ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2022年12月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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引き寄せの力に選ばれる者

徳川家康か言ったのだと思うが、
「人が天下を選ぶのではない。天下が人を選ぶのだ」
という言葉をよく憶えている。
ところが、『魔法騎士レイアース』というアニメで、クレフという名の導師(精神的指導者という意味だが、魔法力のあるマスターの意味で使われることもある)が、光、海、風(ふう)という名の14歳の3人の少女にこう言う。
「お前達に魔法を授けようとしたが、魔法の方でお前達を選んだ」
これも、家康の言葉と同じような意味だろう。

よく、引き寄せ関係の書籍、動画に、「こうすれば絶対に引き寄せが出来る」みたいなタイトルで注意を引こうとするものがあるが、中身は大抵、期待を裏切る。
引き寄せも、上と同じなのだ。
「人が引き寄せの力を選ぶのではない。引き寄せの力の方が人を選ぶのだ」
こう考えれば、極めてすっきりし、納得出来ると思う。

何ごとも同じと思える。
人が富を選ぶのではなく、富が人を選ぶのである。
人が大統領の地位を選ぶのではなく、大統領の地位が人を選ぶ。
人が栄光を選ぶのではなく、栄光が人を選ぶのである。

そして、これらは全て、引き寄せの力によって得られるのであるから、引き寄せの力に選ばれる人間でなければならない。
結局、重要なことはこれだけになる。
では、どうすれば、引き寄せの力に選ばれるのだろうか?
「神は取り引きに応じない」と言われるように、「これをしたから引き寄せの力に選ばれる」ということはない。
選ばれる条件は、言葉で言えばいろいろだが、どれも同じ意味である。
「器量が大きい」「無私である」「心が強い」
この中で最も誤解され易いのが「心が強い」だが、上の『魔法騎士レイアース』で言われていたことがこれで、誤解され易いと共に、最も分かり易い。
「心が強い」とは、「エゴをねじ伏せる心の強さがある」ことで、そんな人間のことを「器量が大きい」「無私である」と言うのである。
エゴの声は、たとえばこうである。
「誰も見ていなければ、ちょっとくらい悪いことをしてもいいじゃないか」
「みんなこれくらいのことはしている。俺がやっても責めらるようなことじゃない」
「脅しておけば大丈夫だ」
「捕まらなければやってもいいんだ」
こんな声に従うような者に引き寄せは出来ない。
また、こんな声の誘惑に弱いほど、引き寄せの力が弱いとも言える。
『魔法騎士レイアース』で、最も心が強い少女、光の信条はこうであると思われる。
「約束は必ず守る」
彼女はよく言う。
「約束したんだ。約束は守らなくちゃ駄目だ」

エゴにも良いところがあると言う人もいる。
それはどんなところだろう?
多分、「現実的であることも必要」という意味だ。
たとえば、宮沢賢治の『雨にも負けず』のように、

東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

そんなこと、いちいちやっていたら生きていけない。それが現実だ。
・・・とエゴが言ってくれるのである。
光のような若い少女なら、エゴのこんな声すらねじ伏せようとするかもしれない。
だが、「面倒だからしない」「損だからしない」と言うのがエゴである。
心が強い者は、別に、エゴのそんな言葉に従っているのではない。
この場合、心が強い者がエゴをねじ伏せる想いは、「自分の問題は自分で解決しなければならない」である。
すると、エゴは「手助けくらいはすべき」と言うかもしれない。
しかし、エマーソンは「私は、一切の寄付も断りたい」と述べている。
ドナルド・トランプが個人的にも多額の寄付をするのも、「神が余分に与えてくれた分の一部は還元すべき」と考えているからかもしれないし、エマーソンも言うように、「寄付をした方が面倒でない(エマーソンはそうすることを恥じていると言うが)」からかもしれない。
本当のところは分からないが、エゴによる強迫観念に縛られてのことではない。

稲盛和夫の信念は「無私であればやる。無私でなければやらない」で、これは、『ラーマーヤナ』で、ラーマの宿敵である魔王ラーヴァナが、ラーマに教えたことである。
倒した敵から教えを受ける。
ラーマは、この美しい慣習に従ったのである。
そして、この教えは、心が強い者の心構えである。








個性的な目標とは

同じ目標を持つ者が百人いることが確信出来るなら、その目標は平凡で、権力者に持たされただけの目標で、奴隷の目標だ。
たとえば、金メダルや受験の合格なら、数え切れないほど、沢山の人が目標にしている。
1憶円?
似たような目標を持つ者が日本の人口程いそうだ(笑)。
こういった目標を持つ者は、個性的ではなく、凡庸で、汚水に湧くボウフラのような者達だ。
単に楽しいなら目指しても別に構わないが、その場合は、こだわらず、なりゆきに任せることだ。
では、世界平和は?
口で言うだけなら、やはり、アメリカの人口程いそうだ(笑)。
「いや、俺は口先だけではなく、本当に世界平和を願っている」
と言うなら、嘘つきか馬鹿かのどちらかだ。
トランプ大統領だって、そんなことは言ったことはない。
人間は、直接に世界平和を願うようには、出来ていない。
単に、自分や家族のために、そう願うだけなのだ。
仕事仲間の平和を本当に願える人が偉大な経営者になれ、国の平和を本当に願える人がい偉大な政治家になるが、そのあたりが限度だ。
人間は、実際には、他人の幸福には関心がない。
たとえば、テレビで、可哀想な子供を見て、「可哀そうに!」と言って涙する人は少なくないが、すぐに忘れて美味しいものを食べることに血道を上げているではないか?
平凡な目標を持つ平凡な人間になってはならない。
そんな者は、人生を自在に支配する自由な人間にはなれない。

ところで、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、人間の秘められた偉大な力を開発した大師達に会い、そんな太師達と同じになるまでは、大師達のところに留まり、アメリカに帰らないと誓った人達の話がある。
そんな目標を持つ者も、百人どころか、かなり大勢いるだろう。
しかし、そんな人達が沢山いることを、あなたは、頭では分かっても、確信はしないと思う。
そうであるなら、それは個性的な目標だ。
もちろん、本気でそれを目指すならだ。
本気で目指すとは、内なる衝動を感じるということであり、そんな人は、その目標を一般の人に言ったりはしない。

一応言っておくと、金メダルを取るとか1憶円という目標でも、同じ目標を持っている人間が百人いることが確信出来ないなら、それは個性的な目標なのである。
頭では、同じ目標を持っている人間が沢山いることは分かっても、異なる動機でそれを得ようとしているなら、他の者達が自分と同じことを目指しているとは感じないからだ。

個性的な人間の目標とは、こういったものである。
参考になればと思う。








佐川幸義流四股の基本

強く、美しく、若々しい身体を持つことは良いことであることは疑いがない。
それには少しは鍛えないといけないが、運動は、毎日欠かさずやってこそ効果がある。
そして、運動は楽しくなければ続けられない。
しかし、運動とは、元々楽しいものである。
ただし、自然で、いつでもどこでも気楽に出来る運動であるならである。
世の中で運動の代名詞のように言われる、ジョギング、ウォーキング、筋トレ、体操などがそうであるとは考え難い。
もちろん、「毎日やりたい」と思うのであれば何でも良い。
しかし、特に日本人は、「自分に勝つのが鍛錬」みたいな観念があると共に、世間で言われる、上で挙げたような運動(ジョギングや筋トレ等)をやりたがる。
私も、筋トレなどをしていた時は、運動が億劫だし、ハードにやれば、運動の時間が来るのが憂うつで、しかも、身体を痛めることが多かった。
それでも根性でやる方だから、ストレスがたまって精神的にも良くなかった。

現在は、腕振り運動と四股踏みをメインにやっているが、ますます、自主的に毎日やりたいと思うようになり、自然な強さ、美しさ、若さが得られるようになったと思う。
ところが、腕振り運動も四股踏みも、やり方はいろいろである。
四股踏みの方は、私は、相撲式ではなく、佐川幸義(大東流合気柔術の達人)流でやっている。
現代の相撲の四股は、見せる要素が多く、不自然で、良いものではないと思う。
だが、佐川幸義流は、自然で、楽で、いつでもどこでも、また、誰でも出来、効果は、佐川幸義自身やお弟子さん達が証明していると思う。
ところが、佐川幸義は、その四股のやり方を明確に教えないことが多く、お弟子さん達の間でも、やり方が異なっていたりする。
私も、何年も、佐川流四股を研究しているが、佐川幸義が実際に、どんな四股をやっていたかは分からない。
しかし、基本的な部分を押さえていれば、自分で工夫してやればそれで良いのだと思う。
基本さえ押さえていれば、効果はあるし、毎日、楽しくやれる。

佐川流四股の基本的なこととは、

・足を高く上げない。
・腰を深く落とさない。
・身体をあまり傾けない。
・足をどすんと下ろさない。

と、ないないずくしで、逆の表現をすれば、

・足を少し上げる。
・腰を少し落とす。
・身体をなるべく真っすぐに保つ。
・足をそっと下ろす。

となる。
具体的には、こんなやり方がモデルになる。

(1)足を左右に肩幅程度に開いて立つ。
(2)膝を少し曲げる(腰を少し落とす)。
※あらゆる運動(柔道、野球のバッティング、バスケットボールのフリースロー等)で「構え」の姿勢をとれば、自然に少し腰が落ちると思うが、その程度。
(3)身体をなるべく真っすぐに保ったまま(つまり、なるべく左右に傾けない)、片足を(実際は膝を)少し上げる。無理に頑張って身体を真っすぐにするのではなく、自然に多少傾くのは構わない。しかし、なるべく傾かないようにする。足を上げても、膝は伸ばさない。上げる高さは、数センチから20センチの間程度。
(4)上げた足を、特に上げたまま保つことはなく、静かにそっと、つま先から下ろす。
(5)(2)の姿勢で瞬間止まる。

つまり、四股の間、腰はずっと、少し落ちていて(膝が少し緩んでいて)、膝を真っすぐに伸ばすことはない。
ただ、動画サイトで時々見るが、(2)の形を固定して保ち、身体を左右に傾けることで、足を上げるようにやる人がいるが、やじろべえや変なロボットのようで、これは明らかに間違いだ。私も、研究中は、そんなやり方もやったが、これでは、四股で重要な、腰のバランス機能を鍛えることが出来ない。
私の家には、足踏みをしても、床がギシギシ鳴る部屋があるが、そこでやっても、音がほとんどしないようにやっている。
そのためには、体重移動が巧妙でなくてはならず、音をさせないよう心がけることで、身体のバランスが良くなる。

佐川幸義は晩年、内耳の病気でバランスが取れなくなり、四股が出来なくなったが、それでも全く落胆することなく、椅子に座ったままでやっていたらしい。
要は、身体を左右に振らないようにしながら、足を上げ、そっと下ろすということが出来れば良いのである。
私は佐川幸義のこのエピソードを読み、佐川流四股が最高の運動だと思ったのである。
佐川幸義流四股に関しては、以下にご紹介した書籍、雑誌に解説がある。








個性的に生きるスイッチはあるにはある

「生きている」というのは、単純には、生物として生命活動を行っているという意味だ。
しかし、小説やアニメ等で「私は生きているとは言えない」といった言い方をする時は、「生き生きと生きていない」ということで、「自分らしく生きていない」ということだろう。
(人間らしく生きていないという、人間の尊厳に関わる問題もあるが、今回のテーマではないので触れない)
では、「自分らしく生きていない」とはどういうことかというと、「持って生まれた資質を生かし、個性的に生きていない」という意味と思って良いと思う。
やや回りくどい言い方をしたが、やはり、人間は個性的に生きなければ、本当に生きていることにならないのだ。
そして、個性的に生きなければ、人間の本来の力・・・神のような力が発揮出来ない。
現実的に言うなら、引き寄せの力が発揮されないのである。

人間社会は個性的に生きることが難しい。
いつの時代でもだが、特に現代はそう言えるかもしれない。
個性的に生きようとしたら、「出る釘は打たれる」のように、強い妨害に遭う。
だが、本来、個性的に生きるのは自己責任であり、それがやり難くても誰にも文句は言えない。

子供のことについて、心理学者やカウンセラーに相談しに来る親の中で、例えば、不登校の子供について、
「先生、子供が学校に行くスイッチってないですかね?」
と、言う者がいるらしい。
要は、こんな難しい問題を、苦労せず、簡単に・・・というより、「安易に」解決したいのだ。
こんな愚かな心構えだから、子供がおかしくなったのだろう。
この親は、子供と正面から向き合う気がなく、そんな面倒なことをしなくても済む都合の良い解決策を求めているのだ。
しかし、実際の解決法は、親が子供と正面から向き合うしかないのである。
個性についても同じだ。
「個性が出来るスイッチってないですかね?」
と思うような者に見込みはない。
しかし、1つないでもない(笑)。
別に、いい加減なことを言おうというのではなく、原理的なことだ。
つまり、人間の脳の中に組み込まれた唯一のコマンド(命令)は、「生きろ」だけである。
そして、最初に述べた通り、人間は、ただ生物として生きているだけでは生きているとは言えない。
だから、「生きている」と実感する時、その人は個性的に生きている。
そこで、「生きている」という言葉を言う、あるいは、思うことで、個性的に生きる道に導かれる。
「生きている」と唱えることで、潜在意識が個性的に生きられるよう、あなたを動かす。
ただし、そう導かれて個性的に生きようとしたら、必ずエゴの抵抗に遭う。
エゴは、無個性に生きる方が安全だと思っているからだ。
潜在意識に従うか(直観に従うこととほぼ等しい)、怠惰な心に従うか(これがエゴに従うことである)の選択は、あなたの自由である。
「生きている」が最強のアファーメーション、あるいは、呪文と言われる所以はこういうことである。
だが、呪文を唱えても、潜在意識の導きを受け入れるかどうかは、あなたの自由なのである。








「釈迦も弥勒も殴り殺す」の真意

昨夜(つまり、これを書いている少し前)、かなりユニークな夢を見た。
実際の夢の内容は、私は記憶していない部分が多いが、ざっくりではこんな内容だ。
ある謎の男がいて、科学者だか神秘家なのか分からないが(一番近いのがイカサマ師という印象であったが)、彼は、人に不思議なスキルを与えることが出来る。
人に与えると言っても、見ていたら、与えるのは少女だけ、それも、美少女だけなのだが、別に、妙な意図があるのではなく、美少女の特性を拡張・増大させるスキルであるのだろうと思った。
そのスキルは、「微笑みで癒しを与えるスキル」で、美少女が微笑みで癒しを与えるなんて、アイドル的で平凡と思うかもしれないが、その力が半端なかった。
スキルを与えられた美少女の微笑みを見ると、本当に癒される・・・不安が瞬間に消滅するのである。
私も、その微笑みを見て、その威力に驚いた。
モナリザの微笑みなど比較にならない・・・というか、あのおばさんの微笑みで癒されるのは、相当通な人だけだろう(と思う)。

ところで、スピリチュアル思想の影響か、不安を取り除くことが出来れば、人間の問題が全て解決すると思っている人が多いかもしれない。
それを示す象徴的なお話がある。
心理学者のアレクサンダー・ロイド博士が、講演中に、会場の1人の女性に夢を尋ねたら「100万ドル(約1憶3千万円)」ということだった。
ロイド博士がその女性に、「100万ドルで何をしたいのですか?」と尋ねると、女性は、「100万ドルがあったら不安がなくなる」と答えた。
そこで、ロイド博士は、エネルギー療法で、女性の不安を取り除いた。
それで、その女性は、本当の夢は不安をなくすこと、即ち、安心することで、100万ドルではなかったことを理解した。
(尚、エネルギー療法とは、ロイド博士の著書『「潜在意識」を変えれば、すべてうまくいく』にあるもので、両手を胸に重ねる、あるいは、重ねた手をどちら回りでも良いが胸の上で滑るようにゆっくり回転させるというものだ)

では、この、エネルギー療法で不安を取り除いた女性は、幸福になっただろうか?
つまり、成功した・・・これは曖昧な表現で、はっきり言うなら、引き寄せが自在になっただろうか?
それはない。
多くの人が勘違いしている。
安心することがゴールなのではない。
それ(安心がゴールであること)は宗教で、宗教が人を幸福にすることはない。
最初に、スキル「不安を消す微笑み」を美少女に与える男がイカサマ師に見えると書いたが、本当にイカサマ師だ。
近藤真彦さんのミリオンヒット曲『ミッドナイト・シャッフル』に、「天使のような悪魔の笑顔」という印象的なフレーズがあったが(古いか)、このイカサマ師が美少女に与えたスキルは、そんなものかもしれない。

つまり、不安を消しても、再び、不安に飲み込まれるのは目に見えている。
世間は・・・大衆の集団意識は、あらゆる人間を飲み込み、不安で縛り、凡庸な人間にしてしまうのである。
そうならないためには、集団意識に飲み込まれない強い個性を持つしかない。
有名なロイド博士も、その点に気付いていないようだ。
彼は、『「潜在意識」を変えれば、すべてうまくいく』以前から、癒しの方法を多くの人々に教えてきたが、彼が儲かり続けているということは、人々の問題が解決していないということだ。
それはそうだ。
彼が出来るのは、一時的に不安を消すことだけだ。
生涯に渡って不安を持たないためには、自分で個性を磨くしかない。
これは、ナントカ療法一発で出来るようなことではない。
人々の方も、「スイッチ1つ押せばOK」的な「ナントカ療法」を求めるから、ニーズには合っているので、ロイド博士は儲かるし、一時的には感謝される。
だが、私は、ロイド博士が話すのをYouTube動画で見たが、あれは誠実な人間の顔ではないと思った。

師を超えない弟子は個性的ではない。
そもそも、いつまでも師のところにいる弟子は個性を殺されているのだ。
イエスや釈迦を崇敬はしても、コピーしようとしてはならない。
コピーしようとするのが宗教である。
禅語の中にも、「釈迦や弥勒に出会ったら、棒で殴り殺してやる」という物騒なものがある。
宮本武蔵だって、「神に出会えば神を切り、仏に出会えば仏を切る」と書いている。
つまり、「俺は真似はせん。オリジナルでいく」と言っているのである。

個性を磨くには、好きなことを寝食を忘れてやるのが一番である。
「好きなことを見つけるのが難しいんですよねー」と言う者は、〇〇して△△してろである(下品で言えない 笑)。
そんなことを言う者を、誰も(神も)助けてくれない。

「自分でいる」とは、平凡でぼーっとしていることではない。
個性的であるということだ。
ただし、世間や権力者の言う「個性的」は全力で無視しないとロボットにさせられる。
「君が君でいる」とは、「君が個性的である」ということだ。

岡田虎二郎が、金に窮しているという男に「金?金は腹に力がつけばいくらでも出来ますよ」と言ったという。
この「腹に力がつく」とは、「個性的になる」ということだ。
虎ちゃんも、もっとちゃんと言えよと言いたい。
つまり、大切なことは、岡田式静坐をやることではなく、自分が好きなことをすることである。
もちろん、岡田虎二郎は、方便として岡田式静坐法を作ったのであり、その先どうするかは、岡田の責任ではない。
勝手な想像だが、彼も落胆したのかもしれない。
誰も彼を超えないのだから。
ちなみに、岡田が開眼したのは小学生の時、ルソーの『エミール』の前書きを読んだのがきっかけだった。
実は、ルソーは、『エミール』は前書きの部分だけ書く気だったらしい。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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