ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2022年12月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

年の暮でも、いつでも、心安らかにあるために

江戸末期の神道家、黒住宗忠の弟子の1人が、ある年末に、
「神に全てをゆだねれば、年の暮れも安心である」
といった内容の歌を詠んだ。
すると、宗忠は、
「神に全てをゆだねれば、いつも安心だ」
といった内容の歌を返した。

その通りだ。
神(宇宙意識、宇宙の活力、潜在意識)に全てを完全にまかせ切れば、絶対に安心である。
ただし、本当にまかせ切ることが出来れば。
そして、神に全てをまかせ切るには、強い個性がなければならない。
その原理は、個性がなければ、世間の教義、信条といった、人々の集団意識に飲み込まれるが、集団意識は「自分の力を頼め。神などあてにならない」と言うのだからだ。
集団意識に対抗するには、どうしても、世間に決して従わない強い個性が必要である。

宗忠は、悟りを開いて知った神のことについて、「こんな良いことは、早く皆に教えてやらなければ」と思い、精力的に教えを説き始めた。
しかし、ほとんどの者は救われなかったはずだ。
なぜなら、彼の教えで神のことを信じることが出来るなら、今頃、全ての日本人が幸福になっているに違いないからだ。
神を信じるには、まず、強い個性が必要であることに、宗忠も、他のほとんどの聖者達のように、気付かなかったのだ。
現在でも、良い引き寄せの本は沢山あるのに、ほとんどの者が幸福になれないのは、それらの本には、引き寄せの一応のやり方は書かれているかもしれないが、個性がなければ、そのやり方が力を発揮出来ないことが書かれていない。
書いた者も知らないのだ。
ジェームズ・アレンは、道徳的に善良であれば引き寄せが出来ると考え、ラルフ・ウォルドー・トラインは楽天的であれば良いと考えた。
ヘレン・ケラーも、楽天的であることを重視した。
しかし、それら偉大な人物達の教えは、人々の心を喜ばせたが、力は与えなかった。
神の力を得るためには個性が必要なのだ。
人々の集団意識に打ち勝つ個性が。
それは、現実を見れば純粋にして明晰と思う。

ラマナ・マハルシが言っていたと思う。
人間は、心の海を深く深く潜り、真我という真珠を得なければならないと。
その通りだ。
しかし、心の海を潜るのに、マハルシは「私は誰か?」という想いを重石にしなければならないと言った。
そうではない。
心の海は、世間の教義や信条といった集団意識に満ち、潜ろうとしても押し返される。
「私は誰か?」と問うても、集団意識は、「それは身体だ」「名前だ」「感動する心だ」などと世間的にありきたりなことを言って、潜ろうとする者を拒み、邪魔をするのだ。
我々は、個性という確固とした重みを持たなければ、決して心の奥深くに潜れない。
私は、何か楽しいことに打ち込んで個性を磨き、心の海を深く深く潜ることが出来る重石を得ようと思う。








個性に関する大発見をした

個性的であれと言われたら、大抵の人は困惑するのではないかと思う。
なぜなら、皆、自分が個性的だと思っているからだ。
口では、「私は平凡な人間だ」と言っても、内心では、「俺だって、そこらにはいない特別な人間だ」と思っている。
また、昔のヒット曲の影響ではないと思うが、「自分は元々特別なオンリーワン」だと思っていることも意外と多い。
一番困るのが、「私は特別だ」という「御印」みたいなものを持っている場合だ。
たとえば、一流大学・大学院卒とか、博士号を持っているとか、プログラミングが出来るとか、柔道三段とか。
しかし、そんな人間、世の中にゴマンと居る。少しも特別ではない。
つまり、学校やテレビに洗脳された一般人というのは、個性的であるとはどういうことか知らないのである。

ところで、面白い話がある。
世界的ミュージシャンのジョージ・マイケルは「スーパースターは何か特別なものを持っているのではなく、何かが欠けている者だ」みたいなことを言っていた。
この言葉を引用した宗教人類学者の植島啓司氏は、初音ミクも同じ・・・つまり、初音ミクには何かが欠けているからスーパースターなんだと述べていた(週刊文春2012年3月22日号)。
そして、初音ミクに欠けているものは「成熟」だと言う。
それだと、単なるロリキャラということだが、少女として理想的な容姿(特にプロポーションと思う)を持ち、音程を外さずに完璧に歌い、ダンスは抜群でありながら成熟に欠けているから良いのである。

つまり、個性とは、何かを持っているというよりは、何かが欠けていることが、まず重要だ。
これは大発見だ。
だが、それだけでは駄目だ。

有名な童話作家のアンデルセンは、とても個性的な人間だったが、どこが個性的だったか?
彼も、何かが欠けていたのだ。
彼は、幼い頃から、神話やおとぎ話が大好きだった。
しかし、そんな人は、当時でも沢山いただろう。
だが、彼は何かが欠けていたのだ。
彼に欠けていたのは「男っぽさ」である。
彼は、子供の時から、ある程度の野蛮さや強引さといった、他の男の子達が持っている男っぽさに圧倒的に欠けていた。
だから、普通の男の子は、10歳にもなれば工場で働くが、アンデルセンは、野蛮な男の子達に馴染めず、一緒に工場で働けなかったし、当時は、どこかの親方に弟子入りして職人になるしか庶民が生きる道がなかったが、それにはやっぱり、男っぽさがないと駄目で、アンデルセンは、自分がそれをやることを考えると、心底ぞっとした。
アンデルセンは、17歳くらいになっても、趣味は人形の洋服を縫うことであった・・・と言えば、彼が男っぽさに欠けていることを納得いただけると思う。
ただし、彼が、その欠けているものを個性にするには、知識を得、表現力を磨くことが必要であり、そのために大変な苦労をした。
彼の学生生活は苦痛なことだらけだった。
だが、彼は、ラテン語学校や大学をやめることはなく、また、不思議な援助でそれを続けることが出来た。
個性を磨くことをしたから幸運にも恵まれたのだ。
そして、報われた。
彼は、すぐにヨーロッパ中でヒットした作品から富を得ることはなかったが(当時は著作権法などなかった)、実績に対し、国王から年金が支給され(大した額ではなかったが)、一生働く必要がなく、作品から収入は得られなくても、知名度があったことで、優れた人物達との交流が出来た。

ジョージ・マイケルは「スーパースターは特別な何かを持っているのではなく、むしろ、何かが欠けている」と言ったが、欠けているだけでは駄目で、欠けているものを補う何かを磨き、そこを美点に変えないといけないのだ。
彼は、そこまで言ってくれなかったし、植島啓司氏も、気付かなかったのか、書いていなかった。
言うまでもなく、ジョージ・マイケルは音楽の実力を磨いたし、初音ミクは美点だらけだ。

個性が欲しかったら(ないと引き寄せは出来ない)、自分に欠けているものに気付くことだ。
ジョージ・マイケルのようなスーパースターでなくても、誰にでも欠けているものはある。
そして、それを補う何かを磨くのである。
例えば、どうしても仕事が続かないとしたら、それは大いに欠けていることであるから喜んで良い。
しかし、その欠点を生かすために、何かをしなくてはならない。そうすれば、天も味方してくれるだろう。
岡本太郎も、三島由紀夫も、おそろしく欠けていたはずだ。
彼らが、それを補うために何かをしたことは確実である。でなければ、ただの変人で終わっていた。








個性的になる本の読み方

荘子は、道(タオ。荘子は説明していないが、宇宙意識、宇宙の活力、潜在意識などと同じものだと思う)と一体化した状態を「坐忘(ざぼう)」と呼んでいるが、具体的に、どうすればそうなれるかについては、抽象的に述べているように感じると思う。
しかし、『荘子』の中で一箇所、隠語だらけながら、実は、極めて簡明に語っている場所がある。
それは、内編の「大宗師(だいそうし)」の2話で、かなりの年齢なのに、若者より若い女性が言ったこととして書かれている。
それは、一言で言えば、本を何度も繰り返して読むというだけのことである。
「それだけでまさか」と思うかもしれないが、良い本を気に入り、何度も何度も繰り返し読む者なんて百人に一人もいないのだから、十分に個性的だ。
だが、言っておくが、本を繰り返し読んでも見込みのないタイプがいる。
とはいえ、そんなタイプの人間の真似をしなければ良いだけである。

どんなタイプが見込みがないのか?
それは、「あの」まるでダメ男がまさにそうだった。
彼に、ディール・カーネギーの『人を動かす』を百回読むよう指示したら、幸いやる気になってくれた。
ところが、翌日から、「昨日は30ページ読みました」「一度目、読み終えました」などと、毎日言ってくる。
最初の内は、私もちゃんと聞いてやったが、ずっとそれが続き、「やっぱりこいつは駄目だ」と分かった。
私は、彼に、「百回読んだら教えて。後はいい」と言うと、彼は、しばらくしたら読まなくなったようだ。
だが、「〇〇を百回読みました」と言ってくる者も同じなのだ。
「それが何?」である。
百回読んで、お金が降って来るようになりましたとか言うなら別だが、ただ百回読んだだけで、本当に、「それが何?」である。
それって、単に、承認欲求を満たしたいというだけで、そんなケチな目的のために読むなら時間の無駄である。
それなら、何を百回読もうが、単なる暇人で、個性的でも何でもない。
しかし、黙って淡々と読む者は希少で、非常に個性的であり、そんな者なら、引き寄せもさぞや自在だろう。
無心に淡々と読むなら、5回かそこらでも、突き抜けた力がつくことがある。
そして、ある程度良い本なら、どれでも同じである。
私は、単に面白いから福音書(新約聖書)を読んでいるが、面白いと思わない人にお薦めはしない。
自分が面白いと思うものを読めば良いのである。

尚、荘子の今回の話に関する詳細に関しては、やや難しいが、講談社学術文庫の『荘子内遍』(福永光司著)に詳しい解説がある。
また、個人的に、百回読む値打ちがあると思う本を、『荘子』を含め4冊だけ挙げる。








暗い青春だった人が明るく生きるには

予備校に通う夢を見た。
予備校に在籍している設定で、自分でもそう思い込んでいた。
予備校では、ウェブサイトや、予備校の壁や、チラシに、講座の紹介が書かれていて(例えば、「東大理系数学ハイレベル講座。講師:〇〇先生」みたいに)、現代でも、申し込み書を予備校の窓口で渡すことが多いのだと思うが、ウェブで出来ることも多いと思う。
で、私は(夢の中で)ある大きな予備校に行くと、顔見知りの受験生(実は初めて会うのだが、知っているような気がした)がいて、言葉を交わす。
私は、もう半年、ここに来ていないことに気付いた(捏造の記憶)。
リアル世界でもそうだったが、一応は進学校の高校生だったが、受験に全く興味がなかった・・・いや、受験を嫌悪していた。
私は、顔見知りの受験生(本当は初めて見る)に、「講座は申し込んでいるのか?」と尋ねると、彼は「当たり前だ」と言い、講座の教室に向かう集団の中に飲まれていった。
どうも、私も、半年以上前に申し込んだ講座が継続しているはずだが(これも捏造の記憶)、今行っても、授業が分かるはずもないので、予備校から出たかったが、あちこちで教員が立ってにらみをきかせている。
そして、実際、予備校の外に出ようとしている生徒を捕まえ、「どこに行く気だ?」と問い詰めている。
こりゃ駄目だと思ったが、とにかく、ここに居ても仕方ないので、予備校から出ようとしたら、なぜか簡単に出られた。
しかし、出られたところで、行くところもなく、この寒いのに、外でうろうろ歩くしかない。
実は、私は今でもそうで、時間つぶしが下手・・・というか、全くできない。
「スターバックスにでも行けばいいだろ?」と言われても、スタバがどこにあるか、さらに、どれがスタバかも分からない。
それに、スタバの利用の仕方も分からない。
人に連れられて喫茶店に入ることはあるが、利用の仕方を全く憶えられない。これはリアルでもだ。
私には、喫茶店は非常に敷居の高い場所で、出来れば一生入りたくない(笑)。

夢とはいえ、私の実人生そのものだ。
なんと暗い青春を送って来たのだろう(笑)。
これでは、変な人間になるのは当たり前だ(笑)。
ネットで人気者の成田悠輔氏(経済学者。イエール大助教授)は、学校に全く適応出来なかったが、試験などはゲーム感覚でクリアすればいいだけなので都合が良かった・・・ようなことを言っていたと思うが、そんなことが出来るのは、極端にIQが高いやつである。
私は頭がお馬鹿な上、試験をゲーム化するにも、ゲームが好きでないし、学校の試験はあらゆる意味で嫌悪していたのだから、うまくいくはずがない。

これじゃ、私は、落ちこぼれどころか、社会の最下層に一直線のはずだったが(そうなりかけたが)、まあ、なんとかうまいことやっているのは、19歳の時に、ジョセフ・マーフィーの本に出会ったからで、潜在意識の力を最低限でも、意図的に使えたからである。
それと、やはり、何か特技を持とうと意図していたことが良かった。
例えば、プロレスラーになろうと(笑)、腕立て伏せやスクワットをやったり、次が占いで、いろんな占いを熱心に勉強したものだ。
その次は、霊界や霊能力で、かなり熱心だったが、職業にならなかった。
それで、転職を繰り返していた中で、ある零細だが技術系の会社で、私は事務員だったが(仕事は全然しなかった)、前の席の技術課長に、「君、これからはプログラミングだよ。プログラミングをやりなさい」と言われ、何となく始めたのがきっかけでプログラマーになった。
とはいえ、世間一般で言うプログラマーとは全然違い、普通の仕事を朝から晩までやるなんてことはなく、ほとんど働かなかったが、私には、マーフィー法則(今で言う引き寄せと同じ)があるので、良い想いばかりしていた。
今は、佐川幸義流四股とAIと協力するイラスト制作にハマっているが(笑)。

それで思うが、やはり、特技は必要である。
その特技は、世間で言われる特技である必要はない。
私の占いや、霊能力は、職業にならなかったとはいえ、個性は作ったし、それは生きるために非常に役に立つことだった。
それ以前にも、ナイフ投げ(我流)、空手(我流)、プロレス(我流)、秘法格闘技(我流)など、いろいろやったが、どんなことでも、自主的に、つまり、人に言われてやったことでないことは、どれも有益であった。
現代人は、人に言われてやることばかりだが、自主的にやることが大事で、自主的でありさえすれば、何でも良いのである。
ゲーテは、「最低の事でも、何もしないよりはずっと良い」と言ったが、それは、あくまで自主的にやることであるはずだ。ゲーテは肝心なことを言い忘れたのだ。
イタリア映画『愛のほほえみ』で、8歳の可愛い少女オルガは、「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部したいの」と言ったが、素晴らしい心構えだ。きっといい女になる(笑)。
もちろん、これは、彼女がやりたいことを、周囲から、「やってはいけない」と言われた経験から、そうなったのだと思うが、凡人がやるなということはやるべきことに決まっている。まあ、そのくらいの気構えで良いのだと思う。








人間性や実力は一目で分かる

ある武道の達人は、人間を一目見れば、どんな人間でも、それが武道家であれば実力を、それ以外の者でも、その人品が簡単に分かるという。
それが本当かどうかは分からないが、我々だって、それ(その人間がどんな人物か)が分かると思える時がある。
特に、極めて優れた人間の場合や、逆に、極めて下等な人間の場合、その隠しようのない人間性が分かってしまうのである。
確かに、それが勘違いであるかもしれないし、詐欺師には、立派な人間を装うのが上手い者がいるという話も聞く。
しかし、我々だって、虚心に、偏見のない目で見れば、やはり、その人間がどんな人間かが分かるのではないかと思うのだ。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンも、人間は、本来、人の内面を見抜く能力があり、人間は、自分がどんな人間か書かれた看板を頭上に掲げているようなものだと述べている。

あくまで個人的な感覚で、偏見であるかもしれないが、私は、河野太郎や岸田文雄らは嘘つきにしか見えず、彼らが「ワクチンを打ちましょう」とにっこり笑って言えば、ああ、これは絶対に打ってはならないなとしか思えないのだが、他の人がそうでないのが不思議だ。
・・・いや、あくまで冗談ということにしておく(笑)。

そんな私のような者ではなく、最初に挙げた武道家のような、真に、人の審美眼に優れた人間に認められるようになれば、人間としての本当の力がついたということと思う。
人間としての本当の力とは、神のような力であり、簡単に言えば、引き寄せの力である。
では、どうすれば、本当に優れた人間の雰囲気をまとえるのだろうか?

私が好きな話に、こんなものがある。
江戸時代、ある武士が1人の町人に目を留め、その町人に歩み寄って問うた。
「お前は何者だ?」
その武士が初めて見る、一見ごく普通の町人であったが、この武士がそう問うには、それだけの理由があったのだ。
しかし、その町人は、自分はただの町人であると言う。
だが武士は、
「これでも人を見る目には自信がある。その立ち居振る舞い、尋常にあらず。ただ者のはずがない」
と食い下がる。武士には、それほどの確信があったのだ。
町人は、やはり自分はただの町人であると言うが、ただ、人と違ったところがあるとしたら、毎夕、墓地に行くことだと言う。
彼は、幼い時から、ひどく臆病で、それを少しでも治そうと、毎夕、欠かさず、墓地に行くのだと言う。

最初に述べた武道家とは、実は、合気道家の塩田道三のことだが、彼は、本当の達人だったのだと思う。
そして、同時代の武道家に、佐川幸義という、大東流合気柔術の、やはり、凄い達人がいた。
おかしなたとえだが、少し昔、インドに、ラマナ・マハルシという有名な大聖者がいたが、その同時代に、ニサルガダッタ・マハラジという、こちらは全く無名だったが、やはり大聖者がいた。
マハラジは、マハルシに会ったことはなかったが、お互い相手を見れば、真我を実現した(解脱した、あるいは、悟りを開いた)者であることが分かると言っていたようだ。

佐川幸義は、自分が考案した佐川流四股を、毎日、千回とも二千回とも、あるいは、それ以上、踏んでいて、四股を踏ながら死ぬことが出来ると言ったらしい。
そして、弟子にも四股を踏ませたが、熱心に四股を踏んだ弟子は驚くほど強くなったが、その弟子が気付かないうちに強くなっていたという話もある。
佐川流四股は秘伝で、外部には公開されなかったが、今は、佐川幸義のお弟子さんの中に、そのやり方を真面目な想いで公開している人もいる。
ただ、佐川幸義の弟子同士でも、やり方が異なる場合があり、また、佐川幸義自身も、弟子に、明確にやり方を教えたわけではないらしい。
しかし、各自で工夫してやれば良いのだと思う。
ちなみに、私は、ややユニークなやり方で、佐川流四股をやる人物に尋ねたら、そのやり方の由来を教えて下さり、それはそれで良いものだと思った。
しかし、正当なやり方は、やはり、下に紹介した書籍や雑誌(最後の本は除く)に書かれているものに近いと思われ、実践するなら、それらを参考に、後は自分で工夫してやるべきだろう。
そして、この四股も、本当に熱心にやれば、特に人を見る目のある人物に感銘を与えるほどの人間になれるかもしれない。
それも、優れた個性であろう。
そんなわけで、私も毎日、少なくとも千回は四股を踏んでいるが、よろしければやられればと思う。
足腰が抜群に強くなり、バランス感覚も磨かれて俊敏に動けるようになり、美容にも素晴らしい効果があると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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