歩きながら煙草を吸っている人や、携帯やスマホを見ながら歩いている人は、人殺しと同じなんだなあとつくづく思う。
昔、俳優の丹波哲郎さんが、「車の窓からゴミを捨てるやつは人殺しと同じだ」と言ったのを思い出したのである。
つまり、自分さえ良ければ、他人はどうなってもよいという思想が行動になったのが、そういったことであり、それを平気で何も考えずにやっている者というのは、本質が全くの人殺しなのであろう。
昨日、電車に乗るとき、私はたまたま一番前に並んでいたのだが、実際に乗る時は、一番最後にぽつねんと残されていた。降りる人が終るまで待っていたら、後ろに並んでいた人が先に乗ってしまうのだ。

私は、そういった「人殺し達」を見るのが嫌だ。実際的な被害は我慢できても、醜いものを見るのは辛い。
そして、もっと嫌なのは、そんな者達に嫌悪感を持ったり、あまつさえ、つい張り合うようなことを自分がすることだ。エスカレーターなどで割り込んでくる人も多いが、わざと割り込ませないようなことを自分がした時、そんな自分が嫌で心が痛むのが実に辛い。
戦国時代、武士達は戦場の中で花を生けたという。なぜ、そんなことをしたのだろうか?
それは、人を平気で切る自分が嫌で辛かったからだ。それで、花を生けて、禊(みそぎ)をせずにはいられなかった。禊とは、心の穢れを祓うことである。

昨日も、割り込んできた若い女性に張り合った後で、私も禊がしたかった。それで、思わず、心の中に、「南無阿弥陀仏」の念仏が浮かんだ。
『方丈記』で、最後に鴨長明が、「聖人ぶっても、お前の心も穢れているじゃないか?なんとか言ってみろ!」と自問した時、自然に念仏が出たということを思い出した。

法然の念仏と親鸞の念仏は違う。
2人とも、自分の業・・・つまりは、心の穢れを感じていたことは同じと思う。
だが、念仏の目的は違う。法然のは禊であり、救いを求める念仏で、親鸞のは、既に救われたことを感謝する念仏だ。
親鸞の方が進歩したものだが、それは、法然あってこそのものだ。
だが、どちらも、仏様に任せ切るということに関しては同じだ。
今の時代の我々には、神も仏も同じである。共に、宇宙の英知であり、大自然の神秘、無限の力だ。
念仏を唱えることも、聖書の詩篇を読むことも同じことである。

尚、上に、ある特定の行為をする者を「人殺し」と書き、それはその通りなのであるが、そう言っている我々もまた、自分では気付かぬだけで、やはり同じなのである。我々も、人殺しと同じことを沢山やっているのである。
だから、戦場の武士と同じように、私も禊がしたいのである。
禊とはまた、宇宙の英知と交信することでもある。曇った心では、潜在意識の深奥に住む至高の心との経路が開かれていないからだ。そんな状態では願いも叶わないだろう。
聖書の詩篇23や91を読み、あるいは、念仏を唱えれば、心も晴れ、無限の意識と一体化するだろうし、叶うべき願いなら実現するだろう。









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