東北地方太平洋沖地震の被災地で略奪行為が起こらないことについて、海外では、賞賛や驚きの声があるようです。
これは、1つには、被災地への交通が遮断されているからということもあります。日本でも、被災地への交通が容易になると、不審な他県ナンバーの車が出没し、実際に、不法な行為が行われることは少なくありません。

日本というのは、農耕社会かサラリーマン社会で、いずれにしても、1つの場所に住み着く者が多く、地元で村八分にされることを強く恐れます。それで、日本人は他人の目を気にする国民性を持つようになりました。
邱永漢さんの本に「地元で商売をやるな」と書かれていたのを憶えていますが、商売というのは、どうしても破廉恥な面があるので、生まれ育った場所を失いたくないなら、商売は他所でやれということと思いますが、台湾でも事情は同じということで、日本なら、なおさらそうであると思います。
なら、日本では、地元で略奪などできるはずがありません。
海外では、地元よりも、ファミリーやグループの結束の方がはるかに強いことが多く、そんなところでは、略奪は当たり前になることがあるのですね。

上記は、世間的な意味で、日本で略奪が起こらない理由ですが、愚かな世間の教義や信念の範疇で言っても、略奪は、「割に合わない」行いです。
しかし、もっと深い洞察を持ってすると、略奪行為は、「あまりにも割に合わない」ことです。
これは、説明をする前に、略奪を行った者のその後を見れば良いと思います。確実に悲惨なことになっていますから。これは、宗教的、道徳的な脅しではなく、世間よりも深く考えることが出来るなら、理屈の上でも当然のことです。
略奪する者は、略奪されることを免れず、いずれ、身体を含めた自分のものを容赦なく奪われることになっています。
歴史の中の支配者には、「占領して、敵の美しい妻や娘を奪うことが最大の喜びである」と言った者もいるのですが、彼らは例外なく、後に全てを失っています。
昔の日本の泥棒というものは、泥棒なりの仁義を守る者が多かったのです。例えば、貧しい者からは奪わず、それどころか、不正な方法で富を得た者から奪い、貧しい者に施していました。それで、英雄的な泥棒などもいた訳です。そして、悪徳な金持ちの方も、ある程度の泥棒を容認し、奪われることを一種の浄罪と見なした者もいたようです。
泥棒であるからには、最後には不幸は免れませんが、ただの盗賊よりは人生を楽しめたかもしれないと思います。

では、略奪行為が悲惨な末路を呼ぶ原理について説明します。
略奪という行為をする度に、その者にとって、世界はどんどん狭くなります。
と言いますのは、強引な行為でしかものごとを達成できないのだという観念がひどく大きくなり、予期せぬことが起こることを赦せなくなってくるからです。
何でも、力ずくでやることになり、予期せぬ良いことすら喜べなくなります。彼らにとって、予期せぬ良いことは、予期せぬ悪いことと同じです。
しかし、人生の本当の楽しみや豊かさは、たとえ悪いことであっても、予期せぬ出来事を味わい、喜ぶことです。
自我が理解できることしか赦せない世界観というのは、恐ろしく空虚で恐怖に満ちたものです。そんな中で生きることを地獄と言うのです。しかも、歳と共に身体は衰えますが、そうなると、世界はますます小さくなり、窒息させられるような気分にならざるを得ません。
この説明も、まだまだ浅い範囲であり、略奪行為のもたらす悲惨というのは、もっと厳しいものです。しかし、話を簡単にするために、今回はこのくらいに留めておきます。

予期せぬことでさえあれば、起こることが最善だ
~W.B.イェイツの戯曲「カルヴァリー」より。イエスを屈服させたローマ兵士の言葉~

「この世で一番楽しいことは何か知っているかね?スピネル」
「何ですか?エリオル」
「予想しないことが起こることだよ」
~CLAMPの漫画「カードキャプターさくら」より。~







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