1人の人間が世界を支配する力の大きさは、その人が、無意識をどこまで解放するかで決まる。
無意識の一部が、瞬間的に出てくるだけでも、奇跡のようなことが起こることがある。
では、どうすれば、無意識が解放されるかというと、意識(自我)が消えることによってだ。
しかし、例えば、酒を飲んで「意識が消えるほど」酔っぱらっても、全く超人になるわけではない。
同様に、興奮した人間に鎮静剤を打ち、意識を弱くしたら天才になったなんて話も、あまり聞いたことはない(あることはあるのだが)。
また、諜報機関や、場合によっては警察が使うという自白剤という特殊な薬物を注射された人間も、自我意識は弱くなるが、むしろ、心身の能力は著しく低下する。
確かに、芸術家には、覚醒剤の使用により無意識を表出させることで、優れた創造性を発揮する者もいるのだが、覚醒剤が良好な効果を見せることはむしろ稀で、大抵は酷いことになる。
サルトルでさえ、覚醒剤を試してみたら、ロクでもないことにしか、ならなかったという。
一方で、こんな注目すべき話がある。
ルドルフ・シュタイナーが、心神喪失した後のニーチェに会った時、ニーチェは確かに、通常の知的能力を失っていたが、シュタイナーは、ニーチェの偉大な英知を感じ深い感慨に襲われたと言う。
それは、シュタイナーの認識違いや妄想だったのだろうか?
そうではない。もし、信じることが出来るなら、シュタイナーは高次元を知覚する能力を持っており、ニーチェの霊的英知が輝いているのを見たのだ。
とはいえ、人間は、直観的な確信が持てない限り、何も信じることは出来ないので、この話を無闇に信じるわけにはいかないが、疑わない方が可能性は広がる。
話がややこしくならないうちに、正解を述べなくてはなるまい。
簡単に言えば、自我意識が隠れただけでは、相変わらず凡人なのだ。
酒を飲んだり、失神したり、眠ったり、麻薬でラリっていても、すぐに自我意識は戻ってくる。そんな者は、高い能力を発揮することはない。
確かに、危機一髪の時に異常な能力を発揮する、いわゆる「火事場の馬鹿力」といった場合もある。
この場合は、自我が隠れたのではなく、自我の周波数が変わったのだ。
そして、自我の周波数を変えるのは、生命体の力だ。
たとえて言えばだが、周波数が変わらない自我は、「隠れても臭い」のである。
だが、周波数が変わってしまえば、無臭か、あるいは、香しいものになる。まあ、あくまでたとえだが。
ニーチェは、自我の周波数が高くなり過ぎて、脳の、化学的・電気的な機能に適応出来なかったのである。
まあ、それは特殊な作用の結果であり、我々がそんな状態になることはない。
そこで、我々は、自我の周波数を高め、自我と共存しながら無意識を解放すれば良い。
そのためには、腕振り運動を、自分が振っているという自覚のない、限りなく静かで自然な状態でやれるよう、日々励むのが、最も易しい方法なのだと思う。
ついでに言えば、優れた芸術作品は全て、度合いはあるが、芸術家が無意識状態の時に描かれている。
そんな作品は沢山あるが、例えば、ギュスターヴ・モローの『ヘーラクレースと水蛇(ヒュドラー)』は、完全無意識状態で描かれたものだ(特に、線画の習作の方が良いのだが)。
モローの作品は、特に無意識を感じるが、それは、彼が、画家が名声を掴むための場所であるサロンを拒否したことに関係するのだと思う。
無意識の一部が、瞬間的に出てくるだけでも、奇跡のようなことが起こることがある。
では、どうすれば、無意識が解放されるかというと、意識(自我)が消えることによってだ。
しかし、例えば、酒を飲んで「意識が消えるほど」酔っぱらっても、全く超人になるわけではない。
同様に、興奮した人間に鎮静剤を打ち、意識を弱くしたら天才になったなんて話も、あまり聞いたことはない(あることはあるのだが)。
また、諜報機関や、場合によっては警察が使うという自白剤という特殊な薬物を注射された人間も、自我意識は弱くなるが、むしろ、心身の能力は著しく低下する。
確かに、芸術家には、覚醒剤の使用により無意識を表出させることで、優れた創造性を発揮する者もいるのだが、覚醒剤が良好な効果を見せることはむしろ稀で、大抵は酷いことになる。
サルトルでさえ、覚醒剤を試してみたら、ロクでもないことにしか、ならなかったという。
一方で、こんな注目すべき話がある。
ルドルフ・シュタイナーが、心神喪失した後のニーチェに会った時、ニーチェは確かに、通常の知的能力を失っていたが、シュタイナーは、ニーチェの偉大な英知を感じ深い感慨に襲われたと言う。
それは、シュタイナーの認識違いや妄想だったのだろうか?
そうではない。もし、信じることが出来るなら、シュタイナーは高次元を知覚する能力を持っており、ニーチェの霊的英知が輝いているのを見たのだ。
とはいえ、人間は、直観的な確信が持てない限り、何も信じることは出来ないので、この話を無闇に信じるわけにはいかないが、疑わない方が可能性は広がる。
話がややこしくならないうちに、正解を述べなくてはなるまい。
簡単に言えば、自我意識が隠れただけでは、相変わらず凡人なのだ。
酒を飲んだり、失神したり、眠ったり、麻薬でラリっていても、すぐに自我意識は戻ってくる。そんな者は、高い能力を発揮することはない。
確かに、危機一髪の時に異常な能力を発揮する、いわゆる「火事場の馬鹿力」といった場合もある。
この場合は、自我が隠れたのではなく、自我の周波数が変わったのだ。
そして、自我の周波数を変えるのは、生命体の力だ。
たとえて言えばだが、周波数が変わらない自我は、「隠れても臭い」のである。
だが、周波数が変わってしまえば、無臭か、あるいは、香しいものになる。まあ、あくまでたとえだが。
ニーチェは、自我の周波数が高くなり過ぎて、脳の、化学的・電気的な機能に適応出来なかったのである。
まあ、それは特殊な作用の結果であり、我々がそんな状態になることはない。
そこで、我々は、自我の周波数を高め、自我と共存しながら無意識を解放すれば良い。
そのためには、腕振り運動を、自分が振っているという自覚のない、限りなく静かで自然な状態でやれるよう、日々励むのが、最も易しい方法なのだと思う。
ついでに言えば、優れた芸術作品は全て、度合いはあるが、芸術家が無意識状態の時に描かれている。
そんな作品は沢山あるが、例えば、ギュスターヴ・モローの『ヘーラクレースと水蛇(ヒュドラー)』は、完全無意識状態で描かれたものだ(特に、線画の習作の方が良いのだが)。
モローの作品は、特に無意識を感じるが、それは、彼が、画家が名声を掴むための場所であるサロンを拒否したことに関係するのだと思う。