ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2025年05月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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これで運が良くなる

運が良い人とは、自分は運が良いと思っている人だ。
もう少し正確に言えば、運が良い人とは、自分は運が良いというイメージを持っている人だ。
そして、本質的なことを言えば、運が良い人とは、自分に起こった幸運な出来事の印象が強い人だ。
要するに、自分の幸運な経験をよく憶えている人が運が良いのだ。

運について、合氣道家の藤平光一と織田信長の逸話に共通する話がある。
共に、戦場で銃弾飛び交う中を堂々と歩いて見せたことだ。
藤平光一は、当時23歳で隊長を務めていたが、自分より年長者ばかりの隊員達を落ち着かせるために、そんなことをしたらしい。
時代劇では、信長は「わしに弾は当たらん」と堂々としていたように描かれることが多いが、実際はどうか分からない。
しかし、2人共、実際に弾に当たらず無事に生き延びた。
つまり、運が良かったのだ。

「心身医学の父」と言われるゲオルグ・グロデックのエッセイに、こんな話がある。
戦争中、ある兵士が、自分の膝を指差し、「ここに弾が当たったら、故郷に帰還させてもらえる」と半分冗談のように言った。
すると、そこに流れ弾が飛んで来て、まさに、その部分に命中し、その兵士は希望通り、故郷に帰還した。
これは、極めて運が良いことかもしれない。

欲求の五段階説で有名な心理学者のアブラハム・マズローは、自分が教授を務める大学で、学生達に、自分が幸運だと思った出来事を発表させていったら、学生達が法悦状態になっていったという。
法悦状態とは、英語では単純にエクスタシーと言うが、仏教などで言う無の境地で、ゾーン、フロー、至高体験と呼ばれるものも、ほとんど同じと思う。
簡単に言えば、それは思考が完全に消えた状態だ。
そんな状態の時に、運は最高になる。
そして、そんな状態を容易く起こすのが、上に述べた通り、「自分が幸運だと思った出来事を思い出すこと」だ。

私はプログラマーになる前に、小さな小さな会社に勤めていて、事務所は、小学校の教室くらいの広さの部屋1つだけで、部署ごとにセクション分けもされていなかった。
それで、事務員の私の前の席が技術課長だったのだが、その技術課長が、若い私にプログラミングの勉強をするよう熱心に薦めてくれたので、私はやってみようという気になり、プログラマーになれたのである。
その他、私は幸運なことだらけで、運だけでやってきたようなものだ。
そりゃ、悪運だって思い出せるが、一頃、悪運をよく思い出していた時は、本当に運が悪くなった。
悪運は無視し、幸運に意識を向けるべきである。

ところで、一番運が良いのは誰かと言うと、間違いなく神様である。
運の良い者に近付くほど運が良くなる。
それなら、神様に近付くのが一番良い。
だから、イエスも、第一の戒律は「神を愛すること」と言い、聖書にも「神と和らぎなさい(親しみなさい)」と書かれているのである。

最も有名な仏様は、おそらく、阿弥陀仏と観世音菩薩と思う。
つまり、運が抜群に良いと思われる仏様の中でも、阿弥陀仏と観世音菩薩が最も運が良いと言える。
ならば、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」や、阿弥陀如来真言や観世音菩薩真言を唱えずにいられようか。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)氣の威力(藤平光一)
(2)至高体験(コリン・ウィルソン)
(3)くっつき運 ~世界最速の開運術!~(西谷 泰人)
(4)密教の聖なる呪文(正木晃)

木漏れ日の中のフェアリー
AIアート1701
「木漏れ日の中のフェアリー」
Kay

働かずに食うということ

「働かざる者食うべからず」という言葉があるが、「働かずに食う」ことに憧れる者は多い。
バブル経済期の日本では、定期預金の金利(1年)が6パーセント以上、普通預金ですら3パーセント以上で、1億円を定期預金にすれば1年で600万円になるので普通の生活が出来たらしい。しかし、今は、定期預金ですら良くて0.2パーセント程度と思う。

堀江貴文さんのような人は「株を買わないのは馬鹿」「株価は下がっても日銀が買うので、必ず上がり続ける」とよく言っているが、彼のように頭が良くて勉強家でしっかり調べる人ならその通りかもしれない。
また、「投資信託なら2~3パーセントの金利はつく」とか「海外預金なら5パーセントの金利もある」などと、素人をそそのかす人も多い。
しかし、株などの金融ビジネスの世界は、あなたを儲けさせようと思っている人はおらず、あなたのお金をむしり取ることを考えている者ばかりであることは、しっかり憶えておかないといけない。
頭が悪く、ロクに勉強も調査もしない者(勉強、調査をしないことが頭が悪い者の特徴だが)が、投資にうっかり手を出すと、元金も失ってしまう危険がある・・・というか、あなたの元金を全部奪うことのプロの中に入って行くようなものだ。
分かり易く言えば、羊に少しの草をチラつかせて呼び、羊を食おうと狙っている者が沢山いる中での羊があなたなのである。

NISAだとかいったところで、株価大暴落が起きたら元金だってなくなるし、今の世の中、株価大暴落なんていつ起きても不思議ではない。まさかの株価大暴落で全てを失った人なんて、過去いくらでもいるのに、そんな人の話はマスコミは決してしない。
株価大暴落を予測し、株を全部売るなんてことが出来る人は超天才と言って良いほど稀だ。

プチリタイヤって言葉が流行ったことがあった。
若くして、一生遊んで暮らせるお金を稼いで、実際に働かずに遊んで暮らせる生活を人生のゴールにすることがブームになったのだと思う。
では、いったいいくら持つことを目標にしたのかというと、数億円から十数億円といったことがよく言われたと思うが、そんな額を得られる者は滅多にいない。それこそ、「株を当てて」みたいなものだろうが、それを狙って全財産を失った者の方がずっと多いと思う。
それに似ていると思うものに、老後2000万円問題というのがあり、言い出しっぺの政府が既に否定しているが、今でも老後2000万円問題は忘れられていない。
また、今では、2000万円では全然足りない、3000万円、いや、4000万円は必要だと、真面目な顔で言う税理士のような人もいる。
だが、60代の預金額の中央値が450万円で預金ゼロの人も3割いる中で、3000万円、4000万円というのは現実的でなく、金融資産3000万円以上なら上位と言われる中で、3000万円、4000万円が必要と言う者は、馬鹿と言うより異常と思う。

若い人が「働かずに食う」ことを夢見る中で、80歳を過ぎても働かないと食べていけない人が沢山いるが、そんな人も、若い時にちゃんと働いていた場合が多い。
「働かずに食いたい」と言って、真面目に働かないと、80歳を過ぎても、やりたくない仕事をせざるを得ない可能性が高いと思う。

私もそうなのだが、一見、活動せずに収益を上げている者は、普段から仕事や勉強で技能を磨き、情報を集め、ネットワークを広げているのである。
逆に言えば、スキルを上げるために、普段、働かないで済む状況を作るのである。
そして、スキルを上げるには、好きなことを長時間するに限るのである。
初音ミクの会社のクリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長が2015年の講演会で、
「好きなことをやり続ければセレンディピティ(偶然の幸運)が起こる。しかし、好なことをするためのシステムは自分で作らないといけない」
と言われていたが、上に書いたことがそのヒントになると思う。

ちなみに、あくまで余談だが、念仏とか真言を唱えていると、活動せずに収益を上げるためのきっかけ・・・セレンディピティがよく起こるように思う。これは実感だし実体験だ。
セレンディピティがないと、うまくいかないと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)レンディピティ ~思いがけない発見・発明のドラマ~(ロイストン・M・ロバーツ)
(2)セレンディピティ 点をつなぐ力(クリスチャン・ブッシュ)
(3)システムがわかると人生がかわる ― セレンディピティとシステム思考(田村洋一)
(4)洞察力 ~本質を見抜く「眼力」の秘密~(中山正和)

六月の人魚
AIアート1700
「六月の人魚」
Kay

力をもたらす呼吸法

魂の力を段階的に引き出す易しい修行である特別な呼吸法について、何度も紹介したが、ちょっとまともに解説する。
ラマナ・マハルシの本の翻訳では、だいたいこう書かれていると思う。

心で「私はこれではない」と唱えながら息を吐く。
心で「私は誰か?」と唱えながら息を吸う。
呼吸を止め、心で「私は彼である」と唱える。

これを繰り返すのである。
「私はこれではない」の「これ」は、身体、心のことで、感覚や思考や本能を含む。
「私は誰か?」は、正しい訳としては「私とは何か?」であると言われることがある。
「私とは?」という訳を採用する人もいて、私はこれがなかなか良いと思う。
しかし、どれでも大差ないので、迷ったら「私は誰か?」で良いが、「私とは何か?」「私とは?」でも良く、自分がやり易いものでやれば良い。
「私は彼である」の「彼」は神のことであるが、インドでは神を「彼」とか「それ」とよく言う。
だから、「私は彼である」という言い方に抵抗があれば「私はそれである」でも良い。
あるいは、「私は神である」という言い方に抵抗がなければ、それでも良い。
「私はブラフマンである」「私は至高の実在である」「私は至高者である」といった言葉を採用している人もいる。
「私は私であるものである」という言葉を使う人もいる。
ちなみに、私は主に「私は常に生成する者である」としていて、これはすみやかに超能力をもたらすように感じる秘技中の秘技である。
よって、個人的に最良と思うのは、

私はこれではない(吐気)
私とは何か?(吸気)
私は常に生成する者である(呼吸停止)※長過ぎるなら「私は生成する者」などでも良い。

である。
尚、苦しくない範囲で出来るだけゆっくり行うと効果が高い。
落ち着いてじっくりやれば、1日3回でも効果があると思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
(2)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省訳)

神意の海
AIアート1699
「神意の海」
Kay

動物界に落ちる人間とは

太古の昔から言われ続けていることが面白く感じる言葉として知られているのが、「今の若者はだらしない」である。
ところで、思っているより古くから言われていると思われる言葉が「最近の人間は薄情になった」といった感じの言葉だ。
「最近の人間は人間味がなくなった」「世知辛い世の中になった」「人の心が失われた」などとも言われるが、簡単に言えば「親切でなくなった」「優しくなくなった」という意味だ。
いや、「親切でない」「優しくない」では本質的ではないと思う。
やはり、「利己的になった」であり、「利他的でなくなった」と言った方が真相に迫っているだろう。

人間が万物の霊長と言われ、他の動物との違いが明確であるのは、頭が良いこともだが、それよりも「利他的である」ことだ。
動物だって、一見利他的なことをするように見えることもあるが、実際は、利他的に見える行動にも合理的な説明がつけられ、本当に利他的であるわけではない。
人間だけが、合理的でない利他的なことが出来る。

半世紀以上前に、どこが主催したものか知らないが、伝説的な実験が行われた。
通勤通学で多くの通行人がいる道で、道に倒れて苦しそうに悶える演技をしたら、通行人が助けようとするか・・・という、今やったら訴えられかねない実験だ。
結果、誰も、苦しんでいる人を助けようとはせず、極めて稀に、助けようとする人がいる・・・ということが分かった。

ところで、『葬送のフリーレン』という人気アニメで、魔王を倒した勇者ヒンメルは、困っている人を見たら、必ず手助けをする人であると描かれている。
フリーレンやフェルンもそれに倣うように人々に親切にするし、シュタルクとなると、ヒンメル並に慈悲深い。
しかし、助けている内容を見れば、荷物運びだの、壊れたものの修理だのといった、単純なものばかりで、それを、アニメでは、ヒンメルらが温かい心を持っているように描く。
だが、実際の親切、実際の利他的なことって、もっと「シンドイ」「ドロドロしたことが多い」ものである。

『神様のメモ帳』の平坂組(ヤクザ)の若き組長、雛村壮一郎(ひなむらそういちろう)は、
「助けるのは身内とそのダチまでだ。どこかで線引きしないとやってられない」
と言うが、これには「本当は線引きしたくない」という気持ちが読み取れる。
つまり、ヒンメルのように、無制限に手を差し伸べることは現実的には無理であるということだ。

笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』で、主人公の旅の渡世人(博打打)である紋次郎のセリフで有名なのが、
「あっしにゃあ、かかわりねえこってござんす」
で、紋次郎は非情であることを積極的に貫く。
紋次郎は、倒れて苦しがっている人を見ても無視して通り過ぎるし、小説には、彼は目の前で女が殺されようとしていても決して助けないといったことが書かれている。
ところで、『木枯し紋次郎』のテレビドラマの方で、こんな場面があった。
紋次郎を見た中年のおばさんが、「若い娘がヤクザ連中に山の中に連れていかれるのを見た。助けてやって欲しい」と言う。
しかし紋次郎は「あっしにゃ、かかわりねえこって」と言って行ってしまうが、その顔が苦しそうであった。
小説にも、紋次郎だって、本当は助けたくないわけではないが、いちいち手を差し伸べていたら、命がいくつあっても足りないから助けないのだと書かれていた。
だが、紋次郎は、いったんは無視しようとして、何の得もないのに、結局助けてしまうことがよくある。
著者の笹沢佐保さんは、「やるやると言ってやらないやつらばかりなので、やらないやらないと言いつつやる人間を書きたかった」といったことを言っていたと思う。
だが、紋次郎がかかわってしまうことは命がけで、何度も殺されかけるが、紋次郎は一切の見返りを求めないばかりか、感謝も受け取らない。
ヒンメルなど足元にも及ばない高潔さだと思う。

本当に利他的であることは生易しいことではない。
一見利他的に見える行為・・・小さな親切は大きなお世話であることも多く、かえって迷惑だったり加害的であることだってある。
だが、人生というのは、本当に利他的になれるかを試してくる。
あくまで、その人の器に応じた範囲で。
それに対応することで、知恵が磨かれ、霊的な力も増す。いや、実は、そんなことでないと本当の力は得られない。
そして、逃げたところで、何度でも試されることが起こる。
いつまでも逃げていたら、来世を待つまでもなく、利他的でない動物になるのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)木枯し紋次郎(一)(笹沢佐保)
(2)木枯し紋次郎 DVD-BOX I
(3)神様のメモ帳(杉井光)
(4)神様のメモ帳 ※Amazon dアニメストア for Prime Video
(5)葬送のフリーレン ※Amazon Prime Video

揺らめく光
AIアート1698
「揺らめく光」
Kay

忘れてしまった真実

もし、あなたが人間と見分けがつかないアンドロイドを持ち、それを人間界に送り込んだら、そのアンドロイドが見聞きすることを、自分もリアルに見聞きしたいと思うだろう。
それには、アンドロイドの目にカメラを、耳にマイクを仕込み、あなたは離れた場所で、VRゴーグルをつけて、その映像や音声を見聞きすれば、素晴らしいリアリティを持って、アンドロイドの状況を疑似体験出来る。
しかし、どうせなら、視覚と聴覚だけではなく、五感全てをアンドロイドと神経接続すれば、アンドロイドが触った感触や、熱さ寒さも感じ、その精度が高ければ、自分とアンドロイドの区別がつかなくなるだろう。

実は、我々は、本当にそんな状態なのである。
肉体という有機アンドロイドと完全に接続し、どこかから(宇宙や他惑星かもしれないし、地球の地下かもしれない)、地球上でのアンドロイドの体験を自分のものとして堪能している。
だが、我々は、アンドロイドの中に、小さな自我を作ってしまい、それと自分を同一視し、自分が本当は誰かを忘れてしまったのだ。
本当の自分は全知全能なので、アンドロイドの周囲の状況など、自由に変えられるが、アンドロイドの中の小さな自我は無力なのだ。

小さな自我である自分はどうすれば良いかと言うと、何もしなくていい。
何も考える必要はない。
自分はただ見ていて、本体である本当の自分にまかせておけば良い。
そうすれば、何でもうまくいく。
もっと親切にアドバイスするなら、本当の自分が、自分の目を通して見、耳を通して聞いていると思うと良い。
本物の魔法使いが、やたら興味深げに周囲を見るのはそのためなのだ。
魔法使いは、視覚だけでなく、聴覚も嗅覚も触覚も、ただ受容している。
そうしたら、後は、本当の自分が、全能の力で処理してくれるからである。

ギャリギャリに刻んで
知覚能力フル回転
快楽が包んでる
騙された衝動 溶け合う
~『キレキャリオン』(作詞・作曲・編曲:ポリスピカデリー。唄:初音ミク)より~

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)魂の対外旅行(ロバート A.モンロー)
(2)VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学
(3)エスの本(ゲオルク・グロデック)
(4)投影された宇宙(マイケル・タルボット)

上位種
AIアート1697
「上位種」
Kay

プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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