『星の王子様』で、著者のテグジュペリは、子供の頃に描いた絵をけなされてから自信を失くし、絵の練習をしなかったから、絵を描けないんだという話をしていた。
ところが、星の王子様のために、羊の絵を描かなければいけなくなって困ってしまう。だが、そこで名案が浮かぶ。箱の形の小屋を描き、「この中に羊がいる」と王子様に言ったのだ。王子様は、その羊のことについていくつか質問はしたが、納得して満足する。
これは、よく考えれば、凄いことで、芸術の真髄と言えるかもしれない。
例えば、世界一の画家が、世界一の美女の絵を描いたとしても、その絵を見た人が、必ずしも世界一の美女と認めるとは限らないばかりか、人の好みや美的感覚とは多様なものであり、普通の美女とすら認めない人もいるに違いない。醜女とすら感じる人がいても、少しも不思議でもない。
昔、週間プレイボーイ誌で見た4コマ漫画に、2人の女子大生が海外で未開人に拉致され、神の生贄にさせられるというものがあった。ところが、未開人達は、「神への生贄は美人だけでいい。ブスを捧げると神の怒りをかう」と言っている。女子大生の1人は美人だが、1人はブスだった。ブスな女子大生は「こんな顔に生んでくれて、初めて両親に感謝するわ」と思う。しかし、未開人達が生贄に選んだのは、ブスだと思っていた女子大生の方だった。
あなたは、『モナ・リザ』が付き合ってくれと言われたら付き合うだろうか?私なら遠慮する。
だが、部屋のドアを描き、この中に世界一の美女がいると言われたら、自分が思う世界一の美女を想像すれば良いのである。
俳句や和歌は、最小の言葉だけを残し、後は読む者に想像させるという、詠み手と読む者が一緒に創るものだ。詩もやはりそうだが、およそ、芸術的な文章は書き過ぎては良くなく、できるだけ、読者に想像させないといけないのである。
どんな文章の達人であっても、美しいはずのものを徹底して写実に表現したら、読む者は、全然美しいと感じないことは間違いない。
物理学の一分野である量子力学はとても難しいと言われる。ところが、物理学など全く知らない芸術家や賢者には、量子力学の真髄を理解している人はいくらでもいる。いや、彼らが知っているのは、科学者の量子力学を超えているのかもしれないのだ。数式で表さないと有難くないと思っている人もいるが、恋愛や友情だって、その気になれば難しい数式で表すことは出来るが、あまり意味はないことだろう。
大数学者の岡潔は、道元の『正法眼蔵』を20年読んで分からなかったが、ある時、一瞬で全て理解できたという。それは、理屈で分かったのではなく、理屈を捨てた時、直観で分かったのだ。彼が、大数学者になれたのは、理屈を組み立てる天才だったということもあるが、それより先に、直観が優れていたのだろう。
思考や心で分かることにこだわると、幸福になれないし、偉大なことを成し遂げることもできない。
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という言葉をご存知と思う。
南無は「帰依します」という言葉だとよく言われるが、帰依なんて言葉を知っている人なんていない。そんな小難しいことを言うのはやめ、「心から信じます」と訳すべきだろう。
妙法蓮華経とは、法華経というお経(かなり長いものだ)の正式名だ。
つまり、「南無妙法蓮華経」とは、「私は、法華経を心から信じます」という意味だ。
つまり、こう唱えれば、法華経を読まなくても、読んで理解したのと同じで、それを読んで得られる知恵や神秘力も得られるという、大変に素晴らしいものだ。
世間の常識で考えると、「そんな馬鹿な」となるかもしれないが、断固、本当だ。逆に、法華経を真面目に読んで、頭で理解しようとしたって、一生かかったって理解できないのが普通なのだ。
同じく、南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏(という仏様)を心から信じる」という意味で、こう唱えれば、絶対的な力を持つ阿弥陀仏様は、数多くの、スーパーパワーを持つ仏様や菩薩様を送ってきて、守ってくれるのである。中でも、阿弥陀仏の自慢の弟分である、観自在菩薩や勢至菩薩を惜しみなく送ってくれて、彼らが世話を焼いてくれ、友になってくれるのである。もう無敵と言って差し支えないだろう。
実は、聖書の詩篇91篇も同じことを言っているのだ。
これには、神様は絶対的にあなたにあなたを守るとされている。また、神様も、御使い(天使)を遣わして、常にあなたを守らせると言うのである。
では、どうすれば、そういう恵みを得られるのかというと、神様に、「心から信頼しています」と言えば良いと書かれているだけである。
イエスも、最も重要なことは、「あなたの神様を愛しなさい」であると言ったのである。
あなたの神様というのは、神様は、いつでも、呼べば答えてくれるという身近な存在であることを示しているのである。
第2次世界大戦において、イギリスのウィットルゼイ大佐率いる一連隊は、全員が詩篇91を暗記し、定期的に唱えたことにより、5年の戦闘で、1人の死者も出さなかったと言われる。
ジョセフ・マーフィーも、著書の中で、詩篇23と91を唱えることを度々薦め、その絶大な威力を強調している。そして、素直にそれに従った者は、やはり、大きな恩恵を受けているのである。
マーフィーの本を読んでうまくいかないなんて人は、まだ、自己流の考え方でやっているのだろう。その考え方は、自己流とはいえ、所詮は、世間の考え方のコピーなのだ。うまくいかない方が、よほど不思議なのである。
考えることをやめてしまうことで迷信に陥ることの弊害というものを考える人もいると思う。もっともだ。だが、自然をよく観察することを習慣とし、不要なものを求めなければ、その心配はない。捨てるべきは世間の理屈であり、道理は大切にするのである。
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ところが、星の王子様のために、羊の絵を描かなければいけなくなって困ってしまう。だが、そこで名案が浮かぶ。箱の形の小屋を描き、「この中に羊がいる」と王子様に言ったのだ。王子様は、その羊のことについていくつか質問はしたが、納得して満足する。
これは、よく考えれば、凄いことで、芸術の真髄と言えるかもしれない。
例えば、世界一の画家が、世界一の美女の絵を描いたとしても、その絵を見た人が、必ずしも世界一の美女と認めるとは限らないばかりか、人の好みや美的感覚とは多様なものであり、普通の美女とすら認めない人もいるに違いない。醜女とすら感じる人がいても、少しも不思議でもない。
昔、週間プレイボーイ誌で見た4コマ漫画に、2人の女子大生が海外で未開人に拉致され、神の生贄にさせられるというものがあった。ところが、未開人達は、「神への生贄は美人だけでいい。ブスを捧げると神の怒りをかう」と言っている。女子大生の1人は美人だが、1人はブスだった。ブスな女子大生は「こんな顔に生んでくれて、初めて両親に感謝するわ」と思う。しかし、未開人達が生贄に選んだのは、ブスだと思っていた女子大生の方だった。
あなたは、『モナ・リザ』が付き合ってくれと言われたら付き合うだろうか?私なら遠慮する。
だが、部屋のドアを描き、この中に世界一の美女がいると言われたら、自分が思う世界一の美女を想像すれば良いのである。
俳句や和歌は、最小の言葉だけを残し、後は読む者に想像させるという、詠み手と読む者が一緒に創るものだ。詩もやはりそうだが、およそ、芸術的な文章は書き過ぎては良くなく、できるだけ、読者に想像させないといけないのである。
どんな文章の達人であっても、美しいはずのものを徹底して写実に表現したら、読む者は、全然美しいと感じないことは間違いない。
物理学の一分野である量子力学はとても難しいと言われる。ところが、物理学など全く知らない芸術家や賢者には、量子力学の真髄を理解している人はいくらでもいる。いや、彼らが知っているのは、科学者の量子力学を超えているのかもしれないのだ。数式で表さないと有難くないと思っている人もいるが、恋愛や友情だって、その気になれば難しい数式で表すことは出来るが、あまり意味はないことだろう。
大数学者の岡潔は、道元の『正法眼蔵』を20年読んで分からなかったが、ある時、一瞬で全て理解できたという。それは、理屈で分かったのではなく、理屈を捨てた時、直観で分かったのだ。彼が、大数学者になれたのは、理屈を組み立てる天才だったということもあるが、それより先に、直観が優れていたのだろう。
思考や心で分かることにこだわると、幸福になれないし、偉大なことを成し遂げることもできない。
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という言葉をご存知と思う。
南無は「帰依します」という言葉だとよく言われるが、帰依なんて言葉を知っている人なんていない。そんな小難しいことを言うのはやめ、「心から信じます」と訳すべきだろう。
妙法蓮華経とは、法華経というお経(かなり長いものだ)の正式名だ。
つまり、「南無妙法蓮華経」とは、「私は、法華経を心から信じます」という意味だ。
つまり、こう唱えれば、法華経を読まなくても、読んで理解したのと同じで、それを読んで得られる知恵や神秘力も得られるという、大変に素晴らしいものだ。
世間の常識で考えると、「そんな馬鹿な」となるかもしれないが、断固、本当だ。逆に、法華経を真面目に読んで、頭で理解しようとしたって、一生かかったって理解できないのが普通なのだ。
同じく、南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏(という仏様)を心から信じる」という意味で、こう唱えれば、絶対的な力を持つ阿弥陀仏様は、数多くの、スーパーパワーを持つ仏様や菩薩様を送ってきて、守ってくれるのである。中でも、阿弥陀仏の自慢の弟分である、観自在菩薩や勢至菩薩を惜しみなく送ってくれて、彼らが世話を焼いてくれ、友になってくれるのである。もう無敵と言って差し支えないだろう。
実は、聖書の詩篇91篇も同じことを言っているのだ。
これには、神様は絶対的にあなたにあなたを守るとされている。また、神様も、御使い(天使)を遣わして、常にあなたを守らせると言うのである。
では、どうすれば、そういう恵みを得られるのかというと、神様に、「心から信頼しています」と言えば良いと書かれているだけである。
イエスも、最も重要なことは、「あなたの神様を愛しなさい」であると言ったのである。
あなたの神様というのは、神様は、いつでも、呼べば答えてくれるという身近な存在であることを示しているのである。
第2次世界大戦において、イギリスのウィットルゼイ大佐率いる一連隊は、全員が詩篇91を暗記し、定期的に唱えたことにより、5年の戦闘で、1人の死者も出さなかったと言われる。
ジョセフ・マーフィーも、著書の中で、詩篇23と91を唱えることを度々薦め、その絶大な威力を強調している。そして、素直にそれに従った者は、やはり、大きな恩恵を受けているのである。
マーフィーの本を読んでうまくいかないなんて人は、まだ、自己流の考え方でやっているのだろう。その考え方は、自己流とはいえ、所詮は、世間の考え方のコピーなのだ。うまくいかない方が、よほど不思議なのである。
考えることをやめてしまうことで迷信に陥ることの弊害というものを考える人もいると思う。もっともだ。だが、自然をよく観察することを習慣とし、不要なものを求めなければ、その心配はない。捨てるべきは世間の理屈であり、道理は大切にするのである。
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またアインシュタインは情報と知識は別物だ、と言っています。
言葉ではなく、自分で感じる、トータルで体験する、一体化することが一番なのだな、と思いました。