真言をよく唱えていると、明晰夢(夢を見ていると分かる夢)を見るようになる。
つまり、観世音菩薩真言「オン、アロリキャ、ソワカ」とか、大日如来真言「オン、アビラウンケン」を唱えていると、夢を見ている時に、それが夢だと分かるようになるのである。
それは、「あ!これは夢だ!」と強い印象を持つというよりは、ごく当たり前に夢だと分かるのである。
言ってみれば、夢の世界と、現実世界の違いがなくなってくるのだと言える。
それどころか、大正から昭和の大作家、江戸川乱歩が色紙に常に書いたように、夢の方が本物で、目覚めの方が、やや偽物だと気付くかもしれない。
インドの聖者、ラマナ・マハルシは、両者(夢と現実)は全く同じと言ったが、現実の方が制限が多い分、やや、低級であるかもしれない。
なぜ、真言を唱えると、夢と現実の違いがなくなるのかというと、真言を唱えると、意識の深い領域・・・潜在意識から集合意識、超意識、純粋意識と呼ばれるところに潜っていくが、夢の世界は、目覚めの世界より少しだけ深い領域にあり、夢の世界より、はるかに深い領域に慣れてしまえば、夢と現実に差異はなくなるのは道理である。
そして、そのように、真言で深い意識の領域に慣れれば、夢の世界を自由に支配出来るようになるのと同時に、現実世界という、この固くて粗雑で融通が効かない世界も、だんだんと操れるようになるのである。
毎日、百回程度でも真言を唱えていれば、全く唱えないのとでは大きな違いで、その他に何もしなくても夢の世界が楽しくなるし、現実世界でも幸運になっていくのである。
ただし、やはり、百回程度では少な過ぎ、真言は慣れてくると楽しく唱えられるので、出来るだけ多く唱えるべきである。
あえて言えば、真言を唱えることほど重要なことはないので、真言さえ唱えていれば良いのであると思う。
そして、夢を夢と自覚出来るようになれば、不道徳でない範囲で、何か突拍子もないことを試し、世界が想いの通りになることを理解していくと良いだろう。
尚、腕振り運動は、大体、真言と同等で、腕振り運動を百回やるのと、真言を百回唱えるのは等しい。
ただ、筋トレのようにあくせくやる腕振り運動ではいけないし、声に出してうるさく、せわしなく唱える真言も良くない。
腕振り運動は、丁寧に正確に優雅にやるべきだし、真言は、心の中で、静かに、丁寧に唱えなければならない。
私は、干支の守護仏が阿弥陀如来ということもあって、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を主に唱えているが、観世音菩薩真言や大日如来真言を唱えることもあるし、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」の念仏も唱えることがある。
だが、干支が何であれ、阿弥陀如来真言を唱えることは良いことである。
また、苦痛でなく、むしろ楽しければ、どれだけの種類の真言を唱えても良いが、1つに集中した方がうまくいく場合が多いと思う。
法然や親鸞は、もっぱら「南無阿弥陀仏」を勧め、真言密教の偉い僧は「オン、アビラウンケン」を唱えるよう言うが、我々は、自分が好きに選べば良い。言ってみれば「南無阿弥陀仏」と「オン、アビラウンケン」両方を唱えても良いのである(私はやっている)。
宗教をやっている人や、まして、その指導者は、いろいろ制限があって大変だと思うが、我々は、しがらみがないという特権があるので、それを生かせば良いと思う。
つまり、観世音菩薩真言「オン、アロリキャ、ソワカ」とか、大日如来真言「オン、アビラウンケン」を唱えていると、夢を見ている時に、それが夢だと分かるようになるのである。
それは、「あ!これは夢だ!」と強い印象を持つというよりは、ごく当たり前に夢だと分かるのである。
言ってみれば、夢の世界と、現実世界の違いがなくなってくるのだと言える。
それどころか、大正から昭和の大作家、江戸川乱歩が色紙に常に書いたように、夢の方が本物で、目覚めの方が、やや偽物だと気付くかもしれない。
インドの聖者、ラマナ・マハルシは、両者(夢と現実)は全く同じと言ったが、現実の方が制限が多い分、やや、低級であるかもしれない。
なぜ、真言を唱えると、夢と現実の違いがなくなるのかというと、真言を唱えると、意識の深い領域・・・潜在意識から集合意識、超意識、純粋意識と呼ばれるところに潜っていくが、夢の世界は、目覚めの世界より少しだけ深い領域にあり、夢の世界より、はるかに深い領域に慣れてしまえば、夢と現実に差異はなくなるのは道理である。
そして、そのように、真言で深い意識の領域に慣れれば、夢の世界を自由に支配出来るようになるのと同時に、現実世界という、この固くて粗雑で融通が効かない世界も、だんだんと操れるようになるのである。
毎日、百回程度でも真言を唱えていれば、全く唱えないのとでは大きな違いで、その他に何もしなくても夢の世界が楽しくなるし、現実世界でも幸運になっていくのである。
ただし、やはり、百回程度では少な過ぎ、真言は慣れてくると楽しく唱えられるので、出来るだけ多く唱えるべきである。
あえて言えば、真言を唱えることほど重要なことはないので、真言さえ唱えていれば良いのであると思う。
そして、夢を夢と自覚出来るようになれば、不道徳でない範囲で、何か突拍子もないことを試し、世界が想いの通りになることを理解していくと良いだろう。
尚、腕振り運動は、大体、真言と同等で、腕振り運動を百回やるのと、真言を百回唱えるのは等しい。
ただ、筋トレのようにあくせくやる腕振り運動ではいけないし、声に出してうるさく、せわしなく唱える真言も良くない。
腕振り運動は、丁寧に正確に優雅にやるべきだし、真言は、心の中で、静かに、丁寧に唱えなければならない。
私は、干支の守護仏が阿弥陀如来ということもあって、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を主に唱えているが、観世音菩薩真言や大日如来真言を唱えることもあるし、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」の念仏も唱えることがある。
だが、干支が何であれ、阿弥陀如来真言を唱えることは良いことである。
また、苦痛でなく、むしろ楽しければ、どれだけの種類の真言を唱えても良いが、1つに集中した方がうまくいく場合が多いと思う。
法然や親鸞は、もっぱら「南無阿弥陀仏」を勧め、真言密教の偉い僧は「オン、アビラウンケン」を唱えるよう言うが、我々は、自分が好きに選べば良い。言ってみれば「南無阿弥陀仏」と「オン、アビラウンケン」両方を唱えても良いのである(私はやっている)。
宗教をやっている人や、まして、その指導者は、いろいろ制限があって大変だと思うが、我々は、しがらみがないという特権があるので、それを生かせば良いと思う。