先月(2011年5月)の6日に亡くなられた、官能小説家の団鬼六さんのTwitterは、今も運営されている。私は団さんの本は読んだことがないし、Twitterで見る彼の思想もあまり好きではなかったが、時に非常に光ることが書かれていて、捨てがたくフォローし続けている。
昨日も、素晴らしいことが書かれていた。団さんは、教員をしていたこともあったらしいが、昭和30年代であろうか。彼は、生徒の親が、魚や大根やらを持ってきたら、すぐに成績を上げていたという。妻が怒ったら、「教師に品物を届けたら必ず成績があがる、それを知るのも勉強だ」と言ったらしい。半ば冗談なのだろうが、とても良い。素晴らしい教師だ。

魚や大根だから良いという面もある。これが、金や高価な品物であれば・・・まあ、団さんはこだわらずに受け取るのかもしれないが(笑)・・・勉強にならない。成績なんて、魚や大根ほどの価値もないからである。
いや、昭和30年代なら、貧しい家庭もあり、魚や大根も持っていけない親もいる。やはり賄賂は駄目だと、真面目に考える人もいるかもしれない。しかし、そんな貧しい家の子が、他の子が魚や大根で成績を上げているという悔しさを味わうことほど良いことは無い。すると、それを見返そうと、一生懸命勉強するようになるかもしれない。そうやって成績を上げることは、今のように、良い学習塾で勉強していい学校に進学し、優越感を持ったり、将来、偉くなるといった欲に塗れたことを考えるより余程良いことだ。
そして、もっと良いのは、教師に賄賂(笑)を持っていける家の子自体が、後ろめたく思ったり、貧しい家の子のことを気遣うようになることだ。滅多にはいないとは思うが、百人に1人でも、そんなことを考えるようになれば素晴らしいことだ。自分の成績の餌の大根(笑)を半分、貧しい子に分けてあげたり、自分も、親に対し、教師に品物を届けないよう頼んだりするなら、それは成績どころではない、一生の財産になるだろう。
まあ、そんな細かいことを考えずに、素直に親に感謝し、偉くなった時に、「私の親は教師に大根を持っていったので、私はそこそこの成績が取れた。感謝している」とあっけらかんと言えば、日本の教育はもっと良くなるだろう。繰り返すが、成績なんてその程度のものなのである。

ひろさちやさんは、東大を出ているが、子供たちに、「お父さんの成績はどうだった?」と聞かれたら、憶えていないと答えていたという。お父さんは、自分が一番だと思っていたので、もし試験の成績が1番じゃなかったら、それは試験問題の方が悪いと思っていたと答え、子供たちを驚かせたらしい。ただ、この話は嘘で、ひろさんがこんなことを言ったには、子供たちに成績なんか気にしないで欲しいと思ったからなのだそうだ。

今の教育を改革する第一歩は、成績より、魚や大根の方がよっぽど価値があることを認識することだ。
本当に知的な人というのは、それを学校で学んだということはまず無い。むしろ、学校で教わったことが間違ったことであると早く理解し、実践を通して自分で学んで賢くなったのだ。
また、学校で強制される、狂気と断言できる膨大なカリキュラムなどに構わず、おそらく、その2割も無い必要なことを勉強すれば十分である。むしろ、無理に学校に付き合わされて、あげく大学まで出ながら小学校の算数も分からない馬鹿なことになるよりずっと良い。何より、せっかくの若い素晴らしい日々に、もっと良いことを学ばねばならない。学校では意図的に大部分を閉ざしている上級生や下級生との交流や、地域、そして、学校の外にいる立派な大人達と交流することで、子供たちは本当に素晴らしいことを学べるのである。







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