戦争で死ぬというのは、自分に責任がないということでは、天災や不慮の事故と同じだが、国家の都合で無理に将来を閉ざされてしまうのであるから、本当はただ無念なことでしかない。
何らかの事情で、自分のやりたいことがやれない状況に置かれているなら、戦争で死んだ若い兵隊達のそんな無念を強く感じるもかもしれない。精神分析学者の岸田秀さんは、若い頃、そんな日本の兵隊達の資料を見ると、自分でも不思議なくらいの激しいやるせなさを感じたのは、自分では気付かなかったが、エゴの塊の母親によって完全に支配されていたことを、フロイトを学んで後に分かったからだという。
戦争中の日本の兵隊達は、国家を守る使命に燃えていたと言う者もいるが、そんなことは真っ赤な嘘である。そう言わされていたかもしれないが、本当は、彼らは、ただただ無念だったのだ。そこのところは、はっきりしておかないといけない。国家によって作られた馬鹿げた話を決して信じてはいけない。
だが、自分に責任のある死の場合はどうだろう?
私は、昔から、無縁仏というものに並々ならぬ想いを持っていた。どこのだれか分からない者が、野や山の中で一人、骨をさらしているようなものだ。殺害されたようなこともあると思うが、昔なら、一人、誰にも顧みられず、飢えや寒さ、あるいは、病気や怪我で、苦しみながら死んだ者は沢山いたはずだ。
食べ物や住むところを自分で得られないという、自分の非力さ、運の無さで、苦痛の中で惨めに死んでいく無念さはいかほどのものだろう。
人間は、美味しいものを食べ、快適な衣服を着て、暖かい家で、親しい人達と仲良く暮らすのが当たり前なのである。それを自分で得られないということは、人としての徳が無いということなのだ。それは最悪の生涯である。そんな者は、いったい、何のために生まれてきたのだろう。
そして、我々ですら、明日はそんなことにならないとも限らないのだ。その恐怖があるから、やりたくもない仕事をし、人を蹴落とし、ケチケチと溜め込み、人間らしさを捨てて自分のことだけを考えるのである。
それなら私は、そういう最悪の死が自分のものであると決めておこう。能力も徳もないのであるから、それがお似合いと諦めよう。
そうであれば、何も恐れないし、私は自由だ。餓死の練習はせいぜいしておこう。毎日、食べたいだけ食べていたら、食べるものが得られないと辛いことになるだろう。
そして、さっき述べたが、明日の我が国が、そうならないとも限らないのだ。
今の私は、その気になれば、このまま食べずに餓死することも、さして辛くはない。私のような覚悟があれば、あなたにも難しいことではない。
我々には、他人はおろか、自分を救う力もない。
だが、そう悟れば、目に見えるあらゆるものをはるかに超えた大きな力に全て委ねる気になるだろう。
黒住宗忠が、何年も病気で寝込み、いよいよ死を覚悟して、せめて姿を整えようと、入浴し、正装した時に、天照大神が彼の中に溶け込み、一瞬で病気が治ったように、全て諦めて、自分を至高の存在に全て明け渡した時に、あなたは、それと1つになるのだ。
私がいつも言う、聖書の詩篇23編や詩篇91編は、そんなつもりで祈るためのものである。
また、「南無阿弥陀仏」の念仏も、阿弥陀如来という、至高の存在に全てを任せるという意志表示なのである。さらに、親鸞は、この念仏は、全て委ねた結果、救われたという感謝の言葉であると言った。
ところで、『荘子』の中に、こんなお話がある。荘子が、野ざらしの骸骨を見つけ、「どんな訳で、こんなみっともないことになったのだい?」と言いながら、それを枕に寝ていたら、夢の中で、「おまえさんは、俺をみっともないと言うが、なぜそんなことが分かる?俺から見たら、お前たちの方が、よほどみっともない」と言う声を聞き、自分の浅はかさを恥じる。
私にも分かる。死とは、それほど悪いことではないのである。
尚、詩篇91編と23編は、当ブログ内の下記の記事に掲載している。
詩篇91編掲載:誰でも奇跡を起こせる2つの言葉(全文掲載)
詩篇23編掲載:賢い人はある意味で子供に似ている
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何らかの事情で、自分のやりたいことがやれない状況に置かれているなら、戦争で死んだ若い兵隊達のそんな無念を強く感じるもかもしれない。精神分析学者の岸田秀さんは、若い頃、そんな日本の兵隊達の資料を見ると、自分でも不思議なくらいの激しいやるせなさを感じたのは、自分では気付かなかったが、エゴの塊の母親によって完全に支配されていたことを、フロイトを学んで後に分かったからだという。
戦争中の日本の兵隊達は、国家を守る使命に燃えていたと言う者もいるが、そんなことは真っ赤な嘘である。そう言わされていたかもしれないが、本当は、彼らは、ただただ無念だったのだ。そこのところは、はっきりしておかないといけない。国家によって作られた馬鹿げた話を決して信じてはいけない。
だが、自分に責任のある死の場合はどうだろう?
私は、昔から、無縁仏というものに並々ならぬ想いを持っていた。どこのだれか分からない者が、野や山の中で一人、骨をさらしているようなものだ。殺害されたようなこともあると思うが、昔なら、一人、誰にも顧みられず、飢えや寒さ、あるいは、病気や怪我で、苦しみながら死んだ者は沢山いたはずだ。
食べ物や住むところを自分で得られないという、自分の非力さ、運の無さで、苦痛の中で惨めに死んでいく無念さはいかほどのものだろう。
人間は、美味しいものを食べ、快適な衣服を着て、暖かい家で、親しい人達と仲良く暮らすのが当たり前なのである。それを自分で得られないということは、人としての徳が無いということなのだ。それは最悪の生涯である。そんな者は、いったい、何のために生まれてきたのだろう。
そして、我々ですら、明日はそんなことにならないとも限らないのだ。その恐怖があるから、やりたくもない仕事をし、人を蹴落とし、ケチケチと溜め込み、人間らしさを捨てて自分のことだけを考えるのである。
それなら私は、そういう最悪の死が自分のものであると決めておこう。能力も徳もないのであるから、それがお似合いと諦めよう。
そうであれば、何も恐れないし、私は自由だ。餓死の練習はせいぜいしておこう。毎日、食べたいだけ食べていたら、食べるものが得られないと辛いことになるだろう。
そして、さっき述べたが、明日の我が国が、そうならないとも限らないのだ。
今の私は、その気になれば、このまま食べずに餓死することも、さして辛くはない。私のような覚悟があれば、あなたにも難しいことではない。
我々には、他人はおろか、自分を救う力もない。
だが、そう悟れば、目に見えるあらゆるものをはるかに超えた大きな力に全て委ねる気になるだろう。
黒住宗忠が、何年も病気で寝込み、いよいよ死を覚悟して、せめて姿を整えようと、入浴し、正装した時に、天照大神が彼の中に溶け込み、一瞬で病気が治ったように、全て諦めて、自分を至高の存在に全て明け渡した時に、あなたは、それと1つになるのだ。
私がいつも言う、聖書の詩篇23編や詩篇91編は、そんなつもりで祈るためのものである。
また、「南無阿弥陀仏」の念仏も、阿弥陀如来という、至高の存在に全てを任せるという意志表示なのである。さらに、親鸞は、この念仏は、全て委ねた結果、救われたという感謝の言葉であると言った。
ところで、『荘子』の中に、こんなお話がある。荘子が、野ざらしの骸骨を見つけ、「どんな訳で、こんなみっともないことになったのだい?」と言いながら、それを枕に寝ていたら、夢の中で、「おまえさんは、俺をみっともないと言うが、なぜそんなことが分かる?俺から見たら、お前たちの方が、よほどみっともない」と言う声を聞き、自分の浅はかさを恥じる。
私にも分かる。死とは、それほど悪いことではないのである。
尚、詩篇91編と23編は、当ブログ内の下記の記事に掲載している。
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詩篇23編掲載:賢い人はある意味で子供に似ている
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時に叶う事はありますが、少しでも期待があると
かないませんヾ(@⌒ー⌒@)ノ
やはり純粋な気持ちで諦めなければむつかしいと
思います。
漫画『天才バカボン』のいっせつに。
これで、いいのだ!とありますがこの言葉は
すべてを神に任せると同じ言葉です。
諦めと、同時に悟りだとも思います。
筆不精申し訳ございません。
生まれてこのかた2時間以上まじめに勉強
した事がありません。
諦め!
とても良い言葉です。
本日、腕立て伏せを八回で諦めました