私というのは2人いるらしい・・・というのは、よく言われる。
アニメの『ちびまる子ちゃん』で、まる子のイメージの中に、天使のまる子と悪魔のまる子が現れて争うというのを見たことがある人も多いと思う。欲望のまま、楽な方、面白い方に行こうとする悪魔のまる子を叱り、辛くても善の方に引っ張っていこうとする天使のまる子というのは、我々にもよく分かるものだと思う。
フロイト流に言えば、普通、自我と言っているのは、悪魔のまる子の方で、天使のまる子の方を超自我と言う。超自我は、自我にルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想を伝えるもので、フロイトは時に、超自我を、裁判官や検閲官のようなものと言った。
偶然なのだろうかと思うが、アメリカのSFの大作には、この超自我の発達していない子供がよく出てくる。『宇宙戦争』(2005年)で、トム・クルーズ演じるレイの息子と娘がそうだ。彼らは、レイと離婚した母親や、その新しい夫の家で暮らしていた。その家庭は、良心や愛より、世間体や利得を重んじる家庭で、その中で育つうちに、彼らも、損得や快楽を第一にするようになってしまっていた。他にも、『地球が静止する日』(2008年)で、ヘレンの他界した夫の息子ジェイコブもそうだった。自分の快楽、欲望が何より大切で、そうであることに全く疑問を持たない。さらに、最も極端なのは、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』に登場する、賞金稼ぎジェンゴ・フェットの息子ボバ・フェットで、ボバは、欲望と快楽以外の動機を持たない。
2人の自分のうち、自我の方しか発達させないことが、いかに恐ろしいことかを、これらの子供達がよく表しているように思う。
2人の私とは、このように、心と言ってよい自我と、より高い自分だ。より高い自分を、上に述べたように、フロイトは超自我(スーパー・セルフ)と言ったようだが、ハイヤー・セルフ(高位の自己)とか、真我と言うこともある。フロイトの超自我は、真我というよりは、真我のメッセージとかフィーリングといった感じのものと思う。真我とは、神そのものである。
それを示す良い例がある。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、17歳の時に家を出て、南インドのアルナチャラという所に住み、そこで聖者として一生を送るが、彼を探し当てた母親が、彼を家に連れ戻そうとした。しかし、聖者になった息子に感銘した母親は、息子の崇拝者となってそこに留まった。だが、やがて母親は重病になる。マハルシは、神に、「あなたは母の病を治すべきです」と祈るが、やがて、「葬儀に必要なものは何だろう?」と考える。母の治癒を願ったのは自我だが、真我は、母の死は避け得ぬものと知っていた。聖者マハルシの自我は透明なほどに磨かれているので、真我に従うのである。
これは、イエスが、「私の意志ではなく、あなた(神)の意志の通りになりますように」と言ったことと同じである。
イエスですら、自分の磔は恐ろしく、血の汗を流したという(恐怖が強いと、人は血の汗を流すという)。そして、イエスは、神に、「出来るなら、この毒杯(自分の磔)を除いて下さい」と祈ったが、それすら、「しかし、あなたの思いのままに」と引き下げたのである。
イエスは40日の断食の後、悪魔に、「石をパンに変えるよう命じよ。神の子の言うことなら実現するだろう」と言われたが、それを拒否した。自我はパンが欲しいと感じていたのは確かだが、「人はパンが無くても生きられる」という神(真我)の言葉に従ったのだ。そして、その他の悪魔の誘惑に対しても、ことごとに打ち勝った。悪魔の誘惑とは、自我の欲望である。しかし、イエスは真我に従った。そして言ったのだ。「汝敗れたり。わが後方(しりえ)に退け!サタン」と。サタンとは自我の欲望である。それが真我に敗れたのだ。
我々も、真我を自我の欲望の上に置けばキリストになるのである。
だが、全ての禁欲や苦行が真我の意志とは限らない。
我々は、真我の意志を知ることに慣れていない。世間では、真我の声より、作り物の道徳やルールに従わせようとするからだ。まあ、それにも一定のメリットがあるが、それが過ぎて、真我の声より、世間の教義や信念に従うようになってしまったのだ。
一頃、「なぜ殺してはいけないのか?」などということが問題になった。そんなこと、考えるまでもない。真我に聞けば分かるのだが、我々は真我の声が聞こえないので、そんな馬鹿な問題を真面目に論じたりしたのだ。
普通の男の場合、きれいな女の子を見たら、欲しいと思うのが自我だ。そんな時、「私(自我)はあの子が欲しい。しかし、私の意志ではなく、あなた(神)の意志の通りに」と思うべきだろう。
「私は金持ちになりたい。しかし、私の意志ではなく、あなたの意志のままに」と言えば良いし、言うしかない。
それは実現するかもしないし、しないかもしれない。だが、自我が決めることではない。自我の欲望を押し通そうとすれば、反発を受けるだろう。だが、天(真我、神)に委ねてしまえば、決して悪いようにはならない。
そうやって、個人の欲望である自我より、至高の英知を上に置くようになれば、やがて我々はキリストになるだろう。全ての制約は消え去り、神と一致した我々に不可能はなく、あらゆることを成すだろう。
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アニメの『ちびまる子ちゃん』で、まる子のイメージの中に、天使のまる子と悪魔のまる子が現れて争うというのを見たことがある人も多いと思う。欲望のまま、楽な方、面白い方に行こうとする悪魔のまる子を叱り、辛くても善の方に引っ張っていこうとする天使のまる子というのは、我々にもよく分かるものだと思う。
フロイト流に言えば、普通、自我と言っているのは、悪魔のまる子の方で、天使のまる子の方を超自我と言う。超自我は、自我にルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想を伝えるもので、フロイトは時に、超自我を、裁判官や検閲官のようなものと言った。
偶然なのだろうかと思うが、アメリカのSFの大作には、この超自我の発達していない子供がよく出てくる。『宇宙戦争』(2005年)で、トム・クルーズ演じるレイの息子と娘がそうだ。彼らは、レイと離婚した母親や、その新しい夫の家で暮らしていた。その家庭は、良心や愛より、世間体や利得を重んじる家庭で、その中で育つうちに、彼らも、損得や快楽を第一にするようになってしまっていた。他にも、『地球が静止する日』(2008年)で、ヘレンの他界した夫の息子ジェイコブもそうだった。自分の快楽、欲望が何より大切で、そうであることに全く疑問を持たない。さらに、最も極端なのは、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』に登場する、賞金稼ぎジェンゴ・フェットの息子ボバ・フェットで、ボバは、欲望と快楽以外の動機を持たない。
2人の自分のうち、自我の方しか発達させないことが、いかに恐ろしいことかを、これらの子供達がよく表しているように思う。
2人の私とは、このように、心と言ってよい自我と、より高い自分だ。より高い自分を、上に述べたように、フロイトは超自我(スーパー・セルフ)と言ったようだが、ハイヤー・セルフ(高位の自己)とか、真我と言うこともある。フロイトの超自我は、真我というよりは、真我のメッセージとかフィーリングといった感じのものと思う。真我とは、神そのものである。
それを示す良い例がある。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、17歳の時に家を出て、南インドのアルナチャラという所に住み、そこで聖者として一生を送るが、彼を探し当てた母親が、彼を家に連れ戻そうとした。しかし、聖者になった息子に感銘した母親は、息子の崇拝者となってそこに留まった。だが、やがて母親は重病になる。マハルシは、神に、「あなたは母の病を治すべきです」と祈るが、やがて、「葬儀に必要なものは何だろう?」と考える。母の治癒を願ったのは自我だが、真我は、母の死は避け得ぬものと知っていた。聖者マハルシの自我は透明なほどに磨かれているので、真我に従うのである。
これは、イエスが、「私の意志ではなく、あなた(神)の意志の通りになりますように」と言ったことと同じである。
イエスですら、自分の磔は恐ろしく、血の汗を流したという(恐怖が強いと、人は血の汗を流すという)。そして、イエスは、神に、「出来るなら、この毒杯(自分の磔)を除いて下さい」と祈ったが、それすら、「しかし、あなたの思いのままに」と引き下げたのである。
イエスは40日の断食の後、悪魔に、「石をパンに変えるよう命じよ。神の子の言うことなら実現するだろう」と言われたが、それを拒否した。自我はパンが欲しいと感じていたのは確かだが、「人はパンが無くても生きられる」という神(真我)の言葉に従ったのだ。そして、その他の悪魔の誘惑に対しても、ことごとに打ち勝った。悪魔の誘惑とは、自我の欲望である。しかし、イエスは真我に従った。そして言ったのだ。「汝敗れたり。わが後方(しりえ)に退け!サタン」と。サタンとは自我の欲望である。それが真我に敗れたのだ。
我々も、真我を自我の欲望の上に置けばキリストになるのである。
だが、全ての禁欲や苦行が真我の意志とは限らない。
我々は、真我の意志を知ることに慣れていない。世間では、真我の声より、作り物の道徳やルールに従わせようとするからだ。まあ、それにも一定のメリットがあるが、それが過ぎて、真我の声より、世間の教義や信念に従うようになってしまったのだ。
一頃、「なぜ殺してはいけないのか?」などということが問題になった。そんなこと、考えるまでもない。真我に聞けば分かるのだが、我々は真我の声が聞こえないので、そんな馬鹿な問題を真面目に論じたりしたのだ。
普通の男の場合、きれいな女の子を見たら、欲しいと思うのが自我だ。そんな時、「私(自我)はあの子が欲しい。しかし、私の意志ではなく、あなた(神)の意志の通りに」と思うべきだろう。
「私は金持ちになりたい。しかし、私の意志ではなく、あなたの意志のままに」と言えば良いし、言うしかない。
それは実現するかもしないし、しないかもしれない。だが、自我が決めることではない。自我の欲望を押し通そうとすれば、反発を受けるだろう。だが、天(真我、神)に委ねてしまえば、決して悪いようにはならない。
そうやって、個人の欲望である自我より、至高の英知を上に置くようになれば、やがて我々はキリストになるだろう。全ての制約は消え去り、神と一致した我々に不可能はなく、あらゆることを成すだろう。
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