大地震や津波、あるいは、竜巻や火山の噴火といった大災害が起こる度に思い知るのが、人間の限界だ。肉体においても、建築においても、あるいは、救助のための手段においてもである。
そして、今回の東北地方太平洋沖地震では、原子力の利用が、人間の限界を超えたことであることを思い知らされたことになる。しかし、我々はこの戒めを守ることができるのであろうか?また同じことを繰り返し、さらに大きな悲惨を味わい、それでも心を改めないのではないだろうか?そして、滅びが訪れて、遅過ぎる後悔をするのだろうか?しかし、もう十分に遅いに違いないのだ。

本来は、無限の力を持つ神と一体であるはずの人間になぜ限界があるのだろう。
それは、この世には、たとえ神でも越えてはならない一線があることを知るためではないだろうか?
体力、知力に限界がある肉体を持った方がそれが分かりやすいのだ。
そして、大きな力を持った人間ほど、それが身に染みるはずだ。
孔子の「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」や、これと似た、徳川家康の「及ばざるは過ぎたるより勝れり」というのは、人として究極に至った者の諦観(あきらめ、悟って超然とすること)だろう。
もっと簡単に言えば、「ものには限度というものがある」ということだ。
しかし、現在の世界、特に日本では、欲望のために、限度というものをわきまえなくなっている。

たとえ話で、分かりやすく説明したい。
「大いなる西部」という、1958年に制作された西部劇映画の傑作がある。
最初の部分で、誰もいない大平原の中を、若いカップル、マッケイとパットが、馬車で走っていると、無頼漢(ならず者)と思われる5~6人の男達に取り囲まれて、馬車を止められる。男達はマッケイにロープをかけて馬で引きずったりして痛めつける。
現在の映画やテレビドラマを見慣れた者であれば、ここで、金髪の若くて美しいパットがレイプされると思うかもしれない。広大な無人の平原。まさに格好の場所である。確かに、ストーリーの設定上、男達がパットに手を出せない理由はあったが、そうでなくても、そんなことは起こらない。保安官の1人も登場しない西部劇だが、性的描写は一切ない。なぜなら、これは人間の映画だからだ。
ただ一度、この映画で最も下劣な品性を持つ男が、監禁した美しい女性教師を襲う場面はある。その男は、この作品の中で、敵対する2つの勢力の1つであるヘネシー家のどら息子(素行の悪い息子)である。
しかし、ボスである父親が現れ、この下種(げす)な息子を床に叩きのめすと、「犬のように這って出て行け」と命じる。ボスは決して高潔な人格者でもなければ、息子の敵でもない。その女性教師を、たくらみに利用するために監禁したのも彼だ。そんな彼ですら、息子の行いは我慢ならない恥ずべきことで、「お前は犬だ」となじったのだ(犬以下だろうが)。
その他のことに関しても、いかに険悪な場面、感情的な場面であっても、この映画では、荒くれ男達も、簡単に暴力を振るったり、ましてや、銃を人に向けたりはしない。
人としての、越えてはならない一線を守っているのだ。それが出来ないのは、さきほどの、根は臆病者のどら息子バックと、もう一方のボス、テリルの美しい一人娘パットの2人だけだ。彼らは、強大な力を持つボスの息子、娘で、甘やかされて育ち、いい年をしてあまりに未熟なのだ。バックは、どら息子とはいえ、 30歳は越えているだろが(演じた役者は40歳に近かった)、精神的には子供だった。

現在の日本では、こんな映画に違和感を感じるほど、人々の心は、個人的な欲望のために歪んではいないだろうか?
権限を持つ役人が多少の賄賂を取るのも、人間臭いといえばそう言える。しかし、そのやり方や額が、殴って赦せる限度を越えているなら、それは、神をも恐れぬ行いだろう。
部下の女性にセクハラするとかの男は、もはや人ですらないし、ましてや、女生徒に手を出す教師となれば、本能剥き出しの動物ですらない。
これは、別に、「きつ過ぎる」ことを言っているのではない。もし、そう感じるなら、やはり異常なのだ。
こんな社会は、言ってみれば、自分を王様か大統領のようなものだと思っている馬鹿な子供に核兵器の発射ボタンを握らせているようなものだ。
現在は、商売になるという理由で、未熟な若者を持ち上げ過ぎていることも、「幼稚な大人」が蔓延している原因だろう。

越えてはならぬ一線を守ることを学ぶために、不都合も多い肉体を持つ我らであるが、そのことを学べば、制限もまた消えていくのだ。
それは神秘であり、驚異である。人が人の本当の姿、真の自己を知るとはそういうことだ。
安っぽい修行をしたり、金を使って自分探しの旅をすることが、真の自分を発見することではない。身体と心を持つことにした理由を思え。
それを学べば、結果として、潜在意識の法則を自在に活用して願望を叶え、超能力も使えるようになるかもしれない。しかし、そんな力を本当に持つ者を見抜くことなど、我々には出来ない。彼らが、不要な個人的欲望を持たないゆえに。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ