「母をたずねて」あるいは「母をたずねて三千里」という独立した小説があると思っている人も多いかもしれないが、これは、イタリア王国の作家エドモンド・デ・アミーチスの「クオーレ」という小説の、9つのお話の中の1つだ。
いまだよく知られる、1976年のアニメ「母をたずねて三千里」の登場人物のフィオリーナ・ペッピーノは、綾波レイや長門有希とも通じそうな、陰のある感情を表さない少女で、今でも人気が出そうだが、彼女も原作には登場しない、アニメのために創作された人物だ。

ところで、精神分析学者の岸田秀さんの本で読んだが、自分の本当の母親を知らない人が、その実の母親を探そうとする情熱や執念は凄いものらしい。
人間の自我の土台は母親との関係性であって、それがきちんと確立されないと、自我が安定せず不安なものだという。
岸田さんによると、三島由紀夫、芥川龍之介らは、母親との関係性が極めて希少で、彼らは自然な自我が構築されておらず、作り物の自我を持っていたという。本当かどうかはともかく、興味深い話だし、人間を考えるヒントになると思う。
ところが、実の母親を必死で探し当てたという人は、かなりいるらしいが、その後、彼らが母親と一緒に住むとか、極めて親密になるということも案外無いという。「分かればいい」程度のものらしいが、これも面白い。

手塚治虫さんは、医学博士とはいえ、別に精神医ではなかったが、偉大な作家であるだけに人間性への洞察は深く、それが医学と関連付いた面はあったと思う。だから、性教育的な漫画も何作かあるが、その中でも、あきらかな性教育の意図を持って描かれたと言える「アポロの歌」に母親に関する印象的なお話がある。およそ母親としては失格で、男にだらしなく、母としての情愛のかけらも持たない母親に育てられた息子は、すっかりねじれた性格の若者に育つ。すでに息子の方も、母親に愛されていないことなど何とも思っておらず、彼にとって母親は単なるおばさんだった。その彼が、後に、女としての感情に欠ける若い女性に、母親の思い出話をする。彼が母親と喧嘩して家を飛び出した時、走ってきた車にあわやはねられそうになった。その時の彼を見る母親の顔に彼は驚く。そこには、恐れとか強い不安の色が見え、驚くべきことに彼を気づかっていることが感じられたのだ。彼は言う、あんな母親でも、どこか通じているんだと。そして、彼は、その若い女に、あんたにはそれが無いと言う。彼女は人造人間だったのだ。

恐るべき寿命を保つアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」では、純粋なマシンとは言い難い巨大ロボットであるエヴァンゲリオンのパイロットになる条件に、母親がいないことをあげているのは、実に興味深いことだ。
シンジ、レイ、アスカという3人の少年少女は、母親との関係性があまりに薄い。シンジとレイは母親を知らないし、アスカは、一応は知ってはいるが、より悲惨だ。アスカの母親はアスカに何の興味も示さないが、アスカは母親を慕い、母親に認めてもらおうと懸命になる。そして、その夢が叶おうとした時、自殺した母親の姿を見るというものだった。

以前、私は、このブログで、
悟りを開くと母親は消える
を書き、かなりのアクセスを得た。
このテーマは、やはり人間にとって、実に重要なものだ。
尚、この時、最後にあげた「父親に愛されていなかった11歳の少女」と「母親に嫌悪されていた9歳の少女」の話を出典なく上げたが、初めのは武内直子さんの「美少女戦士セーラームーン」の原作の土萠ほたるで、後のが、都築真紀さん原作・脚本のアニメ「魔法少女リリカルなのは」のフェイト・テスタロッサだ。

我々は、ある意味、母親との関係を解消すべきなのである。母親に限らない。肉親との精神的絆を昇華してしまうことが必要だ。これはもちろん、憎みあうとかではなく、親しくはすべきだが、他人と比べて、ことさらに親密であるべきでないということだ。
仙道で知られる高藤聡一郎さんは、修行が進んで、悟りまで後一歩となった時、内なる声を聞いたという。「この一線を越えると、肉親も他人と感じるようになる」と。
ジョージ・アダムスキーは、地球以外の惑星では、転生は普通に受け入れられているが、前世で夫婦や肉親であった者とも会うこともあり、それはそれで親しくなるのだが、進化した星では皆がお互いに親しいのであり、その中で特別なものではないと言う。
いずれも自然なことと思う。
これは、決して、親や子供に冷淡になることではない。むしろ逆だ。本当の意味で親しくなるのだ。
我々は、本当はどこから来て、どこに行くのか。この人類の深いテーマへの解答を得た時、それが理解できるはずだ。
岡本太郎は、直感的に理解していたから、「俺は宇宙だ」と言っていたが、全ては根源的、実相的に1つである。しかし、個人個人が分離し、孤立感を強めたことが人類の不幸の大原因なのだ。
きっと、全体に溶けることと、個性を保つことの両立がどんなことか理解できないことが、人が解脱できない原因なのだろう。自我は個体性を失うことを恐れる。
だが、ロマン・ロランの言う大洋感情、アブラハム・マズローの至高体験、W.B.イェイツのエクスタシー、夏目漱石の天賓、岡本太郎の爆発といった体験で、万物と一体化した時の至福感を知ると、それがとんでもない誤解であると知る。
人の本性は至福でしかないのである。







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