人は、物欲、金銭欲を克服しても、名誉欲だけは無くならないものらしい。それが、大富豪や英雄達の本音なのだそうだ。
ディール・カーネギーは、人の最大の願望は自己重要感であると述べているが、これもそのことを表しているように思える。
それなら、いじめの中で最も苦しいものは、シカト、つまり、無視であるというのも、うなづけるではないか?
つまり、人にとって最も大切なことは、存在感なのである。
「え?人にとって、一番大事なものは愛じゃないのですか?」
と聞かれそうだが、存在しなければ愛せない。
名誉とか、自分を重要人物だと感じることは、存在感の最高のものだ。一方、無視されることは、存在感を感じさせてもらえないことだ。
聖書によれば、神様ですら、「私は愛するものである」とは言わず、「私は存在するものである」と言っているくらいだ。
愛を説いたと思われているイエスも、自分のことは、「私は存在する」ものだと言っているのである。
デカルトは言ったじゃないか。「我思う、ゆえに、我在り」と。やはり、存在することが最も重要なのだ。
極めつけは、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジの言ったことだ。
「あなたが確信できる唯一のことは、自分が存在するということだけだ」
ところで、名誉欲というのは、他人に頼らないと自分の存在感を感じることのできない哀れな感情なのだ。
いい歳をして、いつまでもドンでいたがる老人というのは、実は、そんな者なのである。心が空虚で寂しいのだ。他人に崇められないと自分が消えてしまいそうで、恐くて仕方がないのだ。
人々に重要人物扱いされて、やっと少し息がつける可哀想な人なのである。
それが分かると、非常識な独断を無理矢理通そうとする哀れなドンをいたわる気持ちにならないだろうか?
一方、アインシュタインなんて、ちっとも自分を重要人物だと思っていなかった。
いつもヨレヨレの服を着て、靴下も履かず、頼まれれば中学生の数学の宿題を喜んで熱心に手伝った。中学生の子供に、「近所に偉い数学の先生がいたから、数学の宿題を手伝ってもらった」と言われた親が、それがアインシュタイン博士だと知って卒倒しかけたこともあったらしい。しかし、アインシュタインにとっては、中学生の宿題を手伝うことは、別段、不自然なことではなかった。何せ、自分の得意なことなのだから。
中国の古典「荘子」に、外見といい、能力といい、全く何の取り得も無いのに、男にも女にも慕われまくる男の話がある。若い娘は、その最悪の醜男に、妾でもいいから側に置いて欲しいと請い、男はみな彼と義兄弟となりたがる。王様にいたっては、宰相(総理大臣)の地位に就くよう必死で要請する。
だが、その男は、ただ、来る者拒まず、去る者追わずといった感じで、自分の意見を言うことも、意志を示すこともない。何かを願うことも、逆に、厭うこともない。しかし、宰相の地位は嫌であるらしく、黙って消えてしまい、王様を深く嘆かせる。
荘子は、彼が無為に徹するがゆえに、道(タオ)と一体化していると言う。
それは、おそらく、彼は、自分で自分の存在を確立できているということだろう。彼は、存在するために、他者を必要としない段階に達しているのだ。いうなれば、イエスのように、「私は存在する」ものであると、自分で言えるのだ。
そのために、他者の崇拝や賞賛を必要とする、哀れな老人達とは全く違うのだ。
二目と見られないほどの醜さで、何も出来ない者ですらそうなのである。
なら、外見がそこそこで、1つくらいは特技のあるあなたなら(無くても別に良いが)楽勝である。
上にあげたニサルガダッタ・マハラジのアドヴァイスは、「私は存在するという感覚(感じ。フィーリング)に、いつも注意するように」である。それも練習次第と思うが、私にもできそうである。
そうすれば、無視されても平気だし、言ってみれば、神になるということだ。マハラジもそれは肯定しているし、しかも、最大の保証をしている。「決して落胆はさせない」と。
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ディール・カーネギーは、人の最大の願望は自己重要感であると述べているが、これもそのことを表しているように思える。
それなら、いじめの中で最も苦しいものは、シカト、つまり、無視であるというのも、うなづけるではないか?
つまり、人にとって最も大切なことは、存在感なのである。
「え?人にとって、一番大事なものは愛じゃないのですか?」
と聞かれそうだが、存在しなければ愛せない。
名誉とか、自分を重要人物だと感じることは、存在感の最高のものだ。一方、無視されることは、存在感を感じさせてもらえないことだ。
聖書によれば、神様ですら、「私は愛するものである」とは言わず、「私は存在するものである」と言っているくらいだ。
愛を説いたと思われているイエスも、自分のことは、「私は存在する」ものだと言っているのである。
デカルトは言ったじゃないか。「我思う、ゆえに、我在り」と。やはり、存在することが最も重要なのだ。
極めつけは、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジの言ったことだ。
「あなたが確信できる唯一のことは、自分が存在するということだけだ」
ところで、名誉欲というのは、他人に頼らないと自分の存在感を感じることのできない哀れな感情なのだ。
いい歳をして、いつまでもドンでいたがる老人というのは、実は、そんな者なのである。心が空虚で寂しいのだ。他人に崇められないと自分が消えてしまいそうで、恐くて仕方がないのだ。
人々に重要人物扱いされて、やっと少し息がつける可哀想な人なのである。
それが分かると、非常識な独断を無理矢理通そうとする哀れなドンをいたわる気持ちにならないだろうか?
一方、アインシュタインなんて、ちっとも自分を重要人物だと思っていなかった。
いつもヨレヨレの服を着て、靴下も履かず、頼まれれば中学生の数学の宿題を喜んで熱心に手伝った。中学生の子供に、「近所に偉い数学の先生がいたから、数学の宿題を手伝ってもらった」と言われた親が、それがアインシュタイン博士だと知って卒倒しかけたこともあったらしい。しかし、アインシュタインにとっては、中学生の宿題を手伝うことは、別段、不自然なことではなかった。何せ、自分の得意なことなのだから。
中国の古典「荘子」に、外見といい、能力といい、全く何の取り得も無いのに、男にも女にも慕われまくる男の話がある。若い娘は、その最悪の醜男に、妾でもいいから側に置いて欲しいと請い、男はみな彼と義兄弟となりたがる。王様にいたっては、宰相(総理大臣)の地位に就くよう必死で要請する。
だが、その男は、ただ、来る者拒まず、去る者追わずといった感じで、自分の意見を言うことも、意志を示すこともない。何かを願うことも、逆に、厭うこともない。しかし、宰相の地位は嫌であるらしく、黙って消えてしまい、王様を深く嘆かせる。
荘子は、彼が無為に徹するがゆえに、道(タオ)と一体化していると言う。
それは、おそらく、彼は、自分で自分の存在を確立できているということだろう。彼は、存在するために、他者を必要としない段階に達しているのだ。いうなれば、イエスのように、「私は存在する」ものであると、自分で言えるのだ。
そのために、他者の崇拝や賞賛を必要とする、哀れな老人達とは全く違うのだ。
二目と見られないほどの醜さで、何も出来ない者ですらそうなのである。
なら、外見がそこそこで、1つくらいは特技のあるあなたなら(無くても別に良いが)楽勝である。
上にあげたニサルガダッタ・マハラジのアドヴァイスは、「私は存在するという感覚(感じ。フィーリング)に、いつも注意するように」である。それも練習次第と思うが、私にもできそうである。
そうすれば、無視されても平気だし、言ってみれば、神になるということだ。マハラジもそれは肯定しているし、しかも、最大の保証をしている。「決して落胆はさせない」と。
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