昔、成功に関するある本を読んでいて、「ああ、私は成功には縁が無いかもしれないなあ」と思ったことがある。
その本は、アメリカのマーブル教会の牧師であるノーマン・ビンセント・ピールが書き、1959年に出版するや驚異的な販売記録を上げた、「積極的な考え方の力」だ。その本の中で、ピールは、出会う人ごとに「祈りを砲撃」をせよということを書いていた。具体的には、「この人に全ての良きことが雪崩れのごとく押し寄せますように」と念じろというのである。
近頃では、銀座まるかんの創業者である斎藤一人さんが、同じことを著書の中によく書かれていると思う。
正直、私には出来ない相談である。
そりゃ、やるだけなら当然出来るし、実際に何日かやってみたが、その不自然さ、異様さは耐え難かった。
大体、自分に良いことを引き寄せるために、上辺だけ、他人への愛や思いやりを示すなんて、下心たっぷりで女の子にプレゼントをするようなものである。いや、それよりずっと悪い。女の子にプレゼントをする時は、元々、自分でも愛や善意で無いと分かっているので、自分を欺いてはいない。また、その場合、本当に純粋な子を相手にすることは無い。予想に反して純粋な子だったら、さっさと謝るし、そもそも、相手にされないだろう。
しかし、祈りは純粋であるべきだ。それを偽りの気持ちで行えば、良心に反することであるので、後ろめたさを感じ、心が分裂するのである。
そんな嫌な思いまでして、金持ちにはなりたくないものだと思ったのだし、やっても成功しないだろう。
大体、そんなことを、本当に愛の気持ちでやれる人間がいるなど、私には信じられない。また、偽りと気付きつつ、後ろめたさも感じずに、それをずっとやれる者がいるとなると、人間不信とならざるを得ないだろう。
例えば、あなたが最も好ましく思う人物が、そのようなことをする姿を自然に感じるだろうか?もしそう思えるなら、その人物に対するあなたの認識は単なる幻想なのである。
さらに言えば、なぜ人々が、あなたに良きことを祈ってもらわねばならないのか?彼らは、力ある存在であり、余計なことをしなくても、自らの力で全てをなし得るだろう。そう思ってあげる方がずっと良いのではないだろうか?
イエスも、「汝の隣人を愛せよ」とか「父母を敬え」と教えているが、私が、元々キリスト教に違和感を感じていたのも、これが理由だった。
ただし、イエスは祈るだけでなく、具体的な行動を要求したのだ。それなら、たとえ心がこもっていなくても、力になってやれる。善意はやはり形で示すものだ。
そして、私と同じことを考えたかもしれない偉人がいた。
彼は、アンチ・キリストだった。だが、イエスの能力といったものは評価していた。それは、イエスの比喩を使って話す言葉の力だ。彼は、詩人で劇作家でもあったからだ。
その人物は、アイルランドのW.B.イェイツだ。20世紀最大の詩人とも言われるノーベル賞作家である。
彼は、実に、人間は愛することは出来ないと言ったのだ。なぜなら、愛は神の領域のものであるからだ。
ただ、人は憎むことをやめることは出来るという。なぜなら、憎しみは、人の領域のものであるからである。
そして、イェイツは、少なくとも、本物の愛の手前には至ったのだ。不意に、それは彼に訪れた。全てを肯定する崇高なる意識と1つになったのだ。彼には、それがどうやって起こるのかは分からなかった。ただ、憎むのをやめた時に起こりやすいと感じた。
憎むのをやめるというのも、決して易しいことではないが、これであれば、私にも可能であると思われるのだ。
人の心とは、憎むことは出来るが、愛することは出来ないのだ。だが、憎むことが出来るなら、それをやめることも出来るはずだ。
愛と見えるものは、ただの欲望という執着である。人は、欲望を愛と取り違えているだけだ。
では、どんな時、人は愛していると言えるのだろう。それは、実に、憎しみの主である心が消えた時なのだ。
インドのヒンズー教や中国の老荘思想では、心が消えた状態が悟りであり、永遠の存在と一体になることだと教えているのだ。
個々の目標を定めなくても、心が消え、永遠の存在と一体となれば、あらゆることが可能である。
逆に、わざとらしく、他人を思いやる振りをし、愛することが出来る振りをすれば、ますます自我を強固にし、迷い苦しむことになるのだ。
愛さなくてもいい。憎むのをやめれば良いのだ。そうすれば、人生はきっと耐えやすいものになるだろう。
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その本は、アメリカのマーブル教会の牧師であるノーマン・ビンセント・ピールが書き、1959年に出版するや驚異的な販売記録を上げた、「積極的な考え方の力」だ。その本の中で、ピールは、出会う人ごとに「祈りを砲撃」をせよということを書いていた。具体的には、「この人に全ての良きことが雪崩れのごとく押し寄せますように」と念じろというのである。
近頃では、銀座まるかんの創業者である斎藤一人さんが、同じことを著書の中によく書かれていると思う。
正直、私には出来ない相談である。
そりゃ、やるだけなら当然出来るし、実際に何日かやってみたが、その不自然さ、異様さは耐え難かった。
大体、自分に良いことを引き寄せるために、上辺だけ、他人への愛や思いやりを示すなんて、下心たっぷりで女の子にプレゼントをするようなものである。いや、それよりずっと悪い。女の子にプレゼントをする時は、元々、自分でも愛や善意で無いと分かっているので、自分を欺いてはいない。また、その場合、本当に純粋な子を相手にすることは無い。予想に反して純粋な子だったら、さっさと謝るし、そもそも、相手にされないだろう。
しかし、祈りは純粋であるべきだ。それを偽りの気持ちで行えば、良心に反することであるので、後ろめたさを感じ、心が分裂するのである。
そんな嫌な思いまでして、金持ちにはなりたくないものだと思ったのだし、やっても成功しないだろう。
大体、そんなことを、本当に愛の気持ちでやれる人間がいるなど、私には信じられない。また、偽りと気付きつつ、後ろめたさも感じずに、それをずっとやれる者がいるとなると、人間不信とならざるを得ないだろう。
例えば、あなたが最も好ましく思う人物が、そのようなことをする姿を自然に感じるだろうか?もしそう思えるなら、その人物に対するあなたの認識は単なる幻想なのである。
さらに言えば、なぜ人々が、あなたに良きことを祈ってもらわねばならないのか?彼らは、力ある存在であり、余計なことをしなくても、自らの力で全てをなし得るだろう。そう思ってあげる方がずっと良いのではないだろうか?
イエスも、「汝の隣人を愛せよ」とか「父母を敬え」と教えているが、私が、元々キリスト教に違和感を感じていたのも、これが理由だった。
ただし、イエスは祈るだけでなく、具体的な行動を要求したのだ。それなら、たとえ心がこもっていなくても、力になってやれる。善意はやはり形で示すものだ。
そして、私と同じことを考えたかもしれない偉人がいた。
彼は、アンチ・キリストだった。だが、イエスの能力といったものは評価していた。それは、イエスの比喩を使って話す言葉の力だ。彼は、詩人で劇作家でもあったからだ。
その人物は、アイルランドのW.B.イェイツだ。20世紀最大の詩人とも言われるノーベル賞作家である。
彼は、実に、人間は愛することは出来ないと言ったのだ。なぜなら、愛は神の領域のものであるからだ。
ただ、人は憎むことをやめることは出来るという。なぜなら、憎しみは、人の領域のものであるからである。
そして、イェイツは、少なくとも、本物の愛の手前には至ったのだ。不意に、それは彼に訪れた。全てを肯定する崇高なる意識と1つになったのだ。彼には、それがどうやって起こるのかは分からなかった。ただ、憎むのをやめた時に起こりやすいと感じた。
憎むのをやめるというのも、決して易しいことではないが、これであれば、私にも可能であると思われるのだ。
人の心とは、憎むことは出来るが、愛することは出来ないのだ。だが、憎むことが出来るなら、それをやめることも出来るはずだ。
愛と見えるものは、ただの欲望という執着である。人は、欲望を愛と取り違えているだけだ。
では、どんな時、人は愛していると言えるのだろう。それは、実に、憎しみの主である心が消えた時なのだ。
インドのヒンズー教や中国の老荘思想では、心が消えた状態が悟りであり、永遠の存在と一体になることだと教えているのだ。
個々の目標を定めなくても、心が消え、永遠の存在と一体となれば、あらゆることが可能である。
逆に、わざとらしく、他人を思いやる振りをし、愛することが出来る振りをすれば、ますます自我を強固にし、迷い苦しむことになるのだ。
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ただ、私は自分の子供に対しては愛のようなものを感じます。それは、自分に子供が出来るまで肉親やどんな親しい人に対しても抱くことの無かった初めての感覚でした。
大抵の親というものは子供に対しては自分の命より大事だと思えるものだと思います。
まあ、子供が大きくなっていくにつれてその思いがどう変わっていくかは分かりませんが(笑)