ほとんどの人が、数え切れないほどの試験を受けた経験があるだろう。
入学試験、学校の試験、就職試験、資格試験、昇格試験・・・世間は試験だらけである。
だが、こんな言葉がある。
「普通の人は能力で選ばれ、深い人は人物で選ばれる」
真に優れた人の態度や振舞いは、高貴な芸術品のようなものだ。
一方、選ばれる能力は、単に選ぶ側の都合だ。高級牛肉と言われても、牛は有り難くはないだろう。

セザンヌはサロン(サロン・ド・パリ)というパリ芸術アカデミーの公式展覧会に合格したこともなかった。一度コネで合格したところ、コネを働いた者は「あんなひどい絵を合格させるとは何事」と言われ、ひどい目に遭ったという。
試験というものは、主催者の定めた基準があり、受験者はそれに合わせないといけない。そうでなければ、セザンヌやマネだって合格しない。
池田満寿夫さんは、東京芸大の試験に3年連続落ち、東京国際版画ビエンナーレ展でも、ほとんどの審査員は評価しなかったが、ドイツ美術界の権威であったグローマン博士が一貫して支持し、賞を受けたといわれる。
アインシュタインはチューリッヒ工科大学の試験に合格出来なかったが、制度を利用して無試験で入学したのである。だが、卒業試験では、「1年は創造的思考ができなくなった」程の苦痛を味わったという。

「あしたのジョー」で、矢吹丈がボクシングのプロライセンス試験を受けた時、筆記試験の「防御法を3つあげよ」という問題に、「3つも必要ない。必要なのはたった1つ。即ち攻撃だ」と解答する。
似た話が、1993年のテレビドラマ「チャンス」にある。国際的なミュージカルの主演者がオーディションで決められることになり、主人公の本城裕二がなりゆきで応募させられる。試験は、課題曲、演技、そして、オリジナル曲の歌唱を1日ずつ実施し、それぞれで合否が決められてふるいにかけられていく。だが、本城は、最初の日の課題曲も歌わず、「オリジナル曲の日に来る」と言って去る。だが、なぜか本城に合格通知が届き、さらに、次の演技試験にも行かなかったが、これにも合格通知が来た。結局、本城は採用されなかったが、主催者の大物ディレクターは、本城に最も心惹かれていたのだった。本城の口癖は「小さくまとまんなよ」だった。

昨今、就職活動は厳しいと言われる。
都市伝説かもしれないが、今でもよく知られる、株式会社サッポロビールの就職試験の逸話がある。
1970年代のことだが、サッポロビールには、「男は黙ってサッポロビール」という有名なキャッチコピーがあり、ハリウッド俳優の三船敏郎さんがイメージキャラクターをしていた。その頃のことだ。面接試験に訪れた男子学生は、どんな質問をされても何も答えず、退室を指示された時に一言、「男は黙ってサッポロビール」と言い残して去って行き、それで彼は採用されたという。
中島敦の「名人伝」を読むと、弓の究極の極意は「不射の射」、即ち、矢を射ないことだと分かる。試験の極意もまた、試験を受けないことである。

我々も本当は、矢吹丈や本城裕二、そして、サッポロビールの男子学生のように、規格を超越した者のように振舞いたいはずだ。
彼らを見ると、試験にちんまり受かる者がちっぽけに思われ、試験の主催者が決めた基準に平伏して人格を捨てたような自分が惨めになってくる。
そして、実際、他人の決めた優劣に必死に合せて合格した者は、一生、他者に操られ、本当の自分を殺し、偽りの自分のまま死ぬことになる。

「ホメーロス讃歌」という、詩聖ホメーロスの詩風を真似て、ギリシャ神話の神々の物語を語った多くの詩がある。
豊穣の女神デーメーテールの物語は、その中でも長いものだが、こんな一節がある。
デーメーテールは、愛娘コレーを、自分の兄弟である冥界の王ハーデスに奪われ、失意の中、老婆に身をやつし、ある国にいた。人々は、きたならしい風のデーメーテールに冷淡だったが、この国の王女達は彼女を哀れんで城に連れて行く。ところが、娘たちが連れてきた老婆を見た王妃は、老婆から滲み出る気品に驚き、自分の席を譲る。デーメーテールは席に着かず、王女が別の席を用意することでなんとか収まった。
中国の古典にも、こんな話がある。
1日に千里を駆ける能力を持つ名馬がいたが、この馬は石運びをやらされ、脚の太い駄馬に叶わない。だが、優れた伯楽(馬を見分ける名人)がその馬の力を見抜き、馬の汗をぬぐってやると、馬は喜びにいなないた。
下らない世間の者に評価される必要はない。見る者が見れば分かれば良いではないか?

大山倍達に空手の手ほどきをした、韓国武道、借力の達人は、「男なんてのは、鞘の中の刀さえピカピカに磨いておけばいい。その刀を抜くのは、一生に一度あるかないか・・・。無いにこしたことはないんですよ」と言ったという。
(あくまで梶原一騎さん原作の漫画「空手バカ一代」のお話であり、事実かどうかは不明だが)
だが、別に男に限らないが、この世の深い法則は、自分の中の貴重なものを磨いている者を放ってはおかない。
そんな人であれば、仮に、世間的には何も良いことがなくても、世間の試験に平伏した者ほど惨めには死なず、永遠を得るだろう。なぜなら、「エゴ・スム」(I AM-吾在り)、即ち、神であることを捨てなかったからだ。







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