小説や映画などで、惹かれ合っている男女がいるのだが、お互いシャイであるとか、あるいは、何らかの障害があったりで、2人の関係性が進展しないなどというものがよくある。ロミオとジュリエットも最初はそうであった。
もちろん、ほとんどの創作作品では、そのままで終わることはない。しかし、現実の世界において、何もないまま終わってはいけないのだろうか?
惹かれ合った者どうしが、その後、恋人になったり夫婦になったりするかについては、そう運命付けられていれば、そうなるし、そういう運命になければ、どんなにがんばったところでそうならない。
昔の中森明菜さんの『スローモーション』という歌のように、結ばれる運命にあれば、お互いが乗っていたボートが偶然にぶつかって、女の子の帽子が落ちたりするのである。
「あの人は私に気があるに違いない」と思う時、その大半は勝手な思い込みであるかもしれない。人間とは自惚れが強いものだ。だが、逆に、思わぬ相手から慕われていたということが後で分かって驚くということもよくある。
ある事業家の本で見たことがあるが、昔、ある金持ちの地主の娘が大変な美人で、そこの小作人の1人の男は彼女を密かに想うも、身分違いも甚だしいと思い、馬鹿な願望は捨てることした。その後、その娘は嫁入りするのだが、なんと、本当はその小作人の男を慕っていたのであり、そのことを知ったその男は非常に後悔する。その男は歳を取って死ぬ時、孫に、「俺のような寂しい人生を送るな」と言い残したそうだ。映画『タイタニック』のジャックのように、ローズに対し、「身分違いは分かっているが譲れない」と積極的になるのが正しいのだということだろう。
一方、岡本太郎は、「片思いだって恋愛なのだ」と言う。太郎は、決して消極的でも、モテなかった訳でもない。フランス留学中は、世界中の美女、美少女と次々同棲し、ある有名モデルの恋人だったことが分かった時には、雑誌に、「ムッシュ岡本は、こう言ってました。『確かに付き合っていたなあ。彼女の名前は、えーと、えーと・・・』」と書かれ、実際、太郎は付き合った女性の名前をあまり憶えなかった。
そんな太郎が、必ずしも、「さっさと口説けよ」とは言わないのである。
名乗り合い、話をし、一緒に遊びに行ったり、食事をしたり、セックスしたりといったことがないと不満足だというなら、それこそつまらない結果になる。なぜなら、それは、自分が身体だと思っているからだ。
人間というのは、本来はもっと精神感受能力が高く、別に言葉を交わさなくとも思いは伝わるものである。
惹かれ合っているクラスメイトの男女が、ごく普通のクラスメイトとしてさりげなく過ごしていても、思いが伝わっていれば、十分に恋人としての自覚も楽しさもある。時によっては自然に近付いて一言二言、言葉を交わすこともあるかもしれないが、後のことは天に任せるしかない。そして、天に任せ切っていれば、心安らかである。無用なトラブルは、むしろ、執着心が起こしているのだ。
「神無月の巫女」というアニメで、姫子(16歳)を愛するソウマ(16歳)は、姫子のために命をかけて戦い抜いたが、ついに、敵であるオロチの呪いにより、石化して動けなくなる。そして、姫子は、結局、千歌音(16歳)を選び、ソウマの愛には応えず、彼女と共に行く(女同士であるが)。ソウマの前に、彼の兄ツバサが現れ、「あげくの果てがこのザマか!これで満足かソウマ?」と尋ねると、もう口は利けないソウマだが、心で「ああ」と満足そうに答える。「なぜだ?」ツバサが重ねて尋ねると、ソウマは、「姫子が生きている。それだけでいい」と答えた。
そして、結ばれた姫子と千歌音も、ソウマに後ろめたい気持ちも哀れみも持たず、むしろ、3人は愛情を持ち合うのであるが、それが自然に見えるのである。
この世界での宿命は我々にはどうにもならない。しかし、そんなことはどうでも良いではないか?
『荘子』にもあるが、銅が、「俺は名剣になりたい」と言ったところで、どうなるものでもない。我々も同じである。
しかし、それは、我々が自分を、その銅のようなものだと思っているので、思い通りにならないと「残念だ」とか「悔しい」と思ったりするのだ。
だが、我々は、銅でもこの身体でも、そして心ですらない。言ってみれば、心よりももっと高いものだ。それが分からないので、色々なものに執着するのだ。
下手に名剣になることが叶うと、もっと大切なものを失うのである。それは、自分が本当は何者であるかという秘密である。
銅を自在に扱う鋳物師のように、我々の運命を決める何者かもあるのだろう。そのようなものを、インドでは「それ」とか「彼」と言うことが多いが、それは、言葉で、例えば神と言えば、人によって意味が異なるからだ。ご存知のように、神という言葉は人間にとって、かなりの抽象概念である。老子や荘子では、「名付け得ないが、とりあえず道(タオ)と名付ける」と言ったりしている
我々は、「それ」あるいは「道」に任せ切り、心安らかでいれば、自ら「それ」であることが分かる。
そうなれば、全てを手に入れるのではなく、元々が、全て自分のものであることが自明になる。
『荘子』にある、泥棒に盗まれはしないかと心配しなくても、天下を天下の中に隠せば安心だということになるのである。
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もちろん、ほとんどの創作作品では、そのままで終わることはない。しかし、現実の世界において、何もないまま終わってはいけないのだろうか?
惹かれ合った者どうしが、その後、恋人になったり夫婦になったりするかについては、そう運命付けられていれば、そうなるし、そういう運命になければ、どんなにがんばったところでそうならない。
昔の中森明菜さんの『スローモーション』という歌のように、結ばれる運命にあれば、お互いが乗っていたボートが偶然にぶつかって、女の子の帽子が落ちたりするのである。
「あの人は私に気があるに違いない」と思う時、その大半は勝手な思い込みであるかもしれない。人間とは自惚れが強いものだ。だが、逆に、思わぬ相手から慕われていたということが後で分かって驚くということもよくある。
ある事業家の本で見たことがあるが、昔、ある金持ちの地主の娘が大変な美人で、そこの小作人の1人の男は彼女を密かに想うも、身分違いも甚だしいと思い、馬鹿な願望は捨てることした。その後、その娘は嫁入りするのだが、なんと、本当はその小作人の男を慕っていたのであり、そのことを知ったその男は非常に後悔する。その男は歳を取って死ぬ時、孫に、「俺のような寂しい人生を送るな」と言い残したそうだ。映画『タイタニック』のジャックのように、ローズに対し、「身分違いは分かっているが譲れない」と積極的になるのが正しいのだということだろう。
一方、岡本太郎は、「片思いだって恋愛なのだ」と言う。太郎は、決して消極的でも、モテなかった訳でもない。フランス留学中は、世界中の美女、美少女と次々同棲し、ある有名モデルの恋人だったことが分かった時には、雑誌に、「ムッシュ岡本は、こう言ってました。『確かに付き合っていたなあ。彼女の名前は、えーと、えーと・・・』」と書かれ、実際、太郎は付き合った女性の名前をあまり憶えなかった。
そんな太郎が、必ずしも、「さっさと口説けよ」とは言わないのである。
名乗り合い、話をし、一緒に遊びに行ったり、食事をしたり、セックスしたりといったことがないと不満足だというなら、それこそつまらない結果になる。なぜなら、それは、自分が身体だと思っているからだ。
人間というのは、本来はもっと精神感受能力が高く、別に言葉を交わさなくとも思いは伝わるものである。
惹かれ合っているクラスメイトの男女が、ごく普通のクラスメイトとしてさりげなく過ごしていても、思いが伝わっていれば、十分に恋人としての自覚も楽しさもある。時によっては自然に近付いて一言二言、言葉を交わすこともあるかもしれないが、後のことは天に任せるしかない。そして、天に任せ切っていれば、心安らかである。無用なトラブルは、むしろ、執着心が起こしているのだ。
「神無月の巫女」というアニメで、姫子(16歳)を愛するソウマ(16歳)は、姫子のために命をかけて戦い抜いたが、ついに、敵であるオロチの呪いにより、石化して動けなくなる。そして、姫子は、結局、千歌音(16歳)を選び、ソウマの愛には応えず、彼女と共に行く(女同士であるが)。ソウマの前に、彼の兄ツバサが現れ、「あげくの果てがこのザマか!これで満足かソウマ?」と尋ねると、もう口は利けないソウマだが、心で「ああ」と満足そうに答える。「なぜだ?」ツバサが重ねて尋ねると、ソウマは、「姫子が生きている。それだけでいい」と答えた。
そして、結ばれた姫子と千歌音も、ソウマに後ろめたい気持ちも哀れみも持たず、むしろ、3人は愛情を持ち合うのであるが、それが自然に見えるのである。
この世界での宿命は我々にはどうにもならない。しかし、そんなことはどうでも良いではないか?
『荘子』にもあるが、銅が、「俺は名剣になりたい」と言ったところで、どうなるものでもない。我々も同じである。
しかし、それは、我々が自分を、その銅のようなものだと思っているので、思い通りにならないと「残念だ」とか「悔しい」と思ったりするのだ。
だが、我々は、銅でもこの身体でも、そして心ですらない。言ってみれば、心よりももっと高いものだ。それが分からないので、色々なものに執着するのだ。
下手に名剣になることが叶うと、もっと大切なものを失うのである。それは、自分が本当は何者であるかという秘密である。
銅を自在に扱う鋳物師のように、我々の運命を決める何者かもあるのだろう。そのようなものを、インドでは「それ」とか「彼」と言うことが多いが、それは、言葉で、例えば神と言えば、人によって意味が異なるからだ。ご存知のように、神という言葉は人間にとって、かなりの抽象概念である。老子や荘子では、「名付け得ないが、とりあえず道(タオ)と名付ける」と言ったりしている
我々は、「それ」あるいは「道」に任せ切り、心安らかでいれば、自ら「それ」であることが分かる。
そうなれば、全てを手に入れるのではなく、元々が、全て自分のものであることが自明になる。
『荘子』にある、泥棒に盗まれはしないかと心配しなくても、天下を天下の中に隠せば安心だということになるのである。
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