なぜ働くのかと問われて、働かないと退屈だからと答える人がいる。そんな人が、仕事以外に趣味が無いわけではなく、むしろ多趣味だったりする。
一方、1日中ベッドから出ずに過ごせるというくらい怠惰な人もいる。劇作家のサミュエル・ベケットもそうだったらしい。彼は、ノーベル章授賞式に行かなかったのだが、その理由は、面倒だったかららしい。
怠惰な子供というのは、ちょっと考えにくい。子供が活動的なのは、よりよく生きるための経験や知識を得るための本能的なものだろう。
では、経験や知識が十分であったり、あるいは、生きる意欲があまり無い人というのは怠惰なのかもしれない。
しかし、個人が得られる経験や知識など知れているし、生きる意欲が本当に無いなどという人は極めて稀だ。
だから、本当に怠惰な人などいないのだと思う。もし怠惰に見えるなら、単に、その人は、現在の自分の状況に嫌気がさしてうんざりしているのだろう。
もっとも、楽しい環境を作るのは自分の責任かもしれない。一般的には、そう認識されているだろう。
ところが、谷川流さんの『涼宮ハルヒの憂鬱』では、ハルヒは、中学1年生の時から、「面白いことは待っててもやってこない」「待ってるだけの女じゃないってことを世界中に訴える」までに、いろいろやったが、結局、何も変わらずに、憂鬱に落ち込んでしまったというわけだ。だが、本当は、彼女が気付かなかっただけで、世界は、確実に面白い方に動いていたのだ。そんな小説が売れているのだから、特に、主な読者である若い世代も退屈なのかもしれない。
実際そうで、多くの人が退屈なのだと思う。その理由は、生きていくためには、世間の枠組みの中で動くしかないのだが、その世間が恐ろしくつまらない仕組みで、馬鹿馬鹿しくて付き合ってられないからだ。なら、世間を超えればいいということになるが、我々は、自分にはその力が無いと思い込んでいる。なぜそう思い込んでいるのかというと、それは、そう信じ込まされているからだ。なぜ、そう信じ込まされたかというと、多分、国家やそれと結託する大企業にとって、それが都合が良いからだろう。ただ、必ずしも国家に悪意あってのことかどうかは分からない。その方が秩序があって、国民が幸福になれると思ったのかもしれない。しかし、そうだとしたら、国家はアホだ。国民はちっとも幸福ではない。
結論から言えば、我々は世間を超えられる。世間の中で言うなら、人間を超えられると言って良い。
イエスだって、最後に弟子達に言ったのは、「私はこの世に勝ったのだ」だった。そして、「お前たちも、私と同じ、あるいは、もっと大きなことができる」と断言したのだ。
我々は、自分の思っているよりはるかに高い力を持っている。それは、世間で成功して大金持ちになるなんてケチなものではない。逆に、そんなものばかり求めていたら、世間の牢獄に閉じこもるケチな存在になるのである。

人が、今の人を超えたら、世間も楽しいものに変わるだろう。本当に賢い、力のある人は、平等であること、親切であること、見下す人などいないことを自然のこととして受け入れるのである。
私が子供の時に読んだ、ジュール・ベルヌの『海底二万里』で、ネモ艦長がアロナックス博士に、「専門家というのは、専門以外のことはあまり知らないものだ」と言ったのが印象的だ。新しい世界では、そんなことはなくなる。なぜなら、今のように、利権によって分野の異なる専門家が交わらないということが無くなるからだ。ジョージ・アダムスキーの1949年の小説『宇宙の開拓者』(邦訳:UFO基本教書 地球人よ、ひとつになって宇宙へ目を向けなさい!)でも、火星の科学者が、地球の科学者は専門が違う者が協力しないので、全てをあまりに複雑にしてしまい、このままでは、他の惑星のような高度な科学を持てないと言わせている。あれから軽く半世紀を過ぎたが、何も変わっていないのである。
まずは、我々が個人的に、世間や世間の人を超えなければならない。それを成し遂げた先人を手本にしたり、彼らを通して伝えられた、この世のものでない知恵を学ぶということは、是非行うべきだろう。









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