ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2023年02月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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『老子』第32章を一言で言えば「自然なものは支配されない」

今回は『老子』第32章である。
この章を一言で言えば「自然なものは支配されない」だ。

シンプルな真理を見事に述べてくれている。
老子の説く、貴い「道」とは、簡単に言うなら、「樸(あらき。朴)」・・・つまり、自然のままのもののことだ。
そのようであれば支配されない・・・つまり、隠された意味として、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に支配され、魂を不活性な状態にされた状態から逃れられる。

運良く、自然児のように育ち、見事、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配を逃れ、魂の全知全能の力を取り戻す者もいるが、それを意図的に行うのは難しい。
だが、「私は誰か?」と自分に問うことで、樸(自然のままの状態)に帰ることが出来る。
「私は誰か?」と問い続けることで、忘れてしまった本当の自分・・・全知全能の無限の魂、即ち、神とは自分であることを思い出すのである。
悪の宇宙人は、今も遠くから我々を監視し、驚くべき方法で我々を操っている。
真実を忘れ、偽の記憶を与えられ、それによって地を這う虫のように弱くなっている我々を操ることは容易だ。
しかし、「私は誰か?」と自分に問い、目覚めるごとにそれは難しくなり、やがて、支配を逃れ、神の力を発揮して逆襲する。
この、悪の宇宙人に対する最大の嫌がらせをせずにいられようか?








『老子』第31章を一言で言えば「心を穢すな」

今回は『老子』第31章である。
この章を一言で言えば「心を穢すな」である。

人間は、心が穢れれば終わりなのである。
心が穢れれば、昔の言い方であれば、悪霊に憑りつかれるのだが、本当は、悪の宇宙人のマインドコントロール装置からの連続的な攻撃を受け、魂の波動が低下する一方になり、どんどん力を失う。

心が穢れるとはどういうことかというと、脳にセットされた逸脱した欲望が燃え上がることである。
そして、この『老子』第31章では、最も心を穢す欲望が人殺しであることを明かしている。
自分には人殺しは関わりがないと思っているかもしれないが、そうではない。

1955年の西部劇の傑作『星のない男』で、未熟で間抜けだが純粋な若者であるジェフが、初めて銃で人を殺した時、流れ者のデンプシーが言う。
「ついに殺しの味を覚えてしまったな」
これは、デンプシーがジェフに対し、なんとか避けて欲しいと願っていたことだろう。
殺しは癖になる。
放っておけば、殺人者は悪魔になる。
戦場で心を病んで帰ってきた者の話がよくある。映画にもなっているだろう。
だが、そんな、戦場で心を病む原因は不安だ。
対して、殺すのに慣れてしまえば、悪魔の手下になる。
日本の武士が戦の最中に花を生けたという話がある。
そうやって禊をすることで、心を悪魔に持って行かれないため・・・即ち、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に捕らわれてしまわないためだ。
昔の修行をした武士には、直観的にそんなことが分かったのだ。

我々は確かに、滅多なことで人殺しはしないかもしれない。
だが、心の人殺しはありふれている。
いじめがなぜ起こるかとか、SNSがなぜ荒れるのかという話はよく聞くが、その答はバラバラで曖昧だ。
本当の答は、我々は人の心を殺すのが楽しいからである。
そのように脳がセットされているのである。
弱い者いじめをして、相手の心を殺したくて仕方がない。
性的欲望を満たすのでも、相手を徹底的に辱めたくなってしまっている者もいる。そうやって、相手の(多くの場合は女性の)心を殺したいのだ。
そのままでいると、ますます悪の宇宙人のマインドコントロール装置に捕まり、地を這う虫のごとく力を失う。
一方、数は少ないが、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に、変わった形で完全に支配され・・・昔の言い方だと、悪魔に魂を売り、力を得る場合もある。
だが、それは一時的なもので、そんな者は、最も哀れな最後を迎える。

いつも言う通り、悪の宇宙人のマインドコントロール装置は、人間の記憶を消し、偽の記憶を植え付けることでそれらのことを行うのだから、人間が記憶を取り戻せば、支配を免れる。
そのためには、自分が本当は全知全能の無限の魂であることを思い出すしかない。
それを成し遂げる方法が「私は誰か?」と自分に問うことである。
自分が、本当は神である魂であることを思い出すごとに、自分に関しても、他者に関しても、命を奪うのではなく、命を生かすようになる。








『老子』第30章を一言で言えば「自慢をするな」

今回は『老子』第30章である。
この章を一言で言えば「自慢をするな」である。

この第30章はちょっと変わっていて、そもそも『老子』というのは、君子について語っているのに、この章では、その君子を補佐する者の話になる。

老子は、人民に関しては、悪の宇宙人のマインドコントロール装置から逃れることは不可能なので、神のようなものになるよう教え導くことはなく、その与えられた条件の中で、出来るだけ幸福にしてやろうと考えた。
しかし、君子に次ぐナンバー2なら話は別で、優れた君子に学べば、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配から逃れ、自分が全知全能の魂であることを思い出せる。
そして、現代では、それが当てはまる者が増えてきている。
あなたも間違いなくそうである。
よって、いつも謙遜を忘れず、高慢にならず、うまくいっても「たまたまだ」と言い、称賛されるようなことをしても「やむなくやっただけ」とさりげなく言えるようでなければならない。

そのようになるには、自分が全知全能の魂である神であることを思い出せば良い。
そのためには、「私は誰か?」と自分に問い続けなければならない。
そうすれば、神の魂が自分の魂の中に流れ込むと同時に、自分の魂が神の魂の中に流れ込んでいくような感じになり、神と自分が一致してくる。
そうすれば、自ずとその者は自慢をしなくなり、自慢をしなければ自然の全潜在力が味方をする。
自慢をし、自分を大きく見せようとするほどに弱くなることは、経験的、感覚的に分かると思う。
このことは、小さな力を持つだけの小悪人でも知っている。
だから、卑しい小悪人でも自慢を控えれば、自慢をしたがる一般人を従えるくらいのことは出来るのである。
ましてや、「私は誰か?」と問い、神である私が自慢をするはずがなくなれば、もはや無敵である。








『老子』第29章を一言で言えば「極端を避ける」

今回は『老子』第29章である。
この章を一言で言えば「極端を避ける」である。

ものには限度があり、いかに酒好きでも、ほどほどに飲まないといけないし、いかに大事な宝でも、人の命を犠牲にしてまで守るべきでない。
いくら真面目で勤勉な社員でも、40度の高熱がある時は休まないといけないし、良い生活がしたくても、稼ぎの範囲でやらないといけない。

・・・とまあ、クソ真面目なことを言うのは、特に若いうちは面白くないものだ。
無茶をしたい、徹底的にやりたい、クレイジーであってそ命が燃えるものだ・・・というのも、あながち否定出来ない。

だが、極端を避ける理由は、熱狂している時の精神状態が危険だからであることが分かれば、自ずと慎むようになる。
昔は、「心を失うと悪霊に憑りつかれる」と、よく言われたものだった。
これは、感覚的な表現であり、同じことを、我を忘れるとか、自分を失うという言い方もする。
「心を失うと悪霊に憑りつかれる」とは、「1分間熱狂すると、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に発見され脳を破壊される」ことを、直観的に分かって言ったことだ。

ロックコンサート等で、熱狂し過ぎて、極端な場合、失神する人がいるらしいが(ほとんどはヤラセであるという説もあるが)、そんな喧噪から帰ってきたら、人が変わってしまっているもので(悪い方にである)、完全には元に戻らない。
だが、演奏しているミュージシャンは、案外に冷静なのだが、作り物のミュージシャンが、自分が熱狂しているうちに廃人になるのも、やはり、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の攻撃を受けるからである。

熱狂し、心のコントロールを失うことは、そのように恐ろしいことだ。
だが、「地雷を踏む」という隠語で示されるように、人間は条件が整ってしまうと、容易く(レベルはあるが)発狂する。
だから、我々は意識して地雷を避けなければならない。
だが、心の地雷は向こうからやって来る。
ここらは、意外だが、L.ロン.ハバードの『ダイアネティックス』に、「反応心」としてうまく説明されている。
この本は、いわば、危険な心の地雷から身を護る方法について書かれている。
『ダイアネティックス』は、中途半端に宇宙人の情報を得るか、勘ずくかして書いたものかもしれない。
害もあるいかもしれないが、案外に得るものもあるように思う。
俳優の中で、最も多くの収益を上げたのはトム・クルーズだが、トム・クルーズは『ダイアネティックス』を基本にした宗教であるサイエントロジーの熱心な信者で、良いか悪いかは分からないが、人間としては妙に強いエネルギーがあるのも、『ダイアネティックス』の影響があるのかもしれない。
ただ、少なくとも、『ダイアネティックス』の周辺には悪いものもあるので、せいぜい、本を読むだけにしておくと良い。
ちなみに、『ダイアネティックス』は、自己啓発分野では、歴史上、最も売れた本である(『ザ・シークレット』が超えたかもしれないが)。

だが、極端を避け、熱狂に陥らない最良の方法は「私は誰か?」と自分に問うことだ。
ある意味、「私は誰か?」と問えば、強力な悪霊に憑りつかれないで済む。
悪霊に関しては、宗教的に上手く対処した者も、いくらかはいたと思う。
しかし、それもまた、周辺は曲者が多くて困るのである。
そこで、加持祈祷の類ではなく、「私は誰か?」と問う方が良いと思う。
言葉の上だけで良いから、「本当の私は全知全能の無限の魂」あるいは「本当の私は神」ということを憶えておいて「私は誰か?」と自分に問うのである。
私は神であると主張する必要はないし、してはならない。
「私は誰か?」と問うているうちに、事実は自ずと明らかになる。
事実とは、「私は神である」ことである。

『老子』第28章を一言で言えば「美点は隠せ」

今回は『老子』第28章である。
この章を一言で言えば「美点は隠せ」である。

まあ、「謙遜しろ」「謙虚であれ」「己惚れるな」「能ある鷹は爪を隠す」等と同じであるが、これらは、人に好かれるための必須条件である。しかし、それだけでは全くない。
秘めた真の能力を発揮する秘訣であり、さらに、本当にこれを自然に出来るようになれば、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の力から逃れることが出来る。
まさに、悪の宇宙人のマインドコントロール装置は、思考の中でも最も粗い、自分を高く見る思考、他を自分より劣ったものとして蔑む思考、優越感に浸りたがる思考、強い承認欲求を求める思考に強く反応し、狙い撃ちにしてくるのだ。

確かに、地球にいる限り、人間は承認欲求を渇望するようになってしまう。
なぜなら、他者に「やんやと」誉めそやされないと不満や不安を感じるよう、悪の宇宙人のマインドコントロール装置によって、脳を設定されているからだ。
それを逃れるには、「私は誰か?」と自分に問い続けるしかない。
自分が、本当は全知全能の魂である無限者、即ち、神であることを忘れているのだと思い、ただひたすら「私は誰か?」と問うのである。
すると、心の奥から少しずつかもしれないが、魂の輝きが現れる。
この人工的に進化させられた身体は、胸の中央から指2本分右が魂と共鳴し易い場所であり、古代から、ここを魂の座とする教えがある。
だから、そこに意識を置きながら「私は誰か?」と問うとより効果的という意見もあるが、それは参考程度に考えると良いと思う。
















プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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