思う。詩篇は、繰り返し読むことで、言葉を超えた霊と感応し、至高の英知である神と1つになるためのものである。そして、間違うことのない方法である。
人間など、所詮、愚かなものだ。難しいことをやると、ろくなことにならないものだ。
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『僕は友達が少ない』という小説・アニメで、10歳の銀髪の美少女マリアが、彼女からみれば、世の中の大半のことは最低なのか、やたら「ウンコみたいだ」と言う。せっかく可愛いのに勿体無いと思う。
ところで、『荘子』にもこんなお話がある。
ある偉い人が本を読んでいたら、庭で仕事をした大工が上がってきて、「旦那様、何を読んでおいでですか?」と尋ねた。
偉い人は、「昔のとっても偉い人の教えが書いてあるのだよ」と大工に言う。
すると大工は、「なんだ、それじゃ、その本はウンコみたいなものですな」と言った。
2千数百年前の中国であるが、大工が簡単に書斎に入ってこれるのだから、良い旦那様ではあると思うが、そう言われて彼は、「大工ふぜいに何が分かる!たたではすまさんぞ」と激怒して言った。
だが、大工には、自分が言ったことは当たり前のことなので平気だ。大工は言う。「あたしゃ、息子もせいぜい仕込んだが、それでも、70もとおに過ぎた今になっても、私にしか出来ないことがあります。その経験からも、言葉で教えることなんか、たかが知れてると分かるのです」。
※これは、荘子の外編のお話で、荘子直筆ではないかもしれない。内編の本には基本的に載っていないが、下記に紹介する書籍には載っている。
『論語』を有難がって読んでいる人もいるが、それは、せいぜいが孔子のウンコである。
そりゃ、孔子は賢い人なので、教えがよく伝わるよう、最高の表現で書いたのだろうが、所詮、言葉である。
だが、ウンコからでも、それを理解する方法はある。それは、千回くらい読むことだ。そうやって、文字の間に潜む霊のようなものを感じることだ。
また、論語を偉そうに講釈している人より、それを一度も読まず、「孔子様、どうか知恵をおさずけ下さい」とずっと祈っている人の方が賢いことが多いのである。
そんなことをよく分かっていたのが釈迦だった。
自分が生きている間や、直接指導した弟子達が教えている間はまだいい。しかし、いずれ、自分の教えは何の効果もなくなることをよく知っていたのだ。
そこで、人間を理解し尽していた釈迦は、難しい教えなど無用の、英知を得る最高の方法を残し、「これだけで良い」と言ったのだ。それは、「仏様を褒め称え、いつも想え」ということだった。そのためには、仏様の国や仏様のお姿をイメージしろということだが、名前を呼ぶだけでもいいとした。それが、念仏という教えになった。
万巻の経典を読むより、「南無阿弥陀仏」を唱える方が良いということで、法然はそれを教え続けた。
念仏はウンコではなく、美味しい食べ物である。
一方、道元は座禅という形で、親鸞は、信心という心で、宇宙一体化の道を説いた。それらも、理屈無用の優れたものである。
至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナは、最終的には、ただ自分を拝めと教えているのだ。それで万事OKである。
尚、キリスト教では、詩篇という形で、それをしたと思う。詩篇は、繰り返し読むことで、言葉を超えた霊と感応し、至高の英知である神と1つになるためのものである。そして、間違うことのない方法である。
人間など、所詮、愚かなものだ。難しいことをやると、ろくなことにならないものだ。
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ウンコを馬鹿にしてはいけませんよ、ウンコは偉大です、水洗トイレと下水が一般化してしまった今ではウンコの恩恵を感じる事はまず無いと思いますが「食物連鎖」の中でウンコは絶対的な底力で生態系を支えています、ウンコが出なくなったら生物は死にますよ。
植物を育てる時に「声をかける」と良く育つといった現象が有る様ですが「声は肥、越え」なのだと思いませんか、肥は主に家畜のウンコ、日本では長い間人のウンコが用いられて来ました、でも人にとって自分のウンコは食べてはいけない物なので間違われない様に強烈に自己主張します、なので嫌われます。
人の死体もそうですが、自然の中では体もウンコも繋がった命を支える為に大切に処理され役立つ様に出来ています、鼻くそやフケだって栄養にしている生物がいてその屍骸から分解された養分が巡り巡って私達の体を作っていますよ、これは間違いの無い事実です。
誰の言葉か忘れましたが「先人の跡を求めず 先人の求めたる処を求めよ」これが出来る様になれば神様と話が出来る様になるそうです、聖書に書かれている事を学びながら何故聖書が書かれたのか、誰が何を伝えたかったのかに想いを馳せてみては如何だろうか、そこに子を想う親の心が感じられたらそこが入り口のようです。
私が死んだら遺体は畑の隅の空き地に埋めて木を一本植えて欲しいと想っています、古い田舎の墓地はそうやって家族や地域の人達と共に眠っています、火葬や立派な石塔はいらないと思います。
kayさん、いつも有り難うございます。