ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2022年11月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

一行文で個室待遇

昔、船井幸雄さんの本を読んだ中で、印象深く憶えている言葉がある。
それは、
「現状肯定。過去オール善」
だ。
私は、若い頃から、引き寄せの力をそこそこ持っていたので、役職もない若いシステムエンジニアであった時から、大企業の中で広い個室を持って悠々としていた。
可愛い女の子も2人付けてもらって。
1人は、友人の社長のところでバイトをしていた可愛い女子大生を入社させてもらったのだった。
別部署の人が来ると、そんな役員並の扱いに驚かれたものだ。
だが、そんなことは誰でも簡単に出来ることだ。
私は、この個室のホワイトボードに、「現状肯定。過去オール善」と書いて、毎日眺めていた。

現状肯定とは、最も端的に言えば、現状に満足することだ。
船井さんは、不満をバネに頑張るというのは上手な生き方ではないと本に書いていたと思う。
つまり、どんな状況だろうが、現状に満足している者の方が、何ごともうまくいくということだ。
ところが、大抵の人間は、現状に不満だらけなのだ。それだと、人生はもっと悪くなりかねない。
はた目には、かなり良い状態なのに、不満たらたらの人も多い。
そんな人は、遠からず惨めな状態に陥る危険が高い。

だが、現状肯定と言うと、「否定ではないけれど・・・」という消極的な満足になり勝ちだろう。
だから、今は、「現状は完璧」と言うのである。

次に、「過去オール善」であるが、これは、「過去を後悔しない、嘆かない」と言うことである。
どんなに悪い過去であったとしても、それを良かったと心から思うのである。
たとえ、ゲーム三昧で遊び惚けた過去であっても、犯罪を犯した過去であっても、それでも、良かったと思うのは難しいが、それを後悔したり嘆いたりしても、何も良いことはなく、運命がさらに低下するだけである。
しかし、人様に迷惑をかけた過去を後悔しないというのも、なかなか納得出来ないかもしれない。
そこで、これも、今は、「過去は幻」と言うのである。
実際は、過去は存在しない。それをあると思うのは、ただ、幻を見ているだけなのだ。
続けて言えば、
「現状は完璧。過去は幻」
である。
これだけ知っていたら、ある程度のことなら、何でも自由になる。
まあ、私のように。ショボいかもしれないが(笑)。

船井幸雄さんには会ったことも無かったが、政木和三さんからよく聞いていた。
政木さんは、「船井君は我の塊。我がなくなれば、もっと大きくなれるんだが」と言われていた。
ただ、政木さんも、昔は自分も同じであったと言われていた。
「現状は完璧。過去は幻」は、我がなくならないと、完全に受け入れられない。
しかし、これを毎日思うと、我が弱くなり、引き寄せの力が強くなる。
アファーメーションにしても効果が高い。
私は、これの前バージョンの「現状肯定。過去オール善」で、そこそこやっていた。
どちらでも、お気に入りの方を憶えておくことをお奨めする。








書けば願いは必ず叶う

願いごとは紙に書いたら叶うということを聞いたことがあるかもしれない。
引き寄せがうまい人になると、
「願いごとを書いた紙を後から見たら、全部叶っていた。書いたことを忘れていることまで叶っている」
などと、羨ましいことを言うものだ。
いや、羨ましがる必要は全くない。
あなただって、もし、紙に願い事を書けば、1つの例外もなく、必ず全部「実際に」叶っているのだからだ。
こう言うと、大抵は、
「そんなことはない。ほとんど叶っていない」
「1つも叶っていない」
とか言うかもしれない。
それは、書いたと同時に叶っているのに、それと同時に、叶っていない状態に戻るだけなのだ。
叶ったことは全く憶えていないか、白昼夢のようにぼんやりと憶えている程度である。
引き寄せがうまいと言われる人は、単に、願いが叶っても、叶っていない状態に戻らないだけのことである。
そんな人は、叶っていない状態に戻らないどころか、さらに発展した願いが叶うのである。

たとえば、「私はお金持ちだ」と書いたら、普通の人なら、瞬時に1憶円から3憶円の範囲の預金を持つことが多い。
そうではなく、「私は10憶円の預金がある」と書けば、瞬時に10憶円の預金を持つ。
だが、瞬時に元の(たとえば)預金20万円になるのだ。
なぜ、すぐに元に戻るのかというと、エゴが、「私がそんな金を持てるはずがない」と主張し、それに同意してしまうからだ。

珍しい・・・と言っても時々あるが、「私は3憶円持っていると思い込んでいるだけのおかしな人物」になることが実現してしまい、そこから動かない人もいる。そんな人は、エゴとの折り合いが変なところでついてしまったのだ。
精神病患者というのは、そんなふうに、エゴがおかしなところで満足してしまった人間だと思われる。

願いを書くことはお奨め出来る。
願いが明確になるからだ。
必ずしも願いを明確にする必要はないが、曖昧な願いより、明確になった願いの方が、叶い易いのではなく、叶う前に戻り難いのである。叶うというだけなら、必ず叶うのだから。
いずれにしろ、書くと同時に叶うのだから、どんどん書くと良い。
叶う前の状態に戻り難くなるうまい方法は、引き寄せの古典『イット・ワークス』に書かれている通り、どんどん願いを変えて書いていくことだ。
願いが変わるたびに全部必ず叶っているが、願いを変化させていくと、不意に、元に戻らない願いを書いてしまうのだ。
これは、願いを変えていくと、自分に相応しい願いや、自分の本当の願いに近付いていくからだ。
また、叶わない状態に戻りながらも、いったん叶うことで、気付かないうちに自分も変化していくからだ。

願いを書くのをおっくうに思う人もいるが、実はおっくうと言うより、「叶わないのではないか」「どうせ叶わないだろう」と思って憂うつになるからという理由の方が多い。
しかし、実際は、書けば瞬時に叶い、大喜びしている。そう思うと、書くのは楽しいではないか?
そして、楽しんで、ゲームのように書き続けると、どんどん、叶わない状態に戻らない願いが増え、やがては、最新版の願いごとリストの全部が叶ったままになる。
必要なことは、こういった気楽さ、楽しさ、面白さである。
『イット・ワークス』を参考に書いてみることをお奨めする。








軽やかさの秘訣は万事に通ず

近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)という江戸時代の歌舞伎・浄瑠璃の作家を知らない人も多いかもしれないが、『曾根崎心中』という浄瑠璃のタイトルを何となく知っている人は少なくないと思う。
浄瑠璃は、三味線で伴奏する人形芝居である。
近松の作品は、ポルノと言ったら言い過ぎかもしれないが、女の情念を描いたようなものが多いと思う・・・と言っても、私も詳しいわけではないが。

その近松の「近松三姦通物の一」とも言われる浄瑠璃『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』という作品が、1986年に、郷ひろみさんと岩下志麻さんの共演で映画化されている(映画のタイトルは『鑓の権三』)。
私は昔、その映画の最後の方をDVDか何かで見て、気になったことがあり、書籍で読んだことがあるが、記憶が断片的にしかない。
ところが、そのお話の中に、ちょっと面白い相関図があったことを憶えている。

権三(槍の達人):25歳
権三の許嫁:13歳
権左の許嫁の母:37歳
権三の許嫁の父:49歳

13歳、25歳、37歳、49歳と、全て酉年の12歳違いである。
このうち、13歳の権三の許嫁は、ほとんど登場せず、ただ、彼女にとって12歳年長の権三はおじさんに見えるといったことが書籍に書かれていた。
権三は、許嫁の母と駆け落ちとなるが、武道の達人ではあっても経済力はなく、生活に困窮する中、大刀を売り、鞘の中に竹光(たけみつ。竹の刀)を持っていたが、そこに、駆け落ち相手の夫が追ってきて、果し合いとなる。
映画の方では、権三は尋常に果し合いに応じるが、竹光しか持っていないので、やむなく、脇差を抜いて構える。
だが、本の方では、権三に戦意はなく、さりとて、逃げる気もなく、「形ばかりお相手いたしましょう」と言う。私は、この態度が好きだ。

で、映画で私が気に入ったのは、郷ひろみさん演じる権三が死に際に「せめて竹槍でもあれば、槍の権左の異名を取った槍裁き、見せてやれたものを」と悔しそうに言うところだ。
しかし、本の方では、権三は、
「竹槍でもあれば、槍裁きを見せてあげられましたが、せめて、足さばきを何かの参考にして下さい」
みたいなことを言っていたと思う。

映画の方の「せめて竹槍でもあれば、槍の権左の異名を取った槍裁き、見せてやれたものを」と言うのが、私の心を打った。
素晴らしい能力を持ちながら、理不尽な理由でそれを発揮出来ない悔しさを味あわねばならない人間は多い。
そんな者達の怨念を、この権三の姿に感じ、私は異様な感動を憶えたのだ。
だが、私は最近、本の方の、「足さばきを見て下さい」について考えることが多い。
私は少し前から、毎日、何時間も佐川幸義流四股を踏んでいるが、それにより、「やはり達人の秘密は足さばきにある」と確信するようになった。
それには、上記の他に、2つのことを思い出したことも関係する。
2つとも、個人的には、すごく怪しいと思う人達の話だが、彼らも、このことに関しては本当のことを言っているように思うのだ。
1人は、空手家の大山倍達氏である。
大山氏は著書(書くのはゴーストライターらしいが)で、空手とダンスは似ていて、自分もダンスが得意だと書いていた。
そして、似ている動きの多くは、やはり、足さばきだと思う。
もう1人は、物理学者で合気道家の保江邦夫氏(佐川幸義の直弟子でもある)だ。
保江氏は、著書で、ダンサーが戦えば格闘家より強く、武術でも、踊りながら戦うと強いといったことを書いていた。
この「踊る」も、やはり、重要なことは足さばきに違いない。
いずれも、どの本だったかは憶えていない。
だが、佐川幸義の四股は、こういった重要な足さばきを磨き上げるものに違いないと思う。
別に、武術やダンスだけでなく、足さばきを磨けば、あらゆる能力が向上するとも思えるのである。
引き寄せも、当然、その中に含まれる。
私も、身体の動きが軽く、キレキレになってきた。

佐川幸義流四股と述べたが、おそらく、決まったやり方はないと私は思う。
佐川幸義が四股を踏むところを見た者はいないらしいし、佐川が細かく四股のやり方を教えることもなかったようだ。
佐川のお弟子さん(あるいは孫弟子)が、雑誌や本、あるいは、YouTube動画で、この四股のやり方を説明しているのを、私は出来る範囲で全て見たが、全部異なっていた。
私のやり方は、喜多原歓喜地(きたはらかんきち)氏のものに近いが、実際は、かなり異なる。
3年程研究する中で、たどり着いた今の形が心地良く、本当に暇さえあれば、好きでやっている。
やり方は以下の通りだ。右足を上げることから始める場合である。

(1)足を肩幅に開いて立つ。ただ、好みに応じ、若干広く、あるいは、狭くても構わない。足は外股でも内股でもなく平行にする。
(2)右足を踵から上げる。よって、つま先が残るような感じである。つま先が床からほとんど、あるいは、全く離れないやり方でも良い。私の場合は、つま先は床から1~3センチ離れると思う。
身体は意図的には傾けないが、自然に傾く分には構わない。足と言うより、膝を上げる感じである。
(3)右足をつま先から床にそっと下ろす。それから踵をそっと下ろす。足を下ろした時に意図的に腰を沈めることはしない。
(4)左足で同じことを行う。
(5)(2)に戻る。

(1)では、最初は、膝を伸ばして立つ。
そのままでも良いが、身体が温まってきたら、膝と足首を少し曲げて行っても良い。曲げるほど負荷も大きくなるが、無理に深く曲げてはならない。
また、膝や足首を曲げて行うと、身体を左右に傾けたくなるかもしれないが、なるべく真っすぐなままでやる。

ここからは、好みに合わないならスルーでも良いが、バーチャルシンガーのIAさんの『SEE THE LIGHTS』という動画(MMDというソフトウェアで作ったアニメ)での、IAさんの足さばきがとても良いと思う。
おそらく、人間のダンサーの動きをキャプチャーして作ったのだろうが、つま先を残して踵を上げる動きがとても良くて佐川流四股に似ており、また、一瞬だが、私の解釈の佐川流四股と全く同じになる場面がある(1分3秒あたりだろうか)。
◆YouTube◆ 【IA OFFICIAL】SEE THE LIGHTS feat. IA / ASY (MUSIC VIDEO)
私は昔から、ダンスを含め、人間の軽やかな動きの秘訣はつま先の扱いにあるとずっと思っていたが、最近、総合的にそれが正しいと分かった。








引き寄せるために使った苦しい方便

引き寄せの方法は、根本を言えばたった1つで、新約聖書の福音書でイエスがそれを民衆に教える様子が書かれている。
その方法とは、「願いはすでに叶えられたと思え」である。

政木和三さんはよく、こんなことを言われていた。
「神は人の願いを聞かない。だが、どうしても叶えて欲しいなら、過去完了形で願え」
そして、具体的な例として、好んで話したのが次の話だ。
ある夫婦の赤ん坊が死にそうになっていて、ほぼ絶望的であった。
その夫婦は、政木さんに電話をして、赤ん坊を助けて欲しいと言った。
政木さんはこう答えた。
「赤ん坊は助かりません。諦めなさい。その上で、こう祈れ。『赤ん坊の命が助かりました。ありがとうございます』」
夫婦が言われた通りにしたところ、赤ん坊は助かった。
諦めながら「助かってありがとうございます」とは変な話だと思うはずだ。
本当は、願いが叶ったと思えば叶うのだから、赤ん坊が助かったと思うだけで良い。
だが、それだけ言うと、夫婦は、赤ん坊が助かることに執着してしまう。
執着は、願いが叶うことを妨げるのだ。
そこで、夫婦には、「赤ん坊は助からない」と言って諦めさせたのである。
ある意味、政木さんはテクニックというか方便を使ったのだが、政木さんも苦しかっただろう。
そして、願いが叶ったことを信じるためには、「ありがとうございます」と先に感謝するのが良い方法である。

願いが叶ったと信じることはとても難しい。
なぜ難しいのかと言うと、「叶った」と思っても、エゴが「そんなの叶うわけないだろ」と疑いの声や思いを発し、信じる心をぐらつかせるからだ。
「銀行預金が1憶円になった」と信じようとしても、エゴは、「どうやって1憶円得るのだ。無理に決まってるだろ」と言うだろう。
そこで、「どうやってなど知らん。だが1憶あるのだ」と本当に思うならそうなる。
しかし、それはやはり難しい。

ビル・ゲイツが大学生時代に愛読したという『ザ・マスター・キー』の16週のレッスンにこう書かれている。

わたしたちが万物の根源物質である宇宙精神と一体であると認識することでもたらされます。
(中略)
そのような心の姿勢を生み出すことに成功したら、願望がすでに実現された事実であると認識するのは容易です。

『ザ・マスター・キー』には、何度も「宇宙精神」という言葉が出て来る。
この本は、宇宙精神とは何で、それと自分が一体であるということを理解するために読めば良いのだが、そんなアドバイスなしに、この長い本を読んでも、なかなか成果は出ないのではないかと思う。
引き寄せの本はどれも長く、余分なことが書かれ過ぎているので、引き寄せが出来るようにならないという弊害はあると思う。
そして、『ザ・マスター・キー』の宇宙精神の説明は決してうまくない。そもそも、ちゃんと書かれていないと思う。
良い本ではあるが、多分、原本は隠されてしまっていて、見つからないのではないかと思う。

まとめて言おう。
引き寄せはこうやれば出来る。
「願いはすでに叶ったと思う。そして、欲望を捨てれば叶う」
これだけである。
だが、「願いが叶ったと思うこと」そして「欲望を捨てること」が、とてつもなく難しい。
エゴが、この2つに徹底的に抵抗するからだ。
銀行預金が1憶円になったと思おうとしたら、エゴはこう反発する。
「そんなの無理だろう」「実際は預金は10万円しかないじゃないか」
そして、欲望を捨てたくても、エゴは、「欲しい欲しい」と言うだろう。

さあ、どう解決するか?
やり方は分かっている。
まず、誰も、こんな認識が抜けている。
1憶円を願った瞬間に、すでに、1憶円は「本当に」ある。
つまり、願いは、願った瞬間に、既に「本当に」叶っているのである。
こう言われたら、100人中100人が「そんなわけないだろ」と言う。
それなのに、願いが叶ったと信じられるわけがないじゃないか?
この大矛盾に気付くべきなのだ。
「願った瞬間に叶う」は、方便・・・つまり、引き寄せのテクニックでも何でもない。
ただの事実なのだ。
だが、やはり、「願ったが、俺の預金は10万円だ」と言う。
いや、そう思うから10万円に戻っただけなのだ。
ところで、やっぱり1憶円欲しいかね?
「そりゃ欲しい」と言うなら、それが間違いだと気付かないだろうか?
だって、1憶円持っている人が1憶円欲しがるかね?
欲望なんて、あえて捨てなくても、1憶円得てしまえば、欲望を持ちたくても持てない。
「いや10憶だ」と言うなら10憶願えば良い。それだけのことだ。1憶も10憶も100億も変わらない。
だが、10億だと、慣れない人はエゴの抵抗が半端ないので、まずは、それなりの額にした方が無難というだけのことだ。

引き寄せが下手な人は、「1憶円得る。そしてそれが消える」を何度も繰り返しているのである。
そこで、1憶円があることを前提に考えないといけない。
ベンツを買おうとか、マンションを買おうと思わないといけない。
そんなことを気楽に考えていたら、エゴの抵抗が少なくなり、いずれ、抵抗してこなくなる。
そうしたら、願いが叶った状態のまま世界は続くのである。
別に、「銀行預金が1憶円になって安心だ」でも良いのだが、それだと、せっかく1憶円を得た瞬間、「銀行預金が1憶円になった空想をする」に現実が変わってしまうのである。その証拠に、少しも安心感が起こらない。








この世の一切は幻か?

心理学者の岸田秀氏の本は人気がある。
いや、ひょっとしたら今はそうではないかもしれないが、昔は人気があった(笑)。
なぜ人気があるのかというと、痛快であると共に「腑に落ちる」からだと思う。
かと言って、別に理論的に正しいことを書いているというのではない。
そもそも、岸田氏は、心理学は科学でも何でもない、いい加減なものと言う。
だから、「心理学的には・・・」なんて話をする心理学者は皆、嘘つきだと言う。
また、岸田氏は、面白い本を書こうとしたわけでもないと思う。
書きたいことを書いただけだと思うが、ただ、正直に書いたのだと思う。
そして、正直なことを言う学者は少ないのだ。
結果、世の中の嘘だらけの心理学の話の中で、岸田氏の話だけが腑に落ち、そのためだと思うが、著名人の中でも頭の良い人達が、岸田氏の本を愛読していることを表明している。
そして、岸田氏の本は実際に面白い。
分かり易く、なおかつ、腑に落ちるのだから、しかも、それが心の話となれば、面白くないはずがない。
別に、岸田氏の話が正しいと言うつもりはないが、心の問題について、岸田氏のような頭の良い知識のある人が正直な解釈をし、それを分かり易く説明しているのだから、かなり役に立つ可能性がある。
私には役に立った。
正直、妙に思う話もないではないが、悪意のある嘘はついていないので、納得出来なくても、そんなに嫌な気はしないのである。

岸田氏の有名な理論は「唯幻論」で、意味はそのまま「ただ、幻想だけがある」つまり「全ては幻想」だ。
ただ、インドの聖者が言うような意味で「一切は幻」と言っているのかどうかは分からないが、表向きではやはり同じ意味だ。
私は昔、SNSで岸田氏に、「一切は幻だと言うインドの聖者は、死後数十年経っても、彼の道場には毎年数万の人が訪れる」と言ったら、岸田氏は「私のところには、今年は1人しか来ていない」と返事をしてくれた。
また、岸田氏に、「百年騙せば、嘘も真実になる」と言ったら、岸田氏は「僕は唯幻論が百年バレない嘘であることを願う」と返事をしてくれた。
こんな人が、嘘つきのはずがない。
岸田氏は、フランスのストラスブール大学に留学した時(引きこもりのニートで暇だったから留学したらしい)、博士号を取ったと思い込み、心理学博士を名乗っていたが、ストラスブール大学の博士の会合に言ったら、「あなたは博士に登録されていない」と言われ、博士号取得が勘違いであると分かったらしい。
母校の早稲田大学で博士号取得の機会があったが、一部の教授連の強硬な反対に遭い、取得が出来なかったという。
しかし、博士号があるかないかに関係なく、岸田氏の本は最も値打ちのあるものだと思う。
岸田氏の本はデタラメという人もいて、その言い分を否定はしないが、岸田氏の話は面白くて役に立つのだから、デタラメかどうかは全くどうでも良い。

ところで、岸田氏の、こんな面白い話がある。
岸田氏の唯幻論の本がベストセラーになった後、岸田氏が務める大学(岸田氏は和光大学教授だった)に、1人の男が訪ねて来て、「全て幻想だから痛くないだろう」と言って、岸田氏を殴ったという。
これについて、岸田氏が何とコメントしていたか、あるいは、コメントしなかったのかも忘れたが、そもそも、「痛い」ってのが幻想じゃないのか?(笑)
私も、全てが幻想というのは、岸田氏と同じ意味ではないかもしれないが、全く賛成である。
ただ、今はスマートに「この世界はメタバース(あるいは仮想現実とかシミュレーション)」と言った方が便利だ。

で、岸田氏は、全くこんなことは言っていないが、願望は、浮かんだ瞬間に叶っている。
しかし、叶っていない世界が見えている人が多いことだろう。
その叶っていない世界が幻で、叶っている世界が真実だ。まあ、厳密には、叶っている世界も幻ではあるのだが、願望を真実の基準とすれば、やはり、叶っている世界が真実だ。
幻を幻と見ることが出来れば、真実の世界になる。つまり、願望が叶っている世界だけが真実だと分かれば、世界は意のままである。
それが引き寄せの根本原理なのである。

岸田氏の本は大変にお奨めである。
岸田氏の本は、Amazonで、古書でも凄く高い本が、もっと古い版や文庫版なら凄く安いことがあるので、安いのを選んで読めば良い。2度読むことはほとんどないので(笑 再読する価値ある本もあるが)。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード