第二次世界大戦後、アメリカは日本人に二宮尊徳を崇めるよう扇動したことをご存知だろうか?
小学校などによく石像がある、牧を背負って本を読む勤勉な姿が二宮尊徳のシンボル(象徴)である。
なぜか二宮尊徳のようであることが特別に奨励され、そのように学校に石像まで置かれるようになった原因はアメリカにあった。
それなら、日本人がかくも勤勉なのは、アメリカのおかげであろうか?
そうであるが、それが良いことなのか?
だいたい、牧を背負って本を読むというのは、立派というよりは滑稽であると気付かないといけない。
今の日本人はそれほど勤勉ではないと思われるかもしれないが、今でも、金次郎(尊徳の通称)的な奇妙な勤勉さから離れられない日本人は多いのだ。
過労死するまで働いたり、必要もない自動車を作って無理にでも売るという勤勉さが誰を幸福にするのか?
さらに、勤勉に儲けるためには、自然環境を最も平気で破壊する国は日本である。この理由も二宮尊徳にあるかもしれないが、それについて説明する。
二宮尊徳は、老子を批判したと言われる。
尊徳は、老子の思想を、道教の根本である「無為自然」であるとする。無為自然とは、自然にあるがままに任せ、作為をしないという意味だ。これは、どちらかというと、老子よりは荘子の思想であるが、それはまあ良いとしよう。
尊徳は、「田畑を無為自然で放置すると荒れ果て、収穫が出来ない。人が勤勉に手を加えてこそ、豊かな実りが得られる」と、老子の無為自然の思想の誤りを指摘する。あるいは、「家は、無為自然で放っておくとあばら家になる。勤勉に手入れ(メンテナンス)してこそ、長持ちし、快適に住める」とも言う。
私は、尊徳がこんなことを主張したこと自体、捏造と思っている。これでは、まるで、老子に対する程度の低い難癖である。
先程も述べた通り、無為自然は老子というより荘子の思想であるが、荘子にしたって、無為自然を、そんな馬鹿な意味で説いたりはしない。
もし、本当に尊徳がそんなことを言ったとしたら、尊徳は馬鹿だったということだが、そんなことは信じられない。
『老子』は深い思想書であり、そのような場面に持ち出すべきものでもないので、尊徳が言ったとされる老子の思想の弁明はしない。それを言葉でやると、無知な人はかえって誤解するかもしれないからだ。また、そのことこそが、これまで、尊徳の老子批判とされるものに異論が出なかった理由でもある。
とにかく、本当は尊徳はそんなことは言っていないが、これが何と日本人の思想に入り込んでしまった。
それで、「自然を征服する」という思想が日本人に強まり、経済のために自然を犠牲にするのはやむを得ないという思想が根付いてしまったのだ。
さすがに危険な薬物の混じった排水を海に流すのは自分の首を絞めると気付き、そこまでの馬鹿はしなくなったが(かつては平気でやっていたが)、自分達に不利益が無いなら、これほど平気で自然を破壊する国民も珍しいのだ。
だが、本来、日本人には、自然と争ったり、まして、征服しようなどという思想はなく、自然を崇拝し、自然と共存することを目指す民族だったのにだ。
そして、少し前までは、論理的に考えれば、絶対に自然のためにならない原発も疑わなくなってしまっていたのだ。
だが、それも、日本に原爆を投下した罪に対する罰を受け入れるつもりのないアメリカの意思が働いているのである。
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小学校などによく石像がある、牧を背負って本を読む勤勉な姿が二宮尊徳のシンボル(象徴)である。
なぜか二宮尊徳のようであることが特別に奨励され、そのように学校に石像まで置かれるようになった原因はアメリカにあった。
それなら、日本人がかくも勤勉なのは、アメリカのおかげであろうか?
そうであるが、それが良いことなのか?
だいたい、牧を背負って本を読むというのは、立派というよりは滑稽であると気付かないといけない。
今の日本人はそれほど勤勉ではないと思われるかもしれないが、今でも、金次郎(尊徳の通称)的な奇妙な勤勉さから離れられない日本人は多いのだ。
過労死するまで働いたり、必要もない自動車を作って無理にでも売るという勤勉さが誰を幸福にするのか?
さらに、勤勉に儲けるためには、自然環境を最も平気で破壊する国は日本である。この理由も二宮尊徳にあるかもしれないが、それについて説明する。
二宮尊徳は、老子を批判したと言われる。
尊徳は、老子の思想を、道教の根本である「無為自然」であるとする。無為自然とは、自然にあるがままに任せ、作為をしないという意味だ。これは、どちらかというと、老子よりは荘子の思想であるが、それはまあ良いとしよう。
尊徳は、「田畑を無為自然で放置すると荒れ果て、収穫が出来ない。人が勤勉に手を加えてこそ、豊かな実りが得られる」と、老子の無為自然の思想の誤りを指摘する。あるいは、「家は、無為自然で放っておくとあばら家になる。勤勉に手入れ(メンテナンス)してこそ、長持ちし、快適に住める」とも言う。
私は、尊徳がこんなことを主張したこと自体、捏造と思っている。これでは、まるで、老子に対する程度の低い難癖である。
先程も述べた通り、無為自然は老子というより荘子の思想であるが、荘子にしたって、無為自然を、そんな馬鹿な意味で説いたりはしない。
もし、本当に尊徳がそんなことを言ったとしたら、尊徳は馬鹿だったということだが、そんなことは信じられない。
『老子』は深い思想書であり、そのような場面に持ち出すべきものでもないので、尊徳が言ったとされる老子の思想の弁明はしない。それを言葉でやると、無知な人はかえって誤解するかもしれないからだ。また、そのことこそが、これまで、尊徳の老子批判とされるものに異論が出なかった理由でもある。
とにかく、本当は尊徳はそんなことは言っていないが、これが何と日本人の思想に入り込んでしまった。
それで、「自然を征服する」という思想が日本人に強まり、経済のために自然を犠牲にするのはやむを得ないという思想が根付いてしまったのだ。
さすがに危険な薬物の混じった排水を海に流すのは自分の首を絞めると気付き、そこまでの馬鹿はしなくなったが(かつては平気でやっていたが)、自分達に不利益が無いなら、これほど平気で自然を破壊する国民も珍しいのだ。
だが、本来、日本人には、自然と争ったり、まして、征服しようなどという思想はなく、自然を崇拝し、自然と共存することを目指す民族だったのにだ。
そして、少し前までは、論理的に考えれば、絶対に自然のためにならない原発も疑わなくなってしまっていたのだ。
だが、それも、日本に原爆を投下した罪に対する罰を受け入れるつもりのないアメリカの意思が働いているのである。
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