アメリカの大女優ジョディ・フォスターが日本で有名になったのは、彼女が14歳の時(撮影時は13歳と思う)の主演映画『白い家の少女』(原題:The Little Girl Who Lives Down the Lane)によってだと思う。
ジョディは、その頃には、既に多くの映画で主役級で出演し、アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の候補になり、天才子役と言われた美少女女優だった。
当時、『ダウンタウン物語』や『タクシードライバー』といった英国映画に出演していたし、『白い家の少女』でも、イギリス出身の少女リンを演じたことから、私は、なんとなく、ジョディがイギリス人だと思っていたが、アメリカ人であり、女優業の側ら、アメリカの名門イェール大学を優秀な成績で卒業している。
『白い家の少女』の映画の脚本は、原作小説の著者レアード・コーニグ自身が行っている。
実は、コーニグにとって、この小説は2つ目のもので、単独著書で出版したのは初めてだった(1冊目は共著)。
コーニグはアメリカ人だが、当時から、1年を半年ずつ、サンフランシスコとロンドンで過ごしていたというから、かなりのイギリス好きで、イギリス人の少女リンの描写も実にサマになっていたのではないかと思う。
ところで、私は、1977年出版の『白い家の少女』の小説を持っているが、翻訳が加島祥造さんであるとは、昨日まで気が付かなかった。
加島祥造さんは、翻訳家であると共に、詩人、エッセイスト、画家で、また、タオイスト(老荘思想家)として知られ、老子や荘子の著書も多い。ただ、『白い家の少女』の翻訳を書いた頃は、専ら翻訳家であった。加島さんが、自分自身の著書を出すのは60代以降だ。『白い家の少女』の時は、まだ加島さんは54歳くらいだった。
そして、加島さんは、この小説の翻訳に実に相応しかった。主人公の少女リンは、偉大な詩人である父を持ち、エミリー・ディキンスンの詩を全て暗誦し、自分がディキンソンと似ていると感じていた。いわば、芸術的な才能を持った少女で、彼女が暗誦したり、朗読するディキンソンの詩も書くのであるから、英文学者で詩人である加島さんの翻訳は、やはり素晴らしいものだったと思う。
極めて利発であるだけでなく、この世の神聖な真理を求める高貴な精神性を持つリンを演じることが出来る少女女優も、ジョディをおいて他にいなかっただろう。
日本のように、アイドル女優を起用したら、なんとも間抜けな作品になってしまっただろうが、ジョディの演技は素晴らしく、特に、ラストの数分、アップになった表情だけを延々と見せるジョディの演技は圧巻であったと思う。
リンは学校には通っていない。リンの父親は、リンに「大人は個性的なお前を認めない」と言ったが、全くその通りだろう。
リンも、世間を毛嫌いしているようだ。もし、学校に行ったとしたら、リンはさぞ憂鬱な時間を過ごすことになったことだろう。
岡本太郎が、小学校での授業中、両手で耳を堅く塞ぎ、神聖な自分の頭脳に、汚らわしい教師の教えが入り込むことを拒否したという話を思い出す。
だが、吉本隆明さんが『ひきこもれ』で書いていたことも思い出す。それでも、学校に行った方が良い。学校や教師は、たしかにろくでもないものだろう。だが、世の中は、ほとんどが、やはり不条理に満ちたものであり、学校は、そんな馬鹿げた場所で生きる最適な訓練だと考えるべきなのだ。
現実的なことを言うなら、吉本隆明さんの言うとおりである。世間に本当に勝つためには、これから逃げず、これを打ち負かす力を持つべきなのだ。
リンの父親は、リンを愛していたが、リンの内にある、真の英知を信じるべきだった。我々もまた、自己の内に潜む、至高の存在を信じるべきなのだ。
この小説の原題、The Little Girl Who Lives Down the Laneはちょっと面白いものだ。「通りから離れて住んでいる少女」の「通り」は世俗のことのように思う。離れるのは良い。しかし、嫌悪したり、隠遁してはならないのである。
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ジョディは、その頃には、既に多くの映画で主役級で出演し、アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の候補になり、天才子役と言われた美少女女優だった。
当時、『ダウンタウン物語』や『タクシードライバー』といった英国映画に出演していたし、『白い家の少女』でも、イギリス出身の少女リンを演じたことから、私は、なんとなく、ジョディがイギリス人だと思っていたが、アメリカ人であり、女優業の側ら、アメリカの名門イェール大学を優秀な成績で卒業している。
『白い家の少女』の映画の脚本は、原作小説の著者レアード・コーニグ自身が行っている。
実は、コーニグにとって、この小説は2つ目のもので、単独著書で出版したのは初めてだった(1冊目は共著)。
コーニグはアメリカ人だが、当時から、1年を半年ずつ、サンフランシスコとロンドンで過ごしていたというから、かなりのイギリス好きで、イギリス人の少女リンの描写も実にサマになっていたのではないかと思う。
ところで、私は、1977年出版の『白い家の少女』の小説を持っているが、翻訳が加島祥造さんであるとは、昨日まで気が付かなかった。
加島祥造さんは、翻訳家であると共に、詩人、エッセイスト、画家で、また、タオイスト(老荘思想家)として知られ、老子や荘子の著書も多い。ただ、『白い家の少女』の翻訳を書いた頃は、専ら翻訳家であった。加島さんが、自分自身の著書を出すのは60代以降だ。『白い家の少女』の時は、まだ加島さんは54歳くらいだった。
そして、加島さんは、この小説の翻訳に実に相応しかった。主人公の少女リンは、偉大な詩人である父を持ち、エミリー・ディキンスンの詩を全て暗誦し、自分がディキンソンと似ていると感じていた。いわば、芸術的な才能を持った少女で、彼女が暗誦したり、朗読するディキンソンの詩も書くのであるから、英文学者で詩人である加島さんの翻訳は、やはり素晴らしいものだったと思う。
極めて利発であるだけでなく、この世の神聖な真理を求める高貴な精神性を持つリンを演じることが出来る少女女優も、ジョディをおいて他にいなかっただろう。
日本のように、アイドル女優を起用したら、なんとも間抜けな作品になってしまっただろうが、ジョディの演技は素晴らしく、特に、ラストの数分、アップになった表情だけを延々と見せるジョディの演技は圧巻であったと思う。
リンは学校には通っていない。リンの父親は、リンに「大人は個性的なお前を認めない」と言ったが、全くその通りだろう。
リンも、世間を毛嫌いしているようだ。もし、学校に行ったとしたら、リンはさぞ憂鬱な時間を過ごすことになったことだろう。
岡本太郎が、小学校での授業中、両手で耳を堅く塞ぎ、神聖な自分の頭脳に、汚らわしい教師の教えが入り込むことを拒否したという話を思い出す。
だが、吉本隆明さんが『ひきこもれ』で書いていたことも思い出す。それでも、学校に行った方が良い。学校や教師は、たしかにろくでもないものだろう。だが、世の中は、ほとんどが、やはり不条理に満ちたものであり、学校は、そんな馬鹿げた場所で生きる最適な訓練だと考えるべきなのだ。
現実的なことを言うなら、吉本隆明さんの言うとおりである。世間に本当に勝つためには、これから逃げず、これを打ち負かす力を持つべきなのだ。
リンの父親は、リンを愛していたが、リンの内にある、真の英知を信じるべきだった。我々もまた、自己の内に潜む、至高の存在を信じるべきなのだ。
この小説の原題、The Little Girl Who Lives Down the Laneはちょっと面白いものだ。「通りから離れて住んでいる少女」の「通り」は世俗のことのように思う。離れるのは良い。しかし、嫌悪したり、隠遁してはならないのである。
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