現在でも、漫画を低俗なものであると感じるのは、戦後の国家による思想統制のためであることは疑いないと思う。
それで、「漫画、アニメの王様」と言えば聞こえは良いが、そう呼ばれた手塚治虫さんすら、全国のPTAの目の敵にされたりと、なかなか大変だったようだ。
1968年に「ハレンチ学園」で世に出た永井豪さんとなると、この漫画が当時としては極めて猥褻と感じられ、登場人物達が小学生であることもあり、当然、 PTAからつるし上げられた。ところが、永井さんは、PTAよりむしろ、教育委員会から、まるで犯罪者扱いの様子だったようだ。やはり作品が児童ポルノと見なされたからかと思われたが、永井さんの別の作品の、やはり子供達が主要な登場人物となるエッチな漫画では全く教育界から反応がない。それで永井さんは、「ハレンチ学園」が攻撃されたのは、猥褻だからと言うよりは、教師を馬鹿にしたせいであったと気付いた。分かってしまうと、下らないので笑えたようだ。
性的描写に関しては、永井さんのは、多少度が過ぎても、どこかあっけらかんとしているが、実は、その点で、手塚さんの多くの作品は比較にならないほど凄い。直接、性的表現をしていなくても、手塚さんの作品の少女は、ほとんどが妙に色っぽい。さらに、医学博士でもある手塚さんが本気で描いた時のエロチックさは半端ではない。しかも、表現の対象は少女であることが多いのだが、手塚さんの作品が、全体的に教師というものを崇高に描く傾向にあるせいか、永井さんのように、教育界を敵に回すことはなかったのではないかと思う。やはり単純なものである。また、医学的知識を有効に生かした優れた性教育漫画を描いたことも幸いしていたのだと思う。

昨年、「ゲゲゲの女房」の人気のおかげで、水木しげるさんという漫画家自身にスポットライトが当てられ、それが、漫画家というものが一般に認識される良い機会にはなったのではないかと思う。
昔から、手塚治虫さんや石森ノ章太郎さんの自伝などは多くあり、素晴らしい内容なのだが、どうも、それらはマニアの書物と見なされることが多かったのかもしれない。
しかし、戦争で左腕を失ったという衝撃的な漫画家を、人気俳優たちによるテレビドラマで描いたことで、一気に一般の人達が漫画家や漫画を見直すきっかけになっただろうか?
実は、本当のことを言うと、私は、「ゲゲゲの女房」は一回も見ていないのだが、当たらずといえども・・・ではないかと思う。
私は、水木しげるさんのことなら、少しは昔から知っている。また、水木さんが、養老孟司さんの対談書に登場しているものでは、2人の間で実に素晴らしい対話がされており、人間の精神の神秘について深く考える機会を得ることが出来たと思う。
水木さんは、大芸術家でもあり、大思想家でもあると思う。

話は変わるが、「ゲゲゲの女房」という奇妙なタイトルは、当然、「ゲゲゲの鬼太郎」からきたものと思うが、その「ゲゲゲの鬼太郎」というタイトル自体が謎だ。まあ、調べてみれば、水木しげるさんが、幼い頃、自分の名前の「しげる」が言いにくくて、「げげる」と言っていたのが「げげ」になり、それが、「げげげ」になったのだという。
ところで、そういった「○○の××」というのは、語感の良いタイトルだと思わないだろうか?
「風の谷のナウシカ」とか、「ふしぎの海のナディア」といったアニメがあり、「○○の××」の××は、やはり人名が良いだろう。
映画「タイタニック」で、親身にジャックの世話を焼いた印象的な登場人物であるモリー・ブラウンは、後に「不沈のモリー・ブラウン(The Unsinkable Molly Brown)」と呼ばれ、そのタイトルで映画にまでなったが、この「不沈のモリー・ブラウン」という言葉の響きもなかなか良いと思う。それで、映画の字幕を1回見ただけで憶えていたのだ。

最後に、教育的に閉めたい。
私は、「ゲゲゲの鬼太郎」の女の子版が、高橋弥七郎さんの小説で、アニメ、アニメ映画、漫画にもなった「灼眼のシャナ」だと勝手に思っている(まさに勝手だ)。小説は、2009年にはシリーズ750万部が発行されているというから大変なもので、内容も、若者向けとは言われるが、実に素晴らしい。
「ゲゲゲの鬼太郎」と「灼眼のシャナ」では、タイトルの類似性があることは言うまでもない。
シャナというのは、外見は11、12歳の際立った美少女で、強くて賢いが、恋愛に関しては幼い。そこに、「愛染兄妹」と呼ばれる、兄ソラトと妹ティリエル(絶世の美少年と美少女の双子で、13、14歳くらいの外見)が現れるが、妹とはいえ、ティリエルは完全に母親の立場だ。そして、ティリエルは身も心も、兄ソラトに奉げ、深く愛していると公言し、常に抱擁し、ディープキスをし、その「愛」を、恋愛に不慣れなシャナに見せ付ける。
シャナは、その様子に強い不快感を感じる。それは、道徳的とか恥ずかしいといった不快感ではない。それが、軽蔑の眼差しとなって2人を見るのが、ティリエルの神経を逆撫でする。
「オンナにもなれていないお前に、この愛の崇高さは分からない」という、ティリエルの言葉に、シャナは「お前たちは、すがり合っているだけにしか見えない」と断じる。
シャナは、不器用ながらも純粋に愛する坂井悠二(15歳)や、幼い時からずっと共に居た、心から敬愛しているアラストールに対する、「真実の愛」を知っているので、愛染兄妹の「愛」が偽物だと分かったのだろう。
さて、高橋弥七郎さんが何のつもりで、この愛染兄妹を登場させたのかは知らないが、私には、現在の日本の、教育熱心な母親と、その息子に見える。
母親は、自分では息子を本当に愛していると思い、息子のために何でもしてあげたいと思っている。息子が必要なものを何でも先回りして用意して自己満足し、高い月謝を払って良い塾に通わせ、良い成績を取らせ、良い学校に進学させ、良い仕事につけさせようとする。息子の方も、ある時期までは、それで満足している。
しかし、そんな姿は、私には、シャナが愛染兄妹に対して感じた「気色悪い」という感覚しか覚えない。
そして、やはりシャナが言い放ったように、そんな母と息子は、「すがりあっているだけ」なのだろう。いずれ、その母と息子は哀れなこととなる。まあ、そんなに後のことではない。
シャナがアラストールに対して強く持っていて、悠二に対しても、それがあると気付き始めたように、真実の愛とは敬意を伴ったものなだろう。
それにしても、「気色悪い」「すがりあっている」母と息子の何と多いことだろう。













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