小説の中には、一人称で語られる、つまり、全体を通して、「私は・・・」「僕は・・・」といった調子で書かれたものがある。この場合は、主人公である1人の人物の視点で描かれた作品ということである。だが、そうでなくても、どんな作品でも、大なり小なり、主人公の視点が大きな割合を占めているだろう。登場人物達の視点が公平に取り上げられていたら、さぞ締まらないものになるのは間違いない。
『フランダースの犬』では、主にネロの視点で語られるし、『三銃士』だって、ダルタニアン視点の描写が当然多い。『若草物語』では、4人の姉妹のそれぞれの感情が表現されはするが、やはり、作者自身でもあるジョーの視点で描かれている。

ところで、小説は、主人公ではなく、別の登場人物の視点で描き直すと、実に斬新で面白いものだ。
実際、ある作品を、本来の主人公とは異なる登場人物を主人公にして作り直すこともある。ただ、小説作品で、そんなことを同じ小説の形で行う権利があるのは著者だけであるので、古典的作品を映画で行うようなものが多いだろう。例えば、『アーサー王物語』をランスロットやマーリンを主人公にした映画にする等である。

『涼宮ハルヒの憂鬱』および、その後の涼宮ハルヒシリーズでは、主人公は、「俺は・・・」と一人称で語り続けるキョンである。ハルヒは主人公ではなく、ヒロインとでもいうものだ。
しかし、これを、「私は・・・」とハルヒ視点で語ると面白いかもしれない。だが、そんなことをしなくても、作品中で、ハルヒや、あるいは、別の登場人物達の視点や感情が、キョンを通して描かれることは多い。それを、キョン自身は気付いていないように描いてしまうこともある。読者は分かるが、語っているキョン自体は分かっていないという奇妙なものだが、これもまた、小説を面白くする手法の1つかもしれない。
むしろ、ハルヒ視点のものを、著者が本当に描くよりも、ハルヒの視点や感情がぼかされるのが良いに違いない。
『僕は友達が少ない』は、主人公は小鷹という高校2年生男子だが、著者自身がヒロインの三日月夜空視点で少し描き直した企画が実施されたが、読んでみて案外に面白くないと感じたものである。やはり、ものごとは、曖昧に語り、想像させることが大切なこともある。俳句や和歌に風情があるのは、著者が語ることを最小限にすることで、後は読み手の想像力に委ねるからである。

ところで、物語には、登場人物が1人か、ほとんど1人というものがある。その場合は、一人称で語らず、むしろ、客観的に描くことで、読者の想像力に訴え、作品に深みを与えるものである。
ゆえに、読み手に想像力や深い思想がなければ、何の価値もない作品になることもあるが、読むべき者が読めば、壮大であったり、深遠な作品になるのである。これは、登場人物が多い小説でも同じであるが、1人の登場人物を見つめるものは、特にそうで、読者が試されるのである。そのような作品として、『老人と海』や『マッチ売りの少女』が思い浮かぶ。こういった作品を読みながら、読者は想像力を働かせているうちに、物語の1人の登場人物を見守る神になるのである。そして、その神の視点で自分を見つめるようにもなる。
偉大な文学を読む意味もそこにある。
『新約聖書』の4つの福音書は、主人公のイエスを、4人の異なる著者が客観的に描いた物語である。そして、この物語は、それよりも昔に、既に予言されていることが展開していくのである。読者は、イエスの言葉を学ぶ真摯な弟子であると共に、イエスを見守り、イエスの物語を決定した神に近いものなのだ。イエス自身、父なる神と自分は一体であると言う。実に、読者、主人公、著者と真の著者である神、全てに区別が無いのである。

サルトルは、小説を読むことは、その小説を再度、自分で書くことであると言った。
エマーソンは、いかなる偉大な人物の物語を読む時も、自分のことが書かれていると思わなければならないと言った。
ジョセフ・マーフィーは、『ヨブ記』など、古代の偉大な書を読む時は、かつて自分がそれを書いた時のことを思い出して読めと言った。
福音書を読む時、我々は、教えを受ける者であり、イエスであり、神なのである。









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