私は、平坂読さんの『僕は友達が少ない』という小説が気に入っていて、現在刊行されている7巻までを再読し、アニメも録画を何度も繰り返して見ている。面白いだけでなく、良いお話だとも思う。しかし、どうしても承服できないことがある。
2人の美しいヒロイン、夜空と星奈は、人間的な美点もあるが、根本的には未熟で欠点が多いのは仕方がないところもある。しかし、それでも、この2人が、「殺す」「死ね」という言葉をやたら使うことは(使わせることは)良いことではない。
最近は、若い人に限らず、簡単に、そういった言葉(あるいは、そんな意味を込めた言葉)が使われるように思われる。
密林の聖者と呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァーが行き着いた哲学は「生命への畏敬」だ。つまるところは、命を何よりも大切なものとして崇拝することであるが、それを権威的に受け入れるのではなく、また、知的に理解するのでもなく、我々は生命の大切さを知らなければならない。
シュヴァイツァーは、文字通り、虫一匹殺さなかった。殺せなかったというのが正しい。彼が診療所を開いていたアフリカの未開地には、病原菌を運ぶハエも沢山いたが、シュヴァイツァーは、紙コップを常備し、部屋の中のハエを捕らえて外に出し、また、実験のため、やむなく蚊を解剖する時も、苦しげな顔で行ったという。
CLAMP(4人組の漫画家ユニット)の1995年頃の漫画作品『魔法騎士(マジックナイト)レイアース』という作品で、ヒロインの14歳の少女、光(ひかる)が、異世界の青年イーグルの命を救うため、2人とも消滅する危機に陥る場面がある。イーグルは不治の病に冒されており、もう長くはなく、彼は愛する光に、そのことを思い出させて自分を置いていくよう説得する。その時、光が言った、「それでも、せいいっぱい最後まで生きなきゃ」という言葉をよく憶えている。実は、作品のその部分で、著者は、確かに素晴らしいことを沢山書いてはいたのだが、この一言で十分であったと思う。
CLAMPといえば、最近の『BLOOD-C』(共作)でもそうだが、作品の中で、容赦なく大勢の人間を殺すことがある。もちろん、決して殺人奨励ではなく、少し前の『ちょびっツ』では、人型パソコン(アンドロイドと同じ)一体の命すら厳粛に描いて見せるところは、アシモフの『われはロボット』すら彷彿(ありありと想像すること)させ、それがCLAMP作品の本質だとは思う。しかし、やはり、人が簡単に死ぬシーンは精神への刺激が大き過ぎると思う。(実際、私は病状を示した)
最近は、原発の話題が巷に溢れているが、平井和正さんと桑田次郎さんの漫画作品『デスハンター』で、主人公の青年、田村俊夫は、もうすぐ原発が爆発する島を脱出するヘリに乗ることをやめ、島に残ることを決意した。それは、島に残っている、リュシールという少女を見捨てることができないからだった。リュシールは、死んでいるかどうかも分からなかったし、生きているとしても、長くはなかった。テロリスト達の拷問を受け、全身に赤くなるまで熱した鉄の棒の焼きごてを当てられ、顔の皮を剥がれた上、全身に銃弾を撃ち込まれていたからだ。俊夫が島に残ることに、何の意味もなかった。だが、彼はそうした上、さらに、俊夫の仲間の林石隆もそれに倣った。実は、俊夫も林も、それまで、冷酷非情な殺し屋であったのだ。
これらの、理屈で考えると不合理で馬鹿げたことでも、真剣によく考えてみたいと思う。
生命というものは、我々が頭で考えるよりはるかに神秘なものだ。
生命と自然と神は同じものだ。「自然な」ということほど、全てにおける適切な指針がないことに気が付かないだろうか?
「殺す」「死ね」という言葉は、どんな悪人、どんな未熟者が使っても、やはり不自然なのだ。
上にあげた、光や俊夫の行為は、どんなに馬鹿げて見えても自然なのである。
自然な行いをする時、人は神と一致しているのである。奇跡を起こす鍵もそこにあることは、容易く分かると思う。
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2人の美しいヒロイン、夜空と星奈は、人間的な美点もあるが、根本的には未熟で欠点が多いのは仕方がないところもある。しかし、それでも、この2人が、「殺す」「死ね」という言葉をやたら使うことは(使わせることは)良いことではない。
最近は、若い人に限らず、簡単に、そういった言葉(あるいは、そんな意味を込めた言葉)が使われるように思われる。
密林の聖者と呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァーが行き着いた哲学は「生命への畏敬」だ。つまるところは、命を何よりも大切なものとして崇拝することであるが、それを権威的に受け入れるのではなく、また、知的に理解するのでもなく、我々は生命の大切さを知らなければならない。
シュヴァイツァーは、文字通り、虫一匹殺さなかった。殺せなかったというのが正しい。彼が診療所を開いていたアフリカの未開地には、病原菌を運ぶハエも沢山いたが、シュヴァイツァーは、紙コップを常備し、部屋の中のハエを捕らえて外に出し、また、実験のため、やむなく蚊を解剖する時も、苦しげな顔で行ったという。
CLAMP(4人組の漫画家ユニット)の1995年頃の漫画作品『魔法騎士(マジックナイト)レイアース』という作品で、ヒロインの14歳の少女、光(ひかる)が、異世界の青年イーグルの命を救うため、2人とも消滅する危機に陥る場面がある。イーグルは不治の病に冒されており、もう長くはなく、彼は愛する光に、そのことを思い出させて自分を置いていくよう説得する。その時、光が言った、「それでも、せいいっぱい最後まで生きなきゃ」という言葉をよく憶えている。実は、作品のその部分で、著者は、確かに素晴らしいことを沢山書いてはいたのだが、この一言で十分であったと思う。
CLAMPといえば、最近の『BLOOD-C』(共作)でもそうだが、作品の中で、容赦なく大勢の人間を殺すことがある。もちろん、決して殺人奨励ではなく、少し前の『ちょびっツ』では、人型パソコン(アンドロイドと同じ)一体の命すら厳粛に描いて見せるところは、アシモフの『われはロボット』すら彷彿(ありありと想像すること)させ、それがCLAMP作品の本質だとは思う。しかし、やはり、人が簡単に死ぬシーンは精神への刺激が大き過ぎると思う。(実際、私は病状を示した)
最近は、原発の話題が巷に溢れているが、平井和正さんと桑田次郎さんの漫画作品『デスハンター』で、主人公の青年、田村俊夫は、もうすぐ原発が爆発する島を脱出するヘリに乗ることをやめ、島に残ることを決意した。それは、島に残っている、リュシールという少女を見捨てることができないからだった。リュシールは、死んでいるかどうかも分からなかったし、生きているとしても、長くはなかった。テロリスト達の拷問を受け、全身に赤くなるまで熱した鉄の棒の焼きごてを当てられ、顔の皮を剥がれた上、全身に銃弾を撃ち込まれていたからだ。俊夫が島に残ることに、何の意味もなかった。だが、彼はそうした上、さらに、俊夫の仲間の林石隆もそれに倣った。実は、俊夫も林も、それまで、冷酷非情な殺し屋であったのだ。
これらの、理屈で考えると不合理で馬鹿げたことでも、真剣によく考えてみたいと思う。
生命というものは、我々が頭で考えるよりはるかに神秘なものだ。
生命と自然と神は同じものだ。「自然な」ということほど、全てにおける適切な指針がないことに気が付かないだろうか?
「殺す」「死ね」という言葉は、どんな悪人、どんな未熟者が使っても、やはり不自然なのだ。
上にあげた、光や俊夫の行為は、どんなに馬鹿げて見えても自然なのである。
自然な行いをする時、人は神と一致しているのである。奇跡を起こす鍵もそこにあることは、容易く分かると思う。
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はがないが今の時期に小説からアニメ化され、ブレイク!?していることに私は何か意味があるように感じてます。
私たちは原発の事故によって、体感はどうであれ過酷な環境で過ごさざるを得なくなりました。
それが、何か隣人部の活動と被って見えます。
隣人部の中では部員達が友達を作って、生き残っていくために必死にイロイロな活動をしています。
死ねだとか、殺すといわれる中でも、生きて行かなければならない訳です。
最近、太学功という気功を習いに行ったのですが。
そこの先生も様々なものに対応して、変化して生きていくことが、気功の真髄だと言っておられました。
やっぱり時代の先端を行く作家は、時代の変化に敏感で、自らも変化していくのですかね。