ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2021年09月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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暗闇の未来を安全に進むには

イギリスの詩人で社会学者である、ミニー・ルイーズ・ハスキンズ(Minnie Louise Haskins 1875~1957)の、『時代の門(The Gate of the Year)』という詩がある。
ジョセフ・マーフィーの『世界一かんたんな自己実現法(原題:THE BEST OF DR.JOSEPH MURPHY)』の「訳者あとがき」で、翻訳者の富永佐知子氏が、この詩について、
「故マーフィー博士の考えは、この一遍に集約されているといってもいいだろう」
と述べていた。
『時代の門』は、『世界一かんたんな自己実現法』の原書では引用されていたが、この翻訳書では、編集の都合上割愛し、「訳者あとがき」に持って来たということだろう。
尚、マーフィー博士の著書で引用されていたのは『時代の門』の冒頭部分である。
イギリスの著作権保護期間は、著作権者の死後50年であるから、この詩は2007年に、それが切れている。
マーフィー博士が引用した冒頭部分は、以下の通りである。
訳は後に書く。

THE GATE OF THE YEAR

‘God Knows'

And I said to the man who stood at the gate of the year:
“Give me a light that I may tread safely into the unknown.”
And he replied:
“Go out into the darkness and put your hand into the Hand of God.
That shall be to you better than light and safer than a known way.”


時代の門

「神のみぞ知る」

私は、時代の門の前に立っていた男にこう言った
「私が安全に未知の世界に踏み入ることができるように、私に灯りを与えてください」
すると彼は答えた
「暗闇に進み、あなたの手を神の手に重ねなさい
それが、あなたにとって、灯りよりも良く、既知の道よりも安全なのだ」

尚、詩の続きでは、「私」は、闇に進み、神の手を見つけて、喜んで夜の中に足を踏み入れる。
実に深い詩で、下手な解説はせず、自分で感じた方が良いが、最低限の意味を言えば、
「指針や忠告や、あるいは、お決まりのルールに従うよりも、神の導きに頼れ」
といったことだと思う。
未来は予測出来るものではなく、暗闇・・・つまり、未知の世界なのだから。
頼りになるのは神だけであるが、神に頼れば安心である。

しかし、「神の導きに従え」と言う者は多いが、どうすれば神の導きが得られるのかは、皆、曖昧に言う。
元アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターは、大統領選挙に勝利した時、こう言った。
「私は神に、『勝たせて下さい』とは祈りませんでした。『導いて下さい』と祈りました」
カータ―元大統領は牧師でもある。
導きを得るためにはどうすれば良いか、もっと分かり易く言えば、「神よ導きたまえ」と心で言えば良いのである。それが祈りである。
そうすれば、必ず導いてくれる。
また、「神」という言葉を含む、あらゆる言葉を心で唱えると、導いてもらえる。
私がよく上げる言葉で言えば、
「神に出来ないことはない」
「神は道なきところに道を開く」
「神の他に何もない、ただ神だけがある」
である。
あるいは、「神」とだけ心で言っても良い。
心の中で、丁寧に、ゆっくりと言うのである。
常に、そうすることである。








強い神の力を得る公然たる方法

神の叡智や力に関することで、特定の教団に入らないと知ることが出来ないとか、手数料以上の費用を必要とするような秘法など存在しない。
「この教団だけの秘密」だの、高額なお布施を必要とするような方法は、私の考えでは、全て偽物だ。
これは、スピリチュアルなことに限らず、この世のほとんどのことがそうであり、そして、ますますそうなるだろう。

そこで、現実支配の力に関する、秘法でも何でもなく、よく考えれば当たり前である手法について簡単に語る。
当たり前であるから、すぐに実践出来、しかも、納得し易い。
では、早速、伝授に入る。
国や地域を問わず、究極の真理は、「私は神である」であり、その地域の言語で真言となっていることも多い。
けれども、「私は神」という道理は理性がなかなか納得しない。
もしかしたら、百万回、千万回と唱えれば、いつかは理性が屈服して受け入れられるのかもしれないが、そこまでやれる者は滅多にいないだろう。
しかし、もし、「私は神である」という真の理解に達すれば、神のごときもの・・・イエスのようになれる。

だが、これは、こうやれば楽だ。
まずは、心の中で「私は在る」と、丁寧に繰り返し唱える行を行う。
これは、いわば当たり前の言葉である。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「あなたが本当に納得出来ることは『私は在る』だけだ」と言った通り、他の何を疑えても、自分が存在することだけは疑えない真実だ。
また、合気道家の藤平光一氏が、「重みは下にある」という当たり前の言葉を言えば氣が出ると言い、氣が出れば、潜在能力が発揮されたり、幸運になることを著書で証言している。彼自身、氣を出すことで、銃弾飛び交う戦場を悠々と歩いたり、小指1本で、アメリカの大男数人と押し合いをして楽勝している。
そして、「重みは下にある」より、はるかに当たり前のことが「私は在る」なので、この言葉だけでも、優れた効果を期待出来るだろう。

そして、『ヒマラヤ聖者の生活探求』(第5巻)と、ジョセフ・マーフィーの『人生は思うように変えられる』の両方で、偉大な人物と紹介された、イギリスの科学者、技術者、神秘家であったF.L.ローソンの最高の言葉「神の他に何もない、ただ神だけがある」を唱えるのだ。
これも、心の中で丁寧に唱えるべきである。
この言葉は、「当たり前」と言うようなものではないが、否定材料もないため、「私は神である」というような反発は起こらない。
こちらも、この言葉だけで、驚くべき効果を発揮するはずである。

さて、最上の言葉(真言やアファーメーションと言っても構わない)を2つ上げた。
「私は在る」
「神の他に何もない、ただ神だけがある」
これらの1つでも唱えると、素晴らしい効果がある。
では、この2つを唱えるとどうなるか、お気付きだろうか?
「神の他に何もなく、神だけが存在する」のに、「私は在る」のである。
つまり、神的レベル、あるいは、高次のレベルで、「私は神である」が成立してしまうのである。
もし、「神の他に何もない、ただ神だけがある」という言葉に多少の違和感を覚えても、「私は在る」と唱えていれば、魂の作用により、それは消える。
だが、初めから、さほどの違和感は感じないと思うので、少々、不思議な感じはしても、「神の他に何もない、ただ神だけがある」と唱えると良いだろう。
人間というのは、本来、神秘が好きなもので、「神の他に何もない、ただ神だけがある」という言葉には高揚感を感じることも多い。
だが、そうでなくても、全く心配はいらない。
まずは、「私は在る」と唱えて、魂を磨き、力を高めれば良いのである。








神仏の呼び方に関する疑問

今回は、皆様が、ひょっとしたら疑問に思っているかもしれないことについて述べる。

神仏の名を心で唱えるナーマスマラナが、神仏に守られ恵みを得る最高の方法である。
これは、釈迦の念仏の教えであり、釈迦の後継者とも言われた天才、龍樹も認めていたことであり、近年ではインドの有名な聖者サイ・ババが述べていたことであるが、確かに間違いのないことであると思う。
一方で、最近は、このブログでは、「神」という言葉が、最高の力を持ち、これを唱えることを勧めている。
「神」という語を唱えるためには、普通に、心で「神」と唱えるのが基本だが、「神」という語を含む言葉、例えば、「神に出来ないことはない」と唱えたり、あるいは、「神」という語を多く含む本(例えば『聖書』)を読むことも勧めた。
この両者(個々の神仏の名を唱えるナーマスマラナと、「神」という語を唱えること)は、実は同じである。
その理由を以下に簡単に述べる。

インドの聖典(ゲーテ、ガンジー、アインシュタインらも愛読したと言われる)『バガヴァッド・ギーター』で、最高神クリシュナは、「各自、自分が信仰する神に祈るが良い。そうすれば、願いは叶えられるだろう。だが、それは結局は、私に祈っているのであり、私が願いを叶えているのである」と述べている。
「クリシュナ」は1つの神の名であると同時に、宇宙全体である絶対神でもあるのである。
クリシュナの教えは、個々の神に祈れば、それらの神を通して、クリシュナに祈っていることになるという意味である。

江戸末期の偉大な神道家であった黒住宗忠は、天照大神(アマテラスオホミカミ)を信仰していたが、この天照大神は『古事記』や『日本書紀』に登場する女神でもあるのだが、黒住宗忠がこの名で信仰していたのは、唯一絶対神のことであったことは明白である。
黒住宗忠は、日本人に最も親しみのある天照大神を通し、クリシュナの場合と同じく、宇宙全体である絶対神に祈っていたのである。

また、敬愛の意味で、神を「父」とか「親様」と呼ぶことも、よく行われている。
江戸末期から昭和初期の農民で妙好人(庶民だが高度な悟りに達していた念仏者のこと)であった因幡の源左(いなばのげんざ)は、阿弥陀仏を信仰していたが、阿弥陀仏を「親様」を読んでいた。
そして、実は、黒住宗忠も、天照大神を、しばしば「親様」と呼んでいたのである。
イエス・キリストだって、神を正式な名であるヤハウェと呼ばず、もっぱら「父」と呼んでいた(ただ、一般に、ヤハウェと口に出して呼ぶことは禁じられている)。

このように、その時々の風習や習慣、あるいは、個人的な好みなどにより、神仏を、個々の名で読んだり、「神(神様)」「仏(仏様)」と呼んだり、「親様」「父」と呼んだりするが、これらは、同じなのである。
聖母マリアに祈る場合も、「マリア様」と言ったり、「祝福された乙女」「無原罪の宿り」「平和の女王」など、いろいろに呼ぶが、各自、自分に合った名で呼べば良いのである。
日本人の場合、天照大神、阿弥陀仏、観世音菩薩、大黒天や弁財天などの七福神を祈る場合が多いが、それらの神仏に親しみがあれば、その名を唱えれば良いのである。
ただ、現代においては、それぞれの神仏の名を知らないわけではないが、特に何かの神仏に親しみがあるわけではない場合、「神」と唱えるのが、一番良いと思う。
また、「神」という言葉自体にも違和感があったり、無神論者と自覚する場合もあるかもしれないが、そんな者でも、自分を超えた叡智と力があることは認めていると思う。そうとは自覚出来なくても、そうであるはずだし、そうでないというなら、それは問題である。
「神」という言葉を使いたがらない人のために、ジョセフ・マーフィーは「宇宙の活力(コズミック・エナージャイザー)」という言葉を使ったことがある。「コズミック・エナージャイザー」を「宇宙の活力」と訳したのは、優れた翻訳家の桑名一央氏であるが、「エナージャイザー」は、特に日本人には馴染みのない概念かもしれない。
エナージャイザー(Energizer)は、今日では、有名な電池メーカーとして知られる会社の名前である。
Energizerの辞書的な意味は、1つは「電気エネルギーを供給する装置」であり、根本的な意味は「エネルギーと活力と勇気を他の人に与える誰か」であり、ジョセフ・マーフィーは、この2つ目の意味により、神に該当する存在を「コズミック・エナージャイザー」と呼んだのだ。それを、桑名一央氏は、かなり考えて「宇宙の活力」と訳したのだと思う。
だから、意味を知った上で、「神」の代わりに「コズミック・エナージャイザー」、あるいは、「宇宙の活力」と呼ぶのもありであり、実は、私も「宇宙の活力」という言葉を使うことがある。

以上のようなわけである。
よって、「神」、「父」、個々の神仏の名、「宇宙の活力」・・・何と呼ぼうが構わないが、その名を、心の中で唱えれば、一切の問題は解決し救われる。
あらゆる恵みが与えられ、願いは全て叶う。
このことは、偉大な啓蒙家や事業家らが言明していることもあるが、敢えて言わなくても、そう考えている者は多いと思う。
そして、そもそも、イエス・キリストが言っていたことである(特に「マタイ福音書」)。

最初に書いたが、今回は、皆様が、疑問に思っているかもしれないことについて述べた。








親ガチャを超える

「親ガチャ」という言葉をご存じだろうか?
私は昨日、知ったのだが(笑)。
「ガチャ(ガチャガチャとも言う)」というのは、「カプセルトイ」(登録商標)という、お金を入れてハンドルを回すと、オモチャが入った小さなカプセルが1つ出てくる自動販売機の通俗名で、子供の時にやったことがある人が多いと思う。
このガチャの特徴は、どのオモチャが出てくるか、自分で選べないことだ。
それで、「親ガチャ」というのは、親を選べないという意味で使われている。
どんな人生になるかは、どんな親の子として生まれるかに大きく左右されるが、この「親ガチャ」に外れてしまった・・・つまり、ロクでもない親の子として生まれてしまったら、人生に大きなハンディキャップを背負ってしまったことになる。そんな意味を強調するために、「親ガチャに外れた」と、厭世的(えんせいてき。世をはかなむこと)に言うわけである。

例えば、社会の底辺に居て、うだつが上がらず、給料は安く、嫌で格好悪い仕事をし、皆に蔑まれ、将来は知れているばかりか、明日、住む家があるか、食べるものを買えるかも不安という、哀れな立場であるとする。
そうなった大きな原因は、親ガチャに外れたからで、もし、良い親ガチャに当たっていれば、高収入で他人が羨むような生活をし、大勢の人々に「先生」と呼ばれる立場になったかもしれない。
まあ、そんな考え方は非難されるかもしれないが、否定も出来ない。
言ってしまえば、だいたい、その通りなのである。
とはいえ、外れてしまったものは仕方がない。
また、スピリチュアルな考え方の中には、子供の魂は、自分で親を選んで生まれて来るのであり、偶然に親ガチャに外れたのではなく、わざと外したというものもある。
まあ、そうとでも思って自分を慰めないと、やっていられないという者が、それが真実だと思い込みたがるのかもしれないが、それで前向きに生きられるなら、それも1つの手と思う。

しかし、それでも敢えて言うと、親ガチャというのは、何とも説得力がある考え方である(笑)。
とはいえ、見逃されていることがある。
それは、親ガチャに当たったおかげで良い人生を歩んでいるように見える人達だって、本当は、親ガチャに外れた人に負けないくらい惨めだということだ。
まあ、若いうちは、そうでもないかもしれないが、遅かれ早かれ、間違いなくそうなる。
そして、かなりの確率で、親ガチャに当たった人は、外れた人より不幸になるのだ。

だが、親ガチャに当たろうが、外れようが、関係なく、楽園に至るための鍵が、そこらに浮かんでいるのである。
それが、その国の言語での「神」という言葉だ。言うまでもなく、日本語では「神」で、英語では「God」だ。
それを、ここに書いても問題ない。
なぜなら、特に、親ガチャに当たった人は、こんなものは滅多に見ないし、見ても「馬鹿らしい」と思って無視するだろうから。
まあ、親ガチャに外れた人でも、85パーセントまでは無視するのだが(笑)。

ちょっと昔に、アメリカで、宇宙人が、この国(アメリカ)を発展させようとして、“In God We Trust(我々は神を信じる)”という標語を作り、ほとんどの貨幣と紙幣に、この言葉を書き込んだのだ。
その宇宙人が悪い目的を持っていたということはないだろう。なぜなら、「神」は宇宙最強の言葉なのだから。
それで、アメリカは隔絶した強力な国になったが、やがて、大半の人が、この言葉に注意を払わなくなり、さらには、無視するようになったので、アメリカは転落の最中にある。
世界を自分達の快楽のために支配しようとする敵の標語は、え・・・っと、忘れてしまったが(笑)、その言葉もなかなか強いので、敵が勝ちつつあるのだ。
敵のパワーワードは「神」の3割の力もないのだが、今のアメリカや世界では、それで十分なのである。
だから、親ガチャに当たろうが外れようが関係なく、「神」という言葉をなるべく多く使う・・・主には、心で想えば良いのである。
こう言うと、必ず馬鹿にされるし、笑われる。
そりゃそうだ。
岡本太郎流に言えば、
「笑われたっていいじゃないか?いや、笑われないといけない」
のである。
あの人、宇宙人なのだよ。
だから彼は、「私は親に生んでもらったのではなく、生まれてきたのだ」と言ったのである。
親ガチャなど、何の関係もない。
ちなみに、彼は、縄文土器を見て覚醒したのである。








結び合う2つの最上の真言

最上の真言、あるいは、アファーメーションと言うべきものが『ヒマラヤ聖者の生活探求 第5巻』にあることを、私はずっと前に見つけていたが、ますます、その言葉の価値が分かって来た。
それを言ったのは、F.L.ローソンなるイギリス人で、この本には、彼のことは、「イギリスの偉大なエンジニアの一人、ローソン・ローソンの弟」と紹介されてあった。
ところが、ジョセフ・マーフィーの『人生は思うように変えられる』という本の中にも、おそらく同じ人物であると思うが、このF.L.ローソンの話があり、こちらでは、「イギリスの有名な技術者で、また偉大な科学者」と紹介され、『人生をいかに考えるか』という本を書いたとされている。マーフィーの本には、ローソンの、その素晴らしいアファーメーションについては書かれていないが、別の非常に印象的なことが書かれてあった。しかし、今回は、アファーメーションに絞る。
「アファーメーション」とは、かなり広い意味で使われるが、基本的な意味は「断言、確言、肯定、(宣誓に代わる)確約」といったもので、よく引用されるような優れた聖書の言葉なども、アファーメーションと言って良いと思う。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアード.T.スポールディングが、ロンドンにF.L.ローソンを訪ねた時、スポールディングとローソンが見ていた街の通りで事故が起こった。
土木工事の現場で、沢山の岩を積んだ一頭立ての二輪馬車が来て、その馬車の御者が、馬車から下りて馬車の後ろに回った時、馬車が傾き、御者の上に、積んでいた沢山の岩が落下した。
その時、ローソンが言った言葉が、
「神の他には何もない、只神あるのみ」
だった。
ちなみに、原書では、この言葉は、
“There is nothing but God.”
であった。
すると、岩の下敷きになった御者は、全くの無傷で、岩の中から出て来たのだった。
ローソンのこの言葉は、「神」という言葉が入っているだけで、既に最上である(日本語の素晴らしい訳文には、「神」は2回も出てくる)。
さらに、その上、この言葉は、宇宙最高の真理を示しているのだから、力がない方がおかしい。
『ヒマラヤ聖者の生活探求 第3巻』で、イエスが述べた通り、「神」という言葉は最上のヴァイブレーションを発し、この言葉を出来るだけ多く使うことは良く、いくら使っても多過ぎることはない。
ローソンが、この言葉を大切にしていることが良く分かるように思うのである。

神しか存在しない、あるいは、全てが神であることは、インドの聖者ラマナ・マハルシも、アルバート・アインシュタインも言明していたことであるが、なかなかピンと来ない人が多いだろう。
しかし、こういった考え方に馴染みのない人だって、この言葉には多少なりとも、心が惹かれるのではないかと思う。
そして、この真理が理解出来た時には、世界は意のままなのだ。
それで、理解に近付くためにはどうすれば良いかというと、まさに、『At Your Command(世界はあなたの意のまま)』(翻訳『 世界はどうしたってあなたの意のまま』)という、ネヴィル・ゴダードの本にヒントが書かれている。
(余談だが、ビートルズの『Nowhere Man』という歌の中に「THe world is at your command」という言葉が何度も出てくる)
その方法は、「私は在る」と、心の中で唱えることだ。何度も。
なぜなら、「I AM(私は在る)」が神であるからだ。
インドの聖者、ニサルガダッタ・マハラジは、「私は在る」こそ、最上のマントラ(真言)であると述べている。
聖書で、モーセの前に現れた神はまさに「I AM THAT I AM(私は在る者である)」と述べている。
「神」という言葉が最上のヴァイブレーションを発するなら、神を最も端的に表す「I AM(私は在る)」も同じであり、この言葉は、意識(自我)と超意識(神)との橋渡しをするのだと思う。
「私は在る」で準備を整え、「神の他には何もない、只神あるのみ」と唱えれば、必ずや勝利に至るに違いない。
尚、私は「神の他に何もない、ただ神だけが在る」あるいは「神の他に何もない」と唱えている。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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