ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2023年05月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

足踏み四股のダイエット効果は必然だった

運動で痩せることは不可能なことは明確である。
なぜなら、人間の身体は、あらゆる意味で驚異的な性能であるが、それは省エネに関してもで、「運動程度で痩せるほど性能が低くない」のである。
人類が、安定的に食糧を得られる農耕を始めたのは、ほんの1万年前で、それまでの数十万年は狩猟で食料を得ていたのであり、あまり狩りがうまくない人類の身体は、数日食べなくても元気に狩りが出来る省エネ設計になっているのである。
実際、かなりハードな運動を長期間続けても、あまり動かなかった場合と比べ、さほど体重が減らないことは多くの実験で確かめられている。

ところで、超小食ダイエットで痩せた人が、格好良い痩せ方をしないのは、先に筋肉がなくなるからで、下手したら脂肪は死んでも残るほど消えてくれない。
また、若い人の方が代謝が良いので、若い人は太り難いというのが定説みたいになっているが、実際は、若い人と年配者で、代謝率は体重に影響するほどの差はなく、若くても太っている人がいれば、年配で痩せている人もいる。

スリムさの秘密
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「スリムさの秘密」
Kay


では、体重は何で決まるかと言うと、考えなくても分かることで、逆に考えると謎だらけで分からない。
その答はというと、単なる必然性である。
いっぱい食べても、痩せる必然性があれば痩せるし、それがなければ太る・・・それだけのことである。
もっと具体的に言えば、軽々と動く必然性があれば太ることはない。
逆に、軽々と動く必然性がなければ、いくら運動しても痩せない。
この必然性は、やはり、狩りベースで考えると良い。
例えば、泥棒が天職なら、盗みは狩りで、足音を立てずに忍び込む必然性があるから、いくら食べても太ることはない。
本当の狩りでも、足音を忍ばせて獲物に近付いて捕らえることは、昔の人類もよくやっていたはずで、そんなことをしていた者達は、さぞスリムだったことだろう。
だから、痩せたければ、泥棒や忍者になるに限る。
本当に泥棒や忍者にならなくても、泥棒や忍者の真似をすれば良い。

それには、私が毎日やっている佐川幸義流四股が一番だ。
佐川幸義流四股と言っても、決まったやり方があるわけではなく、単に、そっと足を下す足踏みで、この「そっと足を下す」ことが、まさに泥棒、忍者と同じである。
基本的なやり方は、
・足を適当に開いて立つ。
・片足ずつ適当に上げ、そっと下す。手は振らず、膝などにつけておく。
程度である。
『佐川幸義 神業の合気』などに、1つのやり方が写真入りで掲載されているが、正直、形はどうでも良いし、実際、佐川幸義の弟子でも、やり方はかなりバラバラである。
大切なことは、足をそっと下すことくらいで、後は、「高く足を上げない」「上げた脚を伸ばさない」「あまり腰を落とさない」「あまり身体を傾けない」で、何のことはない、楽なやり方を心がければ良いのである。

私自身、昔はかなり体重があったし、今も大のスイーツ好きで、かなり食べるが、毎日千回以上の足踏み四股(千回と言っても楽なものだ)で、体重はあまり増えず、特にウエスト周りが全く増えないのは、この四股が、下半身に肉を付けない効果が高いからであると思う。
私のスリムな身体は、ツイッターで度々公開している(ほとんど、毎年、マジカルミライがある夏だが)。
尚、上半身に関しては、肩甲骨周辺をよく動かす腕振り運動のダイエット効果が高いと思う。








人間最大の美徳

このブログのメインテーマの1つになったが、この世界で真の力を得る手段は「自主的な反復」のみである。
これは、誰にでも出来、得られる力を決めるのは「回数」だけである。
よって、1回1回は楽でなければ無理であるが、楽ではあってもチャランポランでは駄目で、真面目というか真剣でなければならない。
また、数多くやるのは大変そうに見えることを楽にやることに秘儀めいたものを感じるのである。
ところで、反復と言ったら、一頃ブームになった「ルーチン」のことを思い出したり、「ああ、ルーチンですね」と安易に納得する者もいると思うが、ルーチンとは違う。
ルーチンは、形式化、無意識化、習慣化しているが、力の反復はそうではない。
野球の素振りはルーチンではなく、もし、素振りをルーチン化しても力は得られない。
楽ではあっても、自主的、意識的に振るはずで、やはり「真剣」なのであるが、真剣が度を過ぎてもいけない。
とはいえ、別に難しいことではない。
一言で言えば「丁寧」にやれば良い。
「丁寧」は、いつも、自主的、意識的であるのだから。
そして、「丁寧」こそ人間最大の美徳であり、万物の霊長たる人間と、獣と変わらないレベルの人間を分けるポイントは「丁寧」である。

偉大なセールスマンであった夏目史郎に関する、こんな話がある。
彼が一時、19歳の女子大生をセールスの助手にしていたことがあったらしいが(今の時代ならちょっと問題視されるかもしれないが)、その女子大生が、夏目さんに、「あなたはかわいそうだ」と言って泣き出したという。
その理由は、夏目が、朝から晩まで、セールス先で同じことを言うからだ。
これについて、夏目は述べている。
「セールストークは同じでないといけない。繰り返してこそ、そのセールストークに力が生じる」
私が知る限り、全ての一流セールスマンは同じことを言っている。
これは、セールスの著書を出すほどの超一流もだが、私が直接会ったトップセールスマンも、間違いなく同じであった。
彼らは、同じセールストークを自主的、意識的に、つまり、「丁寧」に繰り返すのである。

生命の輝き
AIアート160
「生命の輝き」
Kay


笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯らし紋次郎』で、32歳の主人公、紋次郎は、我流の喧嘩剣法ながら、滅法腕が立った。
道場で剣を習ったこともない紋次郎が、なぜそんなに強いのか?
明らかにされたのは、この作品の第2シリーズである『帰って来た木枯らし紋次郎』シリーズだった。
38歳になり、体力が衰えた紋次郎は、体調が悪い時に、大したことのないヤクザ者達に負けて刺されるが、運よく急所は外れていて、昔、たまたまた命を助けた大商人に発見され、義理堅いその大商人に屋敷をあてがわれて、客人扱いされる。
普段ならそんなことは受け入れない紋次郎も、満足に動けないことや、義理に厚い大商人の気持ちに逆らえず厄介になっていた。
しかし、体調が回復しても、「その歳で旅は無理。ここでずっと安楽に暮らして欲しい」という大商人の要請のまま過ごしていると、紋次郎は耐えられなくなり、せめてということで牧割りをやらせてもらう。大商人は、しぶしぶ了承した。
ところが、紋次郎の薪割の腕前が凄かった。
実は紋次郎は若い頃、木こりをしており、毎日、山から木を倒してはふもとまで運び、そこで朝から晩まで薪を割っていた。当時は大量の薪の需要があったのである。
紋次郎の剣の腕の基礎は薪割で作られたのだ。
書かれてはいなかったが、それほどの腕の薪割が出来る紋次郎は、長時間、真面目に、自主的に、意識的に・・・つまり、丁寧に薪割をしていたに違いない。

重要なので繰り返すが、「丁寧」こそ人間最大の美徳であり、人間を高いものにするか劣ったものにするかを分けるのは「丁寧」である。
人間が真の意味で成功するか・・・たとえば、優れたスポーツ選手や芸術家や職人になれるかどうかを決めるのは、「丁寧」を伴った反復である。
腕振り運動や足踏み四股といった楽な運動でも、丁寧に繰り返せば人間を超え、「私は誰か?」と丁寧に自分に繰り返し問えば神になるのである。








昭和のスポコン漫画に「素振り」を学ぶ

今も人気がある昭和のスポコン漫画・アニメ『アタックNo.1』の中に、こんな場面があったと思う。
ヒロイン達は中学バレーボールの選手で、大会で輝かしい実績を上げたので、学校は女子バレーボール部専用の素晴らしい練習設備を作る。
ヒロイン達は、自分達は努力して成果を上げたのだからそれも当然と思っていたが、誰かに案内され、他の運動部の様子を見ることになる。
すると、狭い練習場や古い設備で真面目に練習する他のスポーツ部の選手達がいた。
私も、スポット的に何かで見ただけなので、それでどうなったか知らないが、卓球部で、1人の女子選手が、黙々とラケットの素振りをしていた。
それを見て、私は、「カッコええなあ」と思ったものだ。
彼女が選手として成功するかどうかは、おそらく、全く語られなかっただろうが、この素振りを続けていれば、選手としてどうかより、もっと貴重なものを得たに違いない。

やはり今も人気があるボクシング漫画『あしたのジョー』に、こんな話があるのは、よく知られている。
主人公の矢吹丈が少年院の独房に入れられているところに、丹下団平(通称「とっつぁん」)から、左ジャブを指導するハガキが届く。
初めは、そのハガキを破り捨てた丈だったが、あまりの退屈さに気が変わり、そのハガキをつなぎあわせて読む。
「脇を締め、やや内角を狙い、えぐり込むようにして打つべし」
だったと思う。
始めると、やがて丈は夢中になり、何日も1日中やり続ける。
それを見て、私は、「カッコええなあ」と思ったものだ。

森に行きましょうお嬢さん
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「森に行きましょうお嬢さん」
Kay


他にも、昔の作品では、たとえば、宮本武蔵を描いた本宮ひろ志の漫画『武蔵』や、笹沢佐保の時代劇小説『木枯らし紋次郎』で、ヒーロー達が、いかに、単調な繰り返しで強くなったかが描かれていた。
これらの単調な繰り返しを「素振り」と譬えるなら、あらゆることの極意は素振りである。
私のようなプログラマーも、ひたすら良いコードをそのままタイプすることを「写経」と呼び、これが優れた学習法であることを、知っている者は知っている。
一流作家の中にも、ヘミングウェイなどの優れた作品を、ひたすらタイプライターで書き写して修行した者もいるのである。

私は今は、腕振り運動や足踏み四股をひたすら繰り返す「素振り」で、ますます身体は若く強く美しくなり、「私は誰か?」と問う「素振り」で超能力が高まる一方である。








「私は誰か?」をどのように問うか?

今の日本には深刻な問題が沢山あり、学識・教養に満ちた頭の良い人達がその問題を分析したり、解決策を提示したりしているが、現実的には、それらは何の解決ももたらされない。
なぜなら、その分析や解決策は思考によるものだからで、思考はどこまで行っても貧小で力のないものだからだ。
ところで、人々は日本の問題や世界の問題に本気で興味があるわけではなく、自分の問題にのみ強い関心がある。
そして、自分の問題もまた、思考することで悪くなることはあっても良くなることはない。
だが、単に思考を消せば全て解決する。
思考を消す最上の方法は「私は誰か?」と自分に問うことである。
よって、「私は誰か?」と自分に問えば、あらゆる問題は解決する。
それは、自分の問題も、日本の問題も、世界の問題もであるが、日本の問題は日本に、世界の問題は世界にまかせておけば良い。
自分の問題も解決出来ない者に日本の問題や世界の問題を解決出来るはずがない。
「私は誰か?」を提唱したラマナ・マハルシは「世界平和のためにあなたが出来ることは?」と聞かれたら「真我の実現」と答えたと言われるが、真我の実現は思考を消すことによって達成される。
よって、我々は「私は誰か?」と自分に問うのが良い。
ところが、「私は誰か?」とどのように問うのが良いのかが分からない。
ある本によると、マハルシは「『私は誰か?』を呪文にしてはならない」と言ったらしい。
これを、空虚に言葉だけを繰り返してはならないという意味に取る人が多いだろう。
だが、マハルシがそう言ったのだとしても、それをいつ、どんなシチュエイションで言ったかが問題で、それを勝手に意味づけしてはならない。
私は、「私は誰か?」を単調に繰り返しても良いと思う・・・つまり、呪文にしても良いと思う。
言い換えれば、「私は誰か?」は最上の呪文であるとも言える。
『バガヴァッド・ギーター』や『エイリアン・インタビュー』に書かれたことを理解して問うのが良いのかもしれないが、そうでなくて良い・・・あるいは、下手な理解の影響を受けて問うより良いかもしれない。
唯一大切なことは、問う数というか時間の長さである。
どんな下手な問い方であろうが、多く問えば、自ずと正しい問い方になっていく。
逆に言えば、どれほど深淵な本をよく読んでいても、数をこなさなければ正しい問い方にならない。

神殿の乙女
AIアート158
「神殿の乙女」
Kay


私はいかなることも、落合博満さんが教えを乞いに来た若い選手に5時間素振りをやらせたことを教訓にしている。
まあ、それ以前に、ある成功した経営者が、会社の幹部達に「俺とお前達との差は素振りの数だけ」と言うのを印象深く聞いていたこともあり、いかなることも数で解決出来る・・・いや、数でしか真の解決は出来ないと分かっている。

人生が楽しくないから早くタイムリープしたいと思う者も多いだろうが、思考を持ったままタイムリープしても、記憶は消えてしまうばかりか、偽の記憶が植え付けられ、結局、同じ人生・・・それどころか、もっと悪い人生になる可能性もある。
タイムリープや転生後は、それ以前の記憶がないのが普通である。
思考を消せば、タイムリープ後や転生後も記憶を維持し、さらに、英知を持ち、引き寄せも行うのであるから、楽しい人生になるし、今の人生のままでも十分かもしれない。
とにかく素振り(「私は誰か?」と問うこと)を多くすべきと思う。
※今回は世界コマンドのことには触れなかった。








ロボットである人間が運命に抗うには

人間に自由意志はない。
つまり、自分で考えているような気がしていても、考えはただ起こるだけだ。
分かり易い言い方をするなら、人間は思考も含め、遠隔操作されているロボットに過ぎない。
まあ、簡単なことなら、遠隔操作されるまでもなく、脳が状況に反応して処理するように出来ているが、それも、プログラム通りに行われるだけで、自発的に考えるわけではない。
「この思考停止の愚か者どもめ」みたいなことを言っている者も、何者かに、そう思わされ、そう言わされているだけだ。
中国の古典『荘子』の中に、こんな話がある。
影が「俺は主人(人間)に従って動いているだけだが、それは主人も同じで、主人も何者かに従っているだけなんだ」と言う。
2400年も前の荘子の鋭さに驚くが、まあ、荘子も、そう思わされただけで、それがたまたま正解だっただけだ。

空の子
AIアート157
「空の子」
Kay


腕振り運動が続かないって人も、単に、続かないようプログラムされているか、続かないよう遠隔操作されているだけだ。
一方、毎日千回以上、腕振り運動を必ずやる人間は、健康で長生きするようプログラムされていたり、遠隔操作している者がそう決めているのである。
3千回以上なら、超能力者や仙人になるよう決められているのかもしれない。
「私は誰か?」と長時間自分に問えるなら、世界を支配するとか、人類を救う運命かもしれない。
本来、「私は誰か?」と問い続ける運命になくても、無理にやっていたら、我々を遠隔操作している宇宙人か何かが、「こいつ、意外に適性があるかもしれない」と思って、それをやるよう遠隔操作で設定を変えてくれるかもしれない。
まあ、珍しいことではあるが、そういうふうになっているかもしれない。
これが、いわゆる「運命に抗う」ということである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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