天使のような聖なる存在の美しさは、普通の人ではもちろん、たとえ詩聖であっても、満足な表現は到底不可能だ。
お釈迦様は、従弟のアーナンダに天女を見せる前に、まず、ヨボヨボに老いた雌猿を見せた。そして、大変な美少女であった、アーナンダの婚約者の16歳の少女とその雌猿では、どちらが美しいかアーナンダに尋ねた。
アーナンダは憤慨して、「僕の花嫁に決まっています」と答える。それから、お釈迦様はアーナンダに天女を見せ、「では、この天女とお前の花嫁では?」と尋ねた。
すると、アーナンダは、「この天女と僕の花嫁では、僕の花嫁と、先ほどの雌猿ほどの違いがあります」と答えた。
このように、たとえ話を使って、少し雰囲気が分かる程度だ。
聖母マリアに出逢った、フランスの片田舎の14歳の少女ベルナデッタが、聖母が非常に美しかったことを言うと、大人達は、村で評判の美人の名をあげ、「あの人と、君が見た聖母ではどっちがより美人だ?」と尋ねた。
ベルナデッタはただ、「そんなんじゃないんです」としか言えなかった。
同じような部分もあるが、比較にならないほどの差があることを、「月とスッポン」とか「雲泥の差」とか言う。しかし、月とスッポン、雲と泥では、共に目で見て比較が出来るのであるから、それほどの大差ではない。
しかし、聖なる存在は、ベルナデッタが言いたかったように、そんな比較は成り立たないのである。単に視覚で言うなら、それら聖なる存在は、ただ光としか言えない。本当の形はない。我々の個人の心で捕えられるような存在では無いに違いない。
旧ユダヤ暦では、一日は日没から始まるのであり、今日25日の夜まではクリスマス・イヴである。今日の夜から、明日、日が落ちるまでがクリスマスだ。
このイヴの夜、私に天使のmurmurings(つぶやき)が聞こえた。
「笑って耐えろとは言いません。でも、黙って耐えて下さい。そうしたならば、主が報いて下さいますから」
それが、天使が私に教えた3番目の魔法だった。1番目と2番目は、不完全な魔法だったが、私に大きな果実を与えてきた。1番目は「強く願って忘れること」、2番目は「願いを自ら絶対的に諦めること」だ。実に魔法とは現実的で誰にでも使えるものだったのだ。
主が我々に与える荷は軽い。本当は笑って耐えられるのであるが、慈悲深い主は、黙って耐えれば報いて下さる。そして、主の荷は途方もなく重いのだが、主はいかなる重みにも耐えるのである。
そして、4番目が最後になる。それにより、我々は宇宙をも手にする。
世俗のまがい物の贈り物と聖なる贈り物の違い、それは、比較のしようがない。
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お釈迦様は、従弟のアーナンダに天女を見せる前に、まず、ヨボヨボに老いた雌猿を見せた。そして、大変な美少女であった、アーナンダの婚約者の16歳の少女とその雌猿では、どちらが美しいかアーナンダに尋ねた。
アーナンダは憤慨して、「僕の花嫁に決まっています」と答える。それから、お釈迦様はアーナンダに天女を見せ、「では、この天女とお前の花嫁では?」と尋ねた。
すると、アーナンダは、「この天女と僕の花嫁では、僕の花嫁と、先ほどの雌猿ほどの違いがあります」と答えた。
このように、たとえ話を使って、少し雰囲気が分かる程度だ。
聖母マリアに出逢った、フランスの片田舎の14歳の少女ベルナデッタが、聖母が非常に美しかったことを言うと、大人達は、村で評判の美人の名をあげ、「あの人と、君が見た聖母ではどっちがより美人だ?」と尋ねた。
ベルナデッタはただ、「そんなんじゃないんです」としか言えなかった。
同じような部分もあるが、比較にならないほどの差があることを、「月とスッポン」とか「雲泥の差」とか言う。しかし、月とスッポン、雲と泥では、共に目で見て比較が出来るのであるから、それほどの大差ではない。
しかし、聖なる存在は、ベルナデッタが言いたかったように、そんな比較は成り立たないのである。単に視覚で言うなら、それら聖なる存在は、ただ光としか言えない。本当の形はない。我々の個人の心で捕えられるような存在では無いに違いない。
旧ユダヤ暦では、一日は日没から始まるのであり、今日25日の夜まではクリスマス・イヴである。今日の夜から、明日、日が落ちるまでがクリスマスだ。
このイヴの夜、私に天使のmurmurings(つぶやき)が聞こえた。
「笑って耐えろとは言いません。でも、黙って耐えて下さい。そうしたならば、主が報いて下さいますから」
それが、天使が私に教えた3番目の魔法だった。1番目と2番目は、不完全な魔法だったが、私に大きな果実を与えてきた。1番目は「強く願って忘れること」、2番目は「願いを自ら絶対的に諦めること」だ。実に魔法とは現実的で誰にでも使えるものだったのだ。
主が我々に与える荷は軽い。本当は笑って耐えられるのであるが、慈悲深い主は、黙って耐えれば報いて下さる。そして、主の荷は途方もなく重いのだが、主はいかなる重みにも耐えるのである。
そして、4番目が最後になる。それにより、我々は宇宙をも手にする。
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