ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2022年02月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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戦争はなぜ起こるのか

紛争と呼ばれているものも、明確な国と国との戦いではないだけで、銃、機関銃、ロケット砲、ミサイルといった武力兵器による攻撃があるのだから、戦争と言える。
だが、ロシアとウクライナという大きな国同士(ウクライナは国土面積はヨーロッパ最大で人口も4300万人以上)の開戦には、さすがに驚く。

戦争の原因は、イデオロギー(思想、信念)の違いと言われることもあるが、そうではなく、イデオロギーの優劣を争うことから起こる。
利益の奪い合いや、小さな恨みに対する復讐が大きな戦争を引き起こすように見えることもあるが、イデオロギー・・・早い話が、価値観の優劣を争わない限り、戦争にはならない。
略奪やジェノサイドは、戦争ではなく、根本的な道徳や倫理に欠ける侵略や圧制である。

個人対個人でも「戦争しよう」という言い方はおかしくはない。国同士の戦争も本質で変わらない。
表向きには、利益の争いがあるかもしれないが、本当は、価値観の優劣を争っているのである。
個人間に利益の争いがあっても、価値観が似ているなら(双方がある程度、精神的に大人であることは必要だが)、話し合いで解決する場合も多いし、仲良くならないまでも、落としどころを見いだし、無駄な争いを避ける。

国同士の戦争も、レベルの低いイデオロギーの優劣の争いかもしれないが、それを言うと、言った者が戦争を仕掛けられる。
それほど、人間にとって、イデオロギーの優越性・・・自分が信じるものに価値があると認められることは重要なのだ。
そして、それが人間の最大の欠点だ。
アイドルAとアイドルBがいて、それぞれにファンがいて、Aのファンは「AはBより可愛い」と言い、Bのファンは「いや、明らかにBの方が可愛い」と言う。
それを、お互い、仲良くならないまでも、相手の価値観として認めれば良い・・・というか認めるしかないのだが、それぞれのファンが、自分の「可愛い」の価値観を絶対視すれば、つまり、優劣を争うと戦争になる。
国同士の戦争も、本質は変わらない。
もちろん、表向きとか、「内実」と呼ばれる戦争の原因は利益の争いだが、価値観の優劣を争わない限り戦争にならない。

例えばの話だが、ヴィーガン(動物性食品を一切食べない完全菜食主義者)が、「ヴィーガンは肉食者より優れている」と主張すれば戦争になる。
そこで、ヴィーガンは「いや、動物が可哀そうだからだ」と言うが、それも、「動物を可哀そうと思うヴィーガンの精神性が、肉食者より優れている」という、価値観の優劣の主張なのだから、実際は、戦争を仕掛けていると考えざるをえないと思う。
ただ、道徳的、倫理的にヴィーガン以外には誤りがあると納得させることが出来れば、ヴィーガンの主張が通る。しかし、それはあり得ない。
ジェノサイドや人身売買は、何が何でも止めないといけないと道徳的に認められるが、肉食に関しては、それはあり得ない。
だから、ヴィーガンの取るべき道は、ヴィーガンが立派であることを行動で示すことだけなのだ。

『荘子』にこんな話がある。
ある国の王様が、自分は国を立派に治めているので、自分は優れているという自信を持ち、自分と神仙(上位の仙人で神に近い)の優劣を競おうと、神仙のいる山に行った。
だが、神仙に会うと、神仙と自分のあまりの差に呆然とし、何も考えられないほどになった。
これは、人間の価値観など、ちっぽけなものであることを示している。
荘子は、価値観の優劣を競う者は愚かで、それよりも賢い者は、区別はしても、そこに優劣を決めないと言い、そして、最も賢い者は、区別もしないと言う。
神仙は、区別もしない者で、その王様のように、価値観の優劣を決める者が足元にも及ぶ相手ではない。
神仙の方では、別に、王様を見下してはいない。むしろ、対等と思っている。
王様は、自分の価値観で、自分を神仙と比べればゴミのようなものと認識したのである。区別をしない神仙の力に当てられてね。
荘子は、一頭の馬も万物で、一本の指も天下であると言う。
これが理解出来れば神仙と変わらない・・・こう言うと、文句を言う者もいるが、それはそれで良いのである。
だが、淡々と腕振り運動をしていれば、考えずとも分かるようになるだろう。








星を掴む

能力はさして変わらないのに、うまくいく者とそうでない者がいる。
うまくいく者には、幸運の星みたいなものがあるのかというと、そうかもしれない。
『星のない男(Man Without a Star)』という1955年の西部劇映画があり、かなりの傑作と思うが、DVD、blu-ray化されたのは(日本では)割と最近だ。
(監督は、「西部劇の神様」と言われたキング・ヴィダー)
その映画の中で、カーク・ダグラス演じる、流れ者の凄腕ガンマン、デンプシー・レイが言う。
「誰でも1つずつ星を持っている。だが、俺の星はない」
ツイてない男の泣き言のようにも聞こえるが、デンプシーは極めて強い男だ。
しかし、そう言わざるを得ないのだろう。

星とは、ゲームでいうところのラッキーアイテムのようなものかもしれないが、なるほど、まるで、そんなものを持って生まれてきたような者がいる。
逆に、そんなものに全く縁がないとしか思えない、どう見ても見込みのないヤツがいる・・・本当にいる。

だが、星なんてものは、トランプのハートのエースに過ぎないのだ。
めくり続ければ、必ず出てくる。
だから、ハートのエースが出てくるまでめくれば良いだけのことだ。
ただ、人生というゲームのトランプは、ジョーカーを入れて53枚なんてものではなく、もっともっと多い。
もちろん、それでも、1枚目で当たる場合もあるが、いつまでも当たらず、永遠に当たらないと思うこともある。
当たる時には当たる・・・としか言いようがない。
だが、当たると信じて、めくり続けるしかない。

滅多にやれることではないが、サイコロを数千回も振ると、不思議なことに、「次は3だ」って、妙な確信がある時があり、本当に3が出る。
ギャンブルを長くやっている人には、例えば、ルーレットの目をなぜか確信を持って予測出来、実際、その通りの目が出たという経験を持つ者が結構いる。
その時の感覚を覚えていれば、トランプのカードが全部、ハートのエースになる。
腕振り運動を、合計して何万回とか何十万回とかやると、ゾクッとする1回が来る。
それが来たら、もう何をやってもうまくいく。
腕振り運動で難病が治ってしまった人って、その1回を捕まえた者なのだ。
念仏でもそうで、毎日決まった時間、何か月も唱えていたら、不意に、世界が自分の内側にあるという感覚を掴んでしまった人がいて、それ以来、全く不安がなくなってしまったらしい。つまり、何でも思い通りになるのだろう。

デンプシー・レイは、若い時に、繰り返しが出来なくなるほど、辛い目に遭ってしまい、現実から目を背けて流れ者になった。
だが、何があろうと、トランプをめくることを諦めてはならないのだ。
腕振り運動をしていると、それが分かってくるし、不意に輝く星を掴む時が来る。それがいつになるかは分からないが、せいぜいが数十万回程度だ。
あなたは、めくり足りなかっただけなのだ。








夢と現実

『夢で逢えたら』という、これほど多くの歌手にカバーされた曲もないのではと思える(少なくとも86曲)、大瀧詠一さんの楽曲がある。
歌の内容は、女性の立場からのもので、好きな男性と、現実で逢うことと、夢で逢うことの幸福性が同等であると感じさせられるものだと思う。
普通は、好きな人と逢うことも含め、「現実であってこそ楽しい」と考えるものだろうが、この歌では、夢での遭逢(そうほう)の喜びを切々と歌う。
もしかしたら、歌の女性は、その男性に片思いしているだけかもしれないし、ひょっとしたら、男性はもう死んでいるのではないかとも考えられる。
そんな解釈の幅が広いことも、長く、多く、愛唱される理由かもしれない。

インドの聖者ラマナ・マハルシは、夢と現実は全く等価であると言い、宇宙人バシャールは、むしろ、夢の方が本物だと言う。
歴史的な推理作家、江戸川乱歩は、夢こそが真実と言い、色紙にサインする際に、
「うつし(現)世はゆめ よるの夢こそまこと」あるいは「昼〔ひる〕は夢 夜〔よ〕ぞ現〔うつつ〕」(Wikipediaからの引用)
と書き添えたという。

中国の古典『列子』に、こんな話がある。
王様は、毎夜、夢の中で奴隷になるので苦しんでいたが、ある奴隷は、夢の中でいつも王様になるので幸福だと言う。
この2人の、どちらが本当に幸福なのか分からない。
だが、王様が、これまでのように奴隷を厳しく扱うのをやめると、王様は苦しさが減ったという。

『荘子』の中の『胡蝶の夢』はとても有名で、「蝶」と「夢」という、本来、関係のない言葉が自然に結びつくほどだ。
著者の荘子は、ある夜、蝶になって楽しく飛び回る夢を見た。
すると、荘子は、「人間である荘子が、夢の中で蝶になったのか、蝶が今、荘子という人間になった夢を見ているのかは分からない」と述べる。
楽曲『ブレス・ユア・ブレス』(和田たけあき feat.初音ミク)もだが、多くのアート作品に、このお話の引用(あるいは発展させたもの)が見られる。

夢は、心の中の世界と言える。
では、夢の価値は、心の価値とも言えるかもしれない。
アニメ『キャシャーン Sins』(2008)の第7話『高い塔の女』が、そのことを感動的に描いている。
ロボットの女が、高い塔の上に、鐘を作ろうとしていた。
美しい音で鳴り響く鐘を作りたいのだが、材料も道具も全く不十分だった。
そこにキャシャーン(主人公であるロボット。若い男性)がやって来た時、女は、キャシャーンを鐘の材料にしようとする。
キャシャーンは、鐘になっても良いと思ったが、今はまだ、やるべきことがあると女に言い、そこを去る。
最後に、女は、鐘を作る必要がなくなったと言う。
なぜなら、心の中の鐘が美しく鳴り響いているからだ。
それが、私には、戯言に聞こえなかった。

夢とは、そして、心とは神秘的なものである。
そして、夢同様、現実を作り出しているのも心なのである。








一番大切なのは自信

人間にとって一番重要なものは自信だ。
自信のない者に見込みはない。
だが、自信はあるが実力が伴わない迷惑なやつがいると言いたい者もいるかもしれない。
しかし、そんなやつ(実力はないが自信だけあるように見える者)は、本当の自信を持っていない。
なぜなら、自信があれば実力は勝手に付いて来るからだ。
そのカラクリはこうだ。
本当の自信があれば、積極的に出て行き、そこで、自分の実力のなさを思い知るが、それはあくまで、現時点で実力がないだけであり、それで自信を失ったりしない。単に、これから実力をつければ良いだけであり、自信があって積極的な者は、すぐに実力を得る。

では、どんな者が自信を持っているかというと、一番望ましいのは、自信があるように育てられた者だ。そんな者は幸運であり、人生を楽に楽しく生きていける。
だが、推測出来ると思うが、そのような者は、今の世の中では少ない。
人工的で権威的な社会では、大人になるにつれて、自信を失うような仕組みになっているからだ。
見える実績や、見える力をどんなに身に付けたって、本当の自信はさっぱり得られない。
見えない力、透明な力を持つ者だけが、本当の自信を持てる。

自信より勇気が大切だと言う者もいるが、それは、そう言う者に勇気があるからで、その勇気は自信に支えられていることに気付いていないだけだ。
自信のない者に勇気があったりはしない。
エマーソンが「根拠のない自信を持て」「無制限に自分を信じろ」と言ったのは全く正しい。
しかし、普通の人には、それは出来ない。

では、自信は、どうすれば得られるか?
腕振り運動をすることによって。
ただし、半端ない数をやらないといけない。
もちろん、腕振り運動が唯一の方法ではなく、何でもいいから、延々繰り返す行を、無駄な努力と了解し、何も求めず、愚直に行えば良いだけだ。
どのくらいやれば良いかというと、自信がつくまでだ。
あらゆる行の中でも、腕振り運動が、結局、一番楽で、一番間違いがないと思う。
一方、坐禅、静坐、読経、祝詞、念仏・・・などで、心身の邪気を祓い、自我を浄化させることは、かなり難しい。
そこにいくと、例えばだが、『気功革命』にある「甩手1」で、邪気を祓えば、身体も心も、自ずときれいになる。
自信がある者が、「雨よ上がれ」と言えば、雨は上がる。
自信がある者には、望まなくても幸運が訪れる。








強制されずにやることの貴さ

私は、腕振り運動を熱心にやっているが、もし、会社なり、学校なり、あるいは、政府に、「やれ」と強制されたら、絶対にやらないのである。
普通は、念仏でも坐禅でも祝詞でも、誰か、あるいは、何かに、強制的にやらされることはないが、腕振り運動はもっとそう(強制されない)だろう。
そこが良いのである。
つまり、自主的にしかやれないところが良いのだ。
自主的には、ほとんど何もやったことがない者が多い。
自主的にやらなければやらないほど、何もしたくなくなって引きこもりになるのだ。

古いイタリア映画『愛のほほえみ』で、10歳くらいの可愛い少女オルガが、タバコを手に、「火をお持ちでないかしら?」と言う場面がある。
そしてオルガは、「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部やりたいの」と言う。
これほど痛快な場面はない。
ああ・・・この話に下らない突っ込みを入れる者は馬鹿だ。
丁度、人種差別について考えている白人の少年が白人の父親に、「父さんが明日の朝、起きたら黒人になっていたらどうする?」と尋ねたら、父親が、「肌の色が変わるわけがないだろ」と答えるようなものだ。まあ、最近、こんな馬鹿が増えているのだが・・・
ああ・・・なぜ馬鹿か分からなければすまない。しかし、「すまない」で終わりだ。

また、高慢に、あるいは、欲深に、「腕振り運動をやったら、どんな良いことがあるんだい?」と聞かれたら、「何もないよ。無駄な努力をしているだけさ」と答える。
まあ、実際にそうなのだ。
自主的に無駄な努力をする者が真に貴いものを手に入れるのだが、そんなことを愚か者に言っても豚に真珠である。

手塚治虫さんの漫画作品『アポロの歌』の中で、こんな場面がある。
1人の少年がランニングをしていたら、ある男が親切そうに近付いてきて、マラソンのトレーニングなら、もっとこういうふうにやるべきだなどと話し始める。
だが、少年は、「やることがないから走っているだけだ」と言って、全く相手にしない。
確か、この少年も、走るきっかけとしては、何か強制的なものがあったかもしれないが、そんなことは無視している。
よって、この少年は、生まれて初めて、貴いことをしているのである。
腕振り運動にも、そういうところがあって、「やることがないからやっている」とも言えるし、「下らないことをしなくて済むからやっている」とも言える。
そして、案外に、価値ある仕事で忙しい人ほど、そう言うのである。

私は、盛鶴延さんの『気功革命』は、随分前に買ったのだが、この中で説明されている2つの腕振り運動の中の「甩手1」としている、前に腕を振るやり方にはまったのは、つい最近である。
これも、関英男博士方式の腕振り運動1万回を毎日欠かさず続けたから起こったことだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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