老子と荘子の思想を合わせて老荘思想と言われるのはまあ良いとしても、これを道教という宗教のように扱われることには問題があると思う。別に老子や荘子は宗教ではない。確かに、中国には、道教という宗教もあるのかもしれないが、それは、なりゆき上、そうなっただけであると思う。
そもそもが、仏教やキリスト教にしたって、釈迦が仏教という宗教を作ったわけではないし、イエスがキリスト教という宗教を作ったわけではない。後の世の人達が、彼らの教えを使って、それらの宗教を作ったのであり、言って見れば、これらも、なりゆき上、そうなっただけだ。
実際、キリスト教徒ではないが、イエスの教えを学んでいたり、仏教徒ではないが、釈迦の教えを学んでいるという人も多いのである。
ゲーテ、カント、ヘレン・ケラーらが崇敬したエマニュエル・スウェーデンボルグは、教会からは火あぶりの刑にされかけたが、イエスの教えを伝統的なキリスト教とは全く異なる形で崇拝していたし、アメリカ最高の哲学者ラルフ・ウォルドー・エマーソンも、教会に用は無かったが、イエスの教えには重きを置いていた。宇宙人とのコンタクティーとして知られるジョージ・アダムスキーも、自分はクリスチャンではないが、イエス自身の偉大さと、その教えの崇高さは認めていると言っていた。

イエスの教えも、釈迦の教えも、形の違いはあっても、根源的な真理を説いているのであり、その点は、老子や荘子も同じである。
ところで、イエスの教えを弟子達が書いた福音書や、釈迦の教えを書いた経典も、必ずしも悪意ではないだろうが、改ざん、誤訳、そして、後の世の付け加えも多く、必ずしも純粋な形で伝わっていない。その点は、老子や荘子にも無い訳ではないが、聖書や経典に比べれば、マシなのではないかと思われる。そして、老子や荘子の良いところは、教えを説いた者自体が著述したということである。この点も、必ずしもそうとは断言できないし、特に、老子に関しては、老子という人物の実在が疑われているが、老子全81章には内容や文体の一貫性が認められ、一人の賢者が書いたものであろうと考えられている。荘子に関しては、少なくとも、内編(他に、外編、雑編がある)は、荘子本人の著述であろうと言われている。それはともかく、老子、荘子の内容の素晴らしさは疑いようもなく、釈迦やイエスの教えと同等であると言っても良いと思う。そこで、宇宙の真理を、手軽にと言っては何であるが、比較的、誤解の恐れが少なく学べるものとして薦められるのである。道元や良寛も、荘子を読んで、その英知に惹かれたようである。

老子と荘子は実際にはかなり異なる。老子の方が荘子より百年ほど前で、老子と孔子が同時代であるという説が割合に有力と思う。実際、荘子の中には、老子が何度も引用されており、孔子は、あまり良い役回りではないことが多いが登場させられている。
老子はエッセイ的、あるいは、論文的であり、ほとんど固有名詞(人名、地名等)はなく、普遍的真理を述べ、非常に重厚で、神秘的に感じるかもしれない。一方、荘子は、やはりエッセイ、論文的な箇所もあるが、全体的には物語的な記述が多く、読みやすく面白い。
いきなり老子を読んで、意味が分かる人はいないと思うし、それどころか、ずっと分からないままということが多いというか、それが普通かもしれない。だが、荘子は、その深い意味はともかく、読んでいて理解できないということは、まあ、ない。
ただ、老子は、理屈で理解するものではないと思う。無心に読んでいれば、頭では分からなくても、深い心に感じるものがあり、いつしか、真理をものにするというものである。むしろ、頭で分かろうとしない方が良いと思う。

面白いのは、荘子は、世間常識を破壊するための書であるとも言われるが、それは、2千年以上前のことだけでなく、現代においても全くそう言えるのである。世間というものがいかに進歩しないかということは驚くべきものである。
尚、物語という意味では、列子も面白い。列子は、伝説の寄せ集めのように思われ、タオイズムの書としては、老子、荘子の後に置かれることが多いが、実は、列子こそ、最高の知恵の書と見る者もいる。
老子、荘子、列子を読み、世間の教義や信念を超え、真理をものにすれば、世間から見れば、神秘な力を得ることになるだろう。それは不思議なことではなく、人の力を制限しているのは世間の妄念や偏見であるのだから、当然のことと思う。







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