西洋人の著作の中には、さりげなくギリシャ神話のお話が引用されていることがよくある。
こういったことをもって、「西洋では、ギリシャ神話の知識は常識的な教養だ。これについて知らないと、知的な人間と認められない」というのを見たことがあるが、そんなことを主張したがる人は多いような気がする。
そういった部分もあるのかもしれないが、ギリシャ神話とは、常識でもなければ、教養でもない。ましてや、知的人間であることを宣伝するためのものでもない。
もし、ギリシャ神話が尊ばれるとしたら、その中に真理が隠されているからである。だが、真理が明かされるかどうかは、読者によるのである。教養だの見栄のためにそれを読む者は、真に重要なものを得ることはない。彼らはただ、表面的な奇妙なおとぎ話を知るだけなのだ。

それは日本の古事記も同じである。
古事記は、歴史でも文学でもおとぎ話でもない。あれが文学として優れているなんて言う偉い人がいたが、そんなことを本当に信じているのだろうか?
子供に、ギリシャ神話や古事記の読書感想文なんてものを書かせてはいけない。それは、旧約聖書の読書感想文を書くのも同じだ。大人に分かるような感想文を書くことで、それを読んだ意味を失ってしまうのである。
逆に言えば、子供は、ギリシャ神話や古事記、旧約聖書を読めば、本当の意味が分かってしまうのだ。しかし、それは決して大人に説明できるようなものではない。

キリスト教国でも、大人は旧約聖書を理解できず、権威的だが馬鹿げた解釈を受け入れてきた。それは子供を戸惑わせる。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンは子供の時、教会の牧師に、教会の教えが納得できないことを訴えたが、牧師に、「君の考えは悪魔から来ている」と言われた。すると、エマーソンは「それなら僕は悪魔になり切る」と言った。そして、エマーソンはアメリカ最高の賢者になったのだ。

タルムードは旧約聖書の解説書で、それはユダヤ人に大いなる知恵を与えたが、もっと深い旧約聖書の解釈はカバラーである。だが、言葉にできるはずのないことを言葉にしようとしたカバラーは、あまりに抽象的で複雑だ。それは歴史の裏側に隠され、もし正しく用いることができる者がいるとすれば、霊的な魔法使いだけだった。実際、カバラーは魔法の技法である。
しかし、子供の時に、旧約聖書やギリシャ神話、あるいは、古事記に親しめば、楽々と魔法の力を得るのである。ただし、長じてから、教養としてそれらを上書きすることで、魔法の力は失われる。そして、ガラクタに過ぎない教養が残るだけだ。

人が持つべき魔法の力を得るには、7歳の子供になって、それらを読むことだ。
7歳の子供は、高級車や高価な服や宝石を求めたりしない。それらに興味を持つとしたら、単に楽しいからだ。
友達を紹介する時、彼の父親の職業を言ったりしない。彼の好きな遊びを言うものだ。
見た家がどんな家か言うのに、「10万ドルの家」なんて言ったりしない。壁の色や庭の花のことを言うものだ。
7つの子供のようにギリシャ神話や古事記を読めば、世間からすれば不思議な力を得る。
私が昨日以前に書いた私が使ったような力も、ごく普通のことになる。
私も、子供の時にギリシャ神話を読み、とても面白かったことは憶えているが、内容は全く憶えていないのだ。それで良いのである。









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