創造主は、我々を楽しませたいに違いない。
私がいつもお話しているように、食を慎み、腕振り運動をし、不要なものを求めないようにすれば、健康になるだろうし、まあ、お金に困ることもない。
しかし、それで満足していては何にもならないのである。
いかに厳しく食を節し、大変な数の腕振り運動をしても、それだけで止まってしまっていれば、困難が襲ってくるだろう。
健康で、生活にゆとりが出来たなら、次は存分に楽しまなければならない。
しかし、自分だけ安楽でいれば良いと思っていると、苦難がやってくる。それは、苦難を克服することで楽しませるためだ。
また、間違った楽しみ方をしている場合は、必ず苦痛を味わう。間違った楽しみ方とは、肉体感覚だけを喜ばせたり、他者を苦しめることだ。快楽と苦痛が同じものであるというのは事実である。
正しい楽しみ方とは、他者を喜ばせることである。ただし、他者を喜ばせるには力が要る。自分の面倒を自分で見れない人が、他人の役に立ったりはしない。
ただ、イエスくらい力があれば、いくらでも他人を喜ばせることもできるが、そうなると、今度は加減を知らなくてはならないのである。
例えば、ホームレスの人に毎日、高級な料理をご馳走するなど、馬鹿のやることである。
反キリスト主義者の誤りは、このあたりの解釈の誤解にある。
オスカー・ワイルドの『善をなす魂』では、イエスに救われた人々・・・目を開かされた盲人、罪を許された娼婦、死から蘇ったラザロらが、その後、皆、不幸になっていて、イエスを愕然とさせるのである。
大きな恵みを与えられても、内なる英知を求めることを忘れてしまっては、かえって不幸になるのは確かである。だが、仮にそうであっても、それはイエスの責任ではない。しかし、我々も、与える時には慎重になるべきという警告ではあるかもしれない。
黒住宗忠は、全て神様に任せてしまえば、面白いこと、楽しいことばかりであると言った。
なぜなら、我々は、万物を創造し、星を運行させ、生物を進化させる無限の英知である神の表現体だからである。偉大なことが出来て当たり前なのであり、自分自身が、それを見て、驚愕して楽しむのである。
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私がいつもお話しているように、食を慎み、腕振り運動をし、不要なものを求めないようにすれば、健康になるだろうし、まあ、お金に困ることもない。
しかし、それで満足していては何にもならないのである。
いかに厳しく食を節し、大変な数の腕振り運動をしても、それだけで止まってしまっていれば、困難が襲ってくるだろう。
健康で、生活にゆとりが出来たなら、次は存分に楽しまなければならない。
しかし、自分だけ安楽でいれば良いと思っていると、苦難がやってくる。それは、苦難を克服することで楽しませるためだ。
また、間違った楽しみ方をしている場合は、必ず苦痛を味わう。間違った楽しみ方とは、肉体感覚だけを喜ばせたり、他者を苦しめることだ。快楽と苦痛が同じものであるというのは事実である。
正しい楽しみ方とは、他者を喜ばせることである。ただし、他者を喜ばせるには力が要る。自分の面倒を自分で見れない人が、他人の役に立ったりはしない。
ただ、イエスくらい力があれば、いくらでも他人を喜ばせることもできるが、そうなると、今度は加減を知らなくてはならないのである。
例えば、ホームレスの人に毎日、高級な料理をご馳走するなど、馬鹿のやることである。
反キリスト主義者の誤りは、このあたりの解釈の誤解にある。
オスカー・ワイルドの『善をなす魂』では、イエスに救われた人々・・・目を開かされた盲人、罪を許された娼婦、死から蘇ったラザロらが、その後、皆、不幸になっていて、イエスを愕然とさせるのである。
大きな恵みを与えられても、内なる英知を求めることを忘れてしまっては、かえって不幸になるのは確かである。だが、仮にそうであっても、それはイエスの責任ではない。しかし、我々も、与える時には慎重になるべきという警告ではあるかもしれない。
黒住宗忠は、全て神様に任せてしまえば、面白いこと、楽しいことばかりであると言った。
なぜなら、我々は、万物を創造し、星を運行させ、生物を進化させる無限の英知である神の表現体だからである。偉大なことが出来て当たり前なのであり、自分自身が、それを見て、驚愕して楽しむのである。
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少し、長過ぎるような気もしますので、ピリピ人への手紙
4-13やローマ人への手紙8-31のように短い文も
暗記したいと思います。