徳川家康か言ったのだと思うが、
「人が天下を選ぶのではない。天下が人を選ぶのだ」
という言葉をよく憶えている。
ところが、『魔法騎士レイアース』というアニメで、クレフという名の導師(精神的指導者という意味だが、魔法力のあるマスターの意味で使われることもある)が、光、海、風(ふう)という名の14歳の3人の少女にこう言う。
「お前達に魔法を授けようとしたが、魔法の方でお前達を選んだ」
これも、家康の言葉と同じような意味だろう。
よく、引き寄せ関係の書籍、動画に、「こうすれば絶対に引き寄せが出来る」みたいなタイトルで注意を引こうとするものがあるが、中身は大抵、期待を裏切る。
引き寄せも、上と同じなのだ。
「人が引き寄せの力を選ぶのではない。引き寄せの力の方が人を選ぶのだ」
こう考えれば、極めてすっきりし、納得出来ると思う。
何ごとも同じと思える。
人が富を選ぶのではなく、富が人を選ぶのである。
人が大統領の地位を選ぶのではなく、大統領の地位が人を選ぶ。
人が栄光を選ぶのではなく、栄光が人を選ぶのである。
そして、これらは全て、引き寄せの力によって得られるのであるから、引き寄せの力に選ばれる人間でなければならない。
結局、重要なことはこれだけになる。
では、どうすれば、引き寄せの力に選ばれるのだろうか?
「神は取り引きに応じない」と言われるように、「これをしたから引き寄せの力に選ばれる」ということはない。
選ばれる条件は、言葉で言えばいろいろだが、どれも同じ意味である。
「器量が大きい」「無私である」「心が強い」
この中で最も誤解され易いのが「心が強い」だが、上の『魔法騎士レイアース』で言われていたことがこれで、誤解され易いと共に、最も分かり易い。
「心が強い」とは、「エゴをねじ伏せる心の強さがある」ことで、そんな人間のことを「器量が大きい」「無私である」と言うのである。
エゴの声は、たとえばこうである。
「誰も見ていなければ、ちょっとくらい悪いことをしてもいいじゃないか」
「みんなこれくらいのことはしている。俺がやっても責めらるようなことじゃない」
「脅しておけば大丈夫だ」
「捕まらなければやってもいいんだ」
こんな声に従うような者に引き寄せは出来ない。
また、こんな声の誘惑に弱いほど、引き寄せの力が弱いとも言える。
『魔法騎士レイアース』で、最も心が強い少女、光の信条はこうであると思われる。
「約束は必ず守る」
彼女はよく言う。
「約束したんだ。約束は守らなくちゃ駄目だ」
エゴにも良いところがあると言う人もいる。
それはどんなところだろう?
多分、「現実的であることも必要」という意味だ。
たとえば、宮沢賢治の『雨にも負けず』のように、
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
そんなこと、いちいちやっていたら生きていけない。それが現実だ。
・・・とエゴが言ってくれるのである。
光のような若い少女なら、エゴのこんな声すらねじ伏せようとするかもしれない。
だが、「面倒だからしない」「損だからしない」と言うのがエゴである。
心が強い者は、別に、エゴのそんな言葉に従っているのではない。
この場合、心が強い者がエゴをねじ伏せる想いは、「自分の問題は自分で解決しなければならない」である。
すると、エゴは「手助けくらいはすべき」と言うかもしれない。
しかし、エマーソンは「私は、一切の寄付も断りたい」と述べている。
ドナルド・トランプが個人的にも多額の寄付をするのも、「神が余分に与えてくれた分の一部は還元すべき」と考えているからかもしれないし、エマーソンも言うように、「寄付をした方が面倒でない(エマーソンはそうすることを恥じていると言うが)」からかもしれない。
本当のところは分からないが、エゴによる強迫観念に縛られてのことではない。
稲盛和夫の信念は「無私であればやる。無私でなければやらない」で、これは、『ラーマーヤナ』で、ラーマの宿敵である魔王ラーヴァナが、ラーマに教えたことである。
倒した敵から教えを受ける。
ラーマは、この美しい慣習に従ったのである。
そして、この教えは、心が強い者の心構えである。
「人が天下を選ぶのではない。天下が人を選ぶのだ」
という言葉をよく憶えている。
ところが、『魔法騎士レイアース』というアニメで、クレフという名の導師(精神的指導者という意味だが、魔法力のあるマスターの意味で使われることもある)が、光、海、風(ふう)という名の14歳の3人の少女にこう言う。
「お前達に魔法を授けようとしたが、魔法の方でお前達を選んだ」
これも、家康の言葉と同じような意味だろう。
よく、引き寄せ関係の書籍、動画に、「こうすれば絶対に引き寄せが出来る」みたいなタイトルで注意を引こうとするものがあるが、中身は大抵、期待を裏切る。
引き寄せも、上と同じなのだ。
「人が引き寄せの力を選ぶのではない。引き寄せの力の方が人を選ぶのだ」
こう考えれば、極めてすっきりし、納得出来ると思う。
何ごとも同じと思える。
人が富を選ぶのではなく、富が人を選ぶのである。
人が大統領の地位を選ぶのではなく、大統領の地位が人を選ぶ。
人が栄光を選ぶのではなく、栄光が人を選ぶのである。
そして、これらは全て、引き寄せの力によって得られるのであるから、引き寄せの力に選ばれる人間でなければならない。
結局、重要なことはこれだけになる。
では、どうすれば、引き寄せの力に選ばれるのだろうか?
「神は取り引きに応じない」と言われるように、「これをしたから引き寄せの力に選ばれる」ということはない。
選ばれる条件は、言葉で言えばいろいろだが、どれも同じ意味である。
「器量が大きい」「無私である」「心が強い」
この中で最も誤解され易いのが「心が強い」だが、上の『魔法騎士レイアース』で言われていたことがこれで、誤解され易いと共に、最も分かり易い。
「心が強い」とは、「エゴをねじ伏せる心の強さがある」ことで、そんな人間のことを「器量が大きい」「無私である」と言うのである。
エゴの声は、たとえばこうである。
「誰も見ていなければ、ちょっとくらい悪いことをしてもいいじゃないか」
「みんなこれくらいのことはしている。俺がやっても責めらるようなことじゃない」
「脅しておけば大丈夫だ」
「捕まらなければやってもいいんだ」
こんな声に従うような者に引き寄せは出来ない。
また、こんな声の誘惑に弱いほど、引き寄せの力が弱いとも言える。
『魔法騎士レイアース』で、最も心が強い少女、光の信条はこうであると思われる。
「約束は必ず守る」
彼女はよく言う。
「約束したんだ。約束は守らなくちゃ駄目だ」
エゴにも良いところがあると言う人もいる。
それはどんなところだろう?
多分、「現実的であることも必要」という意味だ。
たとえば、宮沢賢治の『雨にも負けず』のように、
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
そんなこと、いちいちやっていたら生きていけない。それが現実だ。
・・・とエゴが言ってくれるのである。
光のような若い少女なら、エゴのこんな声すらねじ伏せようとするかもしれない。
だが、「面倒だからしない」「損だからしない」と言うのがエゴである。
心が強い者は、別に、エゴのそんな言葉に従っているのではない。
この場合、心が強い者がエゴをねじ伏せる想いは、「自分の問題は自分で解決しなければならない」である。
すると、エゴは「手助けくらいはすべき」と言うかもしれない。
しかし、エマーソンは「私は、一切の寄付も断りたい」と述べている。
ドナルド・トランプが個人的にも多額の寄付をするのも、「神が余分に与えてくれた分の一部は還元すべき」と考えているからかもしれないし、エマーソンも言うように、「寄付をした方が面倒でない(エマーソンはそうすることを恥じていると言うが)」からかもしれない。
本当のところは分からないが、エゴによる強迫観念に縛られてのことではない。
稲盛和夫の信念は「無私であればやる。無私でなければやらない」で、これは、『ラーマーヤナ』で、ラーマの宿敵である魔王ラーヴァナが、ラーマに教えたことである。
倒した敵から教えを受ける。
ラーマは、この美しい慣習に従ったのである。
そして、この教えは、心が強い者の心構えである。