自動車が事故を起こして、乗っていた人たちが大怪我をした中で、眠り込んでいたいた人が意外に無傷であったという話がよくある。
これに関連して、いくつかの興味深い話を上げてみよう。
「格闘王」と呼ばれた、元プロレスラーの前田日明さんは、空手家を目指していた高校時代、「修行」として、夜の街でケンカ相手を求め、実践経験を積んでいた。呆れたことに、大相撲の力士にも、眼を付けて(睨み付けて)喧嘩を売り、さすがにさっぱり相手にされなかったようだが、本当になりふり構わずだったようだ。その中で、普通の人間でも、酒が入っていると意外に打たれ強いことに驚いたということを自伝の中で述べている。
そして、C.トーチェの「トーチェ氏の心の法則」の中の話だが、2人の酔っ払いが、通りに面したドアを開けて外に出たつもりが、それは4階の窓だった。はすさまじい音と共に2人は落下したが、彼らは気分良く歌を歌いながら歩いていったという。彼らはただ、何かにつまづいて転んだのだと思ったのだった。
中国の古典「列子」の中に、やはり、酔っ払いは、車から落ちても、けがをすることはあっても死んだりはしないとある。それは、無心の境地にあり、恐怖心が無いからだという。酔いがもたらす無心でさえそうなのだから、全て天にまかせて絶対的に心静かである聖人が傷付くことは決してないのだという。
同じく「列子」の中に、無知な乞食の老人が、そそのかされて塔の上から飛び降りた話がある。彼を騙すつもりで、そこにいた者達がいまにも飛び降りようとしていた中で、その乞食の老人が真っ先に飛び降りたのだが、彼はかすり傷一つ負わなかった。また、彼はやはりそそのかされて、底知れぬ淵の底から宝珠を取ってきたり、燃え盛る蔵の中に飛び込んで悠々と貴重品を運び出した。後で、騙されていたことを知った老人は恐怖に震えた。
何度かこのブログでも書いたが、私は幼い頃、目をつぶって車道に飛び出せば車は来ないと信じていて、住んでいた団地の前の道路でいつもそうしていた。あまりに車が多かったが、遠くの信号機まで行くのも面倒だったからだ!(これぐれも真似しないで欲しい)
私が子供の頃に見たものだが、昔の時代劇で、任侠の徒を気取る若いチンピラが、やくざ一家に脅されているらしい宿屋の女主人を見て義侠心を起こし、自分がそのやくざどもをやっつけてやると胸を叩いた。真夜中、すさまじい形相のまま冷たくなって放置された彼の死体があった。大勢でめった切にされたのだろう。
私は、子供心に、自分の勝利を信じているなら勝つはずだと思っていたので、やや戸惑ったが、今思えば、こいつは、酒でもひっかけていれば、ちょっとは善戦できたのだと思う。もちろん、余計なことに見栄で関われば死は免れまいが、あんな死に顔を残すようなら無心にはほど遠く、一人も切れずに果てたのだろう。
人は、必ず出来ると信じることが出来れば、いかなることも出来る。
だが、信じる方法を知らない。
信じるとは、「俺は出来る」と呪文のように唱える(アファーメーションと言う)ことではない。むしろ、それでは逆効果だ。
そうではなく、信じることの出来ない自我を消すことだ。それには、真の自己を信じ、自我の自分としては無(ゼロ)になることである。上の「列子」では、天に任せると表現されていた。
それが出来れば、どんな奇跡でも実現できるのである。
具体的な方法は、手を変え品を変え提供しているつもりだし、今後はもっと良いものが出せるだろう。
最も良い方法は、食を厳しく慎むことである。また、性欲を抑えることも良い訓練となる。これらは、意思を鍛え、心の支配力を強くするのである。
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これに関連して、いくつかの興味深い話を上げてみよう。
「格闘王」と呼ばれた、元プロレスラーの前田日明さんは、空手家を目指していた高校時代、「修行」として、夜の街でケンカ相手を求め、実践経験を積んでいた。呆れたことに、大相撲の力士にも、眼を付けて(睨み付けて)喧嘩を売り、さすがにさっぱり相手にされなかったようだが、本当になりふり構わずだったようだ。その中で、普通の人間でも、酒が入っていると意外に打たれ強いことに驚いたということを自伝の中で述べている。
そして、C.トーチェの「トーチェ氏の心の法則」の中の話だが、2人の酔っ払いが、通りに面したドアを開けて外に出たつもりが、それは4階の窓だった。はすさまじい音と共に2人は落下したが、彼らは気分良く歌を歌いながら歩いていったという。彼らはただ、何かにつまづいて転んだのだと思ったのだった。
中国の古典「列子」の中に、やはり、酔っ払いは、車から落ちても、けがをすることはあっても死んだりはしないとある。それは、無心の境地にあり、恐怖心が無いからだという。酔いがもたらす無心でさえそうなのだから、全て天にまかせて絶対的に心静かである聖人が傷付くことは決してないのだという。
同じく「列子」の中に、無知な乞食の老人が、そそのかされて塔の上から飛び降りた話がある。彼を騙すつもりで、そこにいた者達がいまにも飛び降りようとしていた中で、その乞食の老人が真っ先に飛び降りたのだが、彼はかすり傷一つ負わなかった。また、彼はやはりそそのかされて、底知れぬ淵の底から宝珠を取ってきたり、燃え盛る蔵の中に飛び込んで悠々と貴重品を運び出した。後で、騙されていたことを知った老人は恐怖に震えた。
何度かこのブログでも書いたが、私は幼い頃、目をつぶって車道に飛び出せば車は来ないと信じていて、住んでいた団地の前の道路でいつもそうしていた。あまりに車が多かったが、遠くの信号機まで行くのも面倒だったからだ!(これぐれも真似しないで欲しい)
私が子供の頃に見たものだが、昔の時代劇で、任侠の徒を気取る若いチンピラが、やくざ一家に脅されているらしい宿屋の女主人を見て義侠心を起こし、自分がそのやくざどもをやっつけてやると胸を叩いた。真夜中、すさまじい形相のまま冷たくなって放置された彼の死体があった。大勢でめった切にされたのだろう。
私は、子供心に、自分の勝利を信じているなら勝つはずだと思っていたので、やや戸惑ったが、今思えば、こいつは、酒でもひっかけていれば、ちょっとは善戦できたのだと思う。もちろん、余計なことに見栄で関われば死は免れまいが、あんな死に顔を残すようなら無心にはほど遠く、一人も切れずに果てたのだろう。
人は、必ず出来ると信じることが出来れば、いかなることも出来る。
だが、信じる方法を知らない。
信じるとは、「俺は出来る」と呪文のように唱える(アファーメーションと言う)ことではない。むしろ、それでは逆効果だ。
そうではなく、信じることの出来ない自我を消すことだ。それには、真の自己を信じ、自我の自分としては無(ゼロ)になることである。上の「列子」では、天に任せると表現されていた。
それが出来れば、どんな奇跡でも実現できるのである。
具体的な方法は、手を変え品を変え提供しているつもりだし、今後はもっと良いものが出せるだろう。
最も良い方法は、食を厳しく慎むことである。また、性欲を抑えることも良い訓練となる。これらは、意思を鍛え、心の支配力を強くするのである。
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わざわざ火の中に飛び込もうとは思いませんが、「痛い」と思わせる前に注射を終わらせてくれると、親切な人だなと感じます。
筋肉が緊張したり、抵抗したり、力むと、筋繊維も壊れますし、
信頼と消力は、近いような気がしました。