ブルース・リーの主演映画「燃えよドラゴン」の冒頭部分で、主人公の若き武道家リー(役名と役者名が同じ)が、老師に、「お前が求める究極の技は?」と問われ、「技を持たないこと」と即答したのが印象深い。推測だが、これはブルース・リーの武道家としての主張をそのまま取り入れたのだろう。
ところで、ブルース・リーが主演することを希望していたが、デビッド・キャラダインがその役をすることになった、3年にも及んだアメリカのテレビドラマ「燃えよ!カンフー(原題はカンフー)」は、リーも企画に関わっていたようだが、この作品の中で、少林寺の高僧が言う「少林寺の教えを受けた者は、見ても見えず、聴いても聴こえず、触っても指に感じない」というのも、武道の真髄、いや、宇宙の真理を表していると感じる。
「燃えよドラゴン」で、リーはその後、「自分が在なければ敵は在ない」と言うのである。

モーツァルトは、「音楽の究極の技法は?」と問われ、「音楽を用いないこと」と答えている。
サン・テグジュペリの「星の王子様」の最も重要な言葉は、「本当に大切なものは目に見えない」ではないだろうか?

だが、我々は、見えないもの、あるいは、五感で感じないものを、全く信じることができないようになってしまった。神、天使、妖精は、ただのメルヘンの世界のものでしかなくなった。神といったら宗教臭くて嫌だとか、地震や津波などの自然現象を司る妖精の話は頭から馬鹿にするのだろう。
だが、視力も聴力も持たなかったヘレン・ケラーが、「五感は幻想、理念(深い意味で捉える必要がある)が真理」と言うのである。彼女は、世界の人々に奉仕をするのに、自分の障害を何の不都合とも考えていなかった。

世界の中で、目に見えるもの、五感で感じるものなど、ほんの僅かだ。
心は、五感で感じることしか分からないが、意識の大部分を占める潜在意識を心は感じることができない。ほんの少し、胸や腹に様々な感覚として伝わってくる程度だ。例えば、胸の痛みとか、腹の違和感などである。だが、その感覚は非常に重要なものである。
つまるところ、心や五感は、世界についても、自分についても、ほとんど知らないのだ。
見えないものの存在を信じないということは、世界や自分を、実際よりなんとも小さく考えてしまっているということだ。
真に大きな存在、真に偉大な存在は、見ても見えず、聴いても聴こえず、触っても指に感じないのである。

だが、見えはしなくても、その影響なら感じることが出来る。古来から、魔法というものは、その影響を通して、見えないものとのつながりを作る技術なのだ。
アメリカの精神医ミルトン・エリクソンは、そのあまりに見事な治療のため、魔法を使って治しているのではないかと言われるほどだったが、実際、彼は魔法と同じ方法を使っていたのだ。
潜在意識に至る道は、潜在意識に入り込んだ、個人的、民族的なものの影響が大きい。それは幻想と言って良い。このあたりは、吉本隆明さんが「共同幻想論」でも述べている通り、個人幻想、対幻想、共同幻想などに分けられるのかもしれないが、結局のところ、対幻想(主に家族間の幻想)や共同幻想(国や民族レベル)も、個人幻想の中にあるのだ。だから、我々が自分の幻想を消せば、我々は潜在意識という宇宙に通じるのである。
我々は、自分の心の作用をよく知らないといけない。心がどう反応するのか、どんな反射作用があるのか、常に見張っている必要がある。
そして、我々の心の中に隠れているものを見つけやすくする工夫が必要だ。何だかんだ言っても、人は自分が育った国の伝統の影響を受けている。なら、それを知らなければならない。神道家の葉室頼昭さんが、常に古事記を読めと言っていたが、やはりそれが、我々が自分を知る良い方法なのだ。尚、国は違っても、ギリシャ神話、旧約聖書、易経や老子(道徳経)などは、やはりよく似ているので、読めば役に立つだろう。
ソクラテスが「汝自身を知れ」と言い、ラマナ・マハルシが「私とは何か?」という問題を提起したが、我々は、その解答に容易くたどり着く時が来たのだ。







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