ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2021年06月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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真言の面白い効果

真言をよく唱えていると、明晰夢(夢を見ていると分かる夢)を見るようになる。
つまり、観世音菩薩真言「オン、アロリキャ、ソワカ」とか、大日如来真言「オン、アビラウンケン」を唱えていると、夢を見ている時に、それが夢だと分かるようになるのである。
それは、「あ!これは夢だ!」と強い印象を持つというよりは、ごく当たり前に夢だと分かるのである。
言ってみれば、夢の世界と、現実世界の違いがなくなってくるのだと言える。
それどころか、大正から昭和の大作家、江戸川乱歩が色紙に常に書いたように、夢の方が本物で、目覚めの方が、やや偽物だと気付くかもしれない。
インドの聖者、ラマナ・マハルシは、両者(夢と現実)は全く同じと言ったが、現実の方が制限が多い分、やや、低級であるかもしれない。
なぜ、真言を唱えると、夢と現実の違いがなくなるのかというと、真言を唱えると、意識の深い領域・・・潜在意識から集合意識、超意識、純粋意識と呼ばれるところに潜っていくが、夢の世界は、目覚めの世界より少しだけ深い領域にあり、夢の世界より、はるかに深い領域に慣れてしまえば、夢と現実に差異はなくなるのは道理である。
そして、そのように、真言で深い意識の領域に慣れれば、夢の世界を自由に支配出来るようになるのと同時に、現実世界という、この固くて粗雑で融通が効かない世界も、だんだんと操れるようになるのである。

毎日、百回程度でも真言を唱えていれば、全く唱えないのとでは大きな違いで、その他に何もしなくても夢の世界が楽しくなるし、現実世界でも幸運になっていくのである。
ただし、やはり、百回程度では少な過ぎ、真言は慣れてくると楽しく唱えられるので、出来るだけ多く唱えるべきである。
あえて言えば、真言を唱えることほど重要なことはないので、真言さえ唱えていれば良いのであると思う。
そして、夢を夢と自覚出来るようになれば、不道徳でない範囲で、何か突拍子もないことを試し、世界が想いの通りになることを理解していくと良いだろう。

尚、腕振り運動は、大体、真言と同等で、腕振り運動を百回やるのと、真言を百回唱えるのは等しい。
ただ、筋トレのようにあくせくやる腕振り運動ではいけないし、声に出してうるさく、せわしなく唱える真言も良くない。
腕振り運動は、丁寧に正確に優雅にやるべきだし、真言は、心の中で、静かに、丁寧に唱えなければならない。
私は、干支の守護仏が阿弥陀如来ということもあって、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を主に唱えているが、観世音菩薩真言や大日如来真言を唱えることもあるし、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」の念仏も唱えることがある。
だが、干支が何であれ、阿弥陀如来真言を唱えることは良いことである。
また、苦痛でなく、むしろ楽しければ、どれだけの種類の真言を唱えても良いが、1つに集中した方がうまくいく場合が多いと思う。
法然や親鸞は、もっぱら「南無阿弥陀仏」を勧め、真言密教の偉い僧は「オン、アビラウンケン」を唱えるよう言うが、我々は、自分が好きに選べば良い。言ってみれば「南無阿弥陀仏」と「オン、アビラウンケン」両方を唱えても良いのである(私はやっている)。
宗教をやっている人や、まして、その指導者は、いろいろ制限があって大変だと思うが、我々は、しがらみがないという特権があるので、それを生かせば良いと思う。








皆、暇だからうまくいった

野球のバッティングの能力は、素振りの回数で決まる。
そして、いかなることの能力も、バッティングの素振りに相当することで決まる。

私は、セールスマンをしっかりやったという珍しいプログラマーだが、これらの仕事の能力も同じだ。
セールスマンの場合は、飛び込み訪問(事前の連絡なく訪問してセールスを行うこと)が素振りなのである。
沢山の飛び込み訪問をやったセールスマンほど能力が高い。これは、電話セールスでも同じである。
ただ、飛び込み訪問や電話セールスは嫌われ、訪問先から嫌な反応を返されるので、数多くやることは精神的に耐えられない。
そこで、インターネットが普及するよりも前から、セールスマンを使う企業では、セールスマンが飛び込み訪問をしなくて済む方法を画策したが、そのために、実力あるセールスマンがいなくなったのである。
好きか嫌いかの問題はともかく、毎日、長時間の飛び込み訪問を行えば、高給を取る一流セールスマンになれるのは、毎日、長時間の素振りをするバッターが高給を取る一流バッターになれるのと同じだ。

これも、良いかどうかは別にして、受験や学校の試験で良い成績を取るのも同じで、これを、プログラマーの場合より先に述べておくと良いと思う。
大手教育会社のマネージャーと受験について話したことがあるが、彼は多数の東大生に接し、東大合格のコツが分かったようだ。
1人の飛び切り優秀な東大生(その教育会社の教育関係のアルバイトでも高い能力を発揮した)が、合格のコツをシンプルに語ってくれたと言う。
その東大生は、
「東大合格なんて簡単ですよ。参考書1冊暗記すれば良いのです」
と言ったそうだ。
ちなみに、その東大生が言うには、どの参考書も同じらしい(もちろん、それなりに選んだはずだ)から、1冊で良いのである。
しかし、これだけ聞いたら誤解する人が多いだろう。
頭にハチマキを締めて必死で暗記するという古いイメージに近いものを想起する人も多いだろう。
そうではないのだ。
ひたすら、参考書を反復して読むのだ。
よって、その東大生の参考書の表紙はなくなっている。
有体に言えば、彼は頭が良いというよりは、趣味がなく、友達も少ないので、暇だから、そんなことが出来たという部分が大きいのである。
そういえば、極めて有名な、あるインターネットサービスの創始者が、著書に、こんなことを書いていた。
「私と同じようなサービスを行っていた者は沢山いた。その中でなぜ私が勝ったのかというと、暇だったから、私だけが続けたからだ」
これもまた、この言葉通りに受け取ってはならない。
彼は、そのサービスにたっぷり時間をかけたのだ。
他の人が、趣味や交友に費やした時間を、暇にまかせてサービスを眺めたり、軽くつついているうちに、自然に改善点が見え、それをダラダラ改善しているうちに、他より多少良いものになっただけなのだ。
イチローさんも、坂本龍一さんも、暇だったから成功したと言ったら怒られそうだが、実際、そうかもしれないのだ。
(坂本さんは東京芸大の大学院を留年して暇になりたがったが、教授に泣きつかれて、嫌々卒業したらしい)
良かったら、下にご紹介した『大企業の時代は終わったか』と『村上龍と坂本龍一』を読んで考えていただければ幸いである。

で、プログラマーの場合だが、これも同じである。
プログラミングをマスター出来ないなんて言う人がいる。
だが、私だって、初めてプログラミングの本を見た時は、さっぱり分からなかったのだ。
そこで、「分からないなあ。僕にはプログラミングは出来ないなあ」と思ったら、やっぱりプログラミングを出来るようにならないのである。
だが、分からない不快さに耐えながら、ダラダラ読み続けただけなのだ。
暇だったからね(笑)。

つまり、何ごとも、暇であることが成功の条件になる。
時間を浪費する遊びや交友がある者は実力者になれない。
どの世界でも、実力者になる者というのは、仕事に時間を注ぎ込んだ者なのだ。
音楽で成功した者は、恵まれていて暇もあったのだろうが、その暇な時間を、遊びや交友に使わず、全部、音楽に注いだのだ。
米津玄師さんなんて、今でも、パソコンに向かって仙人のごとく曲作りに没頭するらしいが、元々がそうだったのだろう。
彼は、性格的にも非常にシャイで友達も多くはなかったと思う。だから、交友に時間が取られなかったのだ。

では、魔法使い、超能力者、仙人、マスターになるにはどうすれば良いか。
真言を数多く唱えれば良いのである。
下らないことを全てやめ、暇を作り、「暇だから真言を唱える」のである。
真言はどれでも良いし、なるべく1つに決めた方が続けやすい。
「南無阿弥陀仏」の念仏だって構わない。
法然は毎日6万回(あるいは7万回)、念仏を唱えていたというから、ある程度、暇だったし、また、自主的に暇を作ったのだろう。
おそらく、彼は相当な超能力者だったと思う。
それで、当時は異例の80歳まで元気に生きたし、弟子の親鸞となると90歳、晩年、念仏に転向した一休も87歳まで生きた。
一説では、親鸞は、数多く念仏を唱えることを勧めなかったと言うが、自分に関しては、かなり唱えていたのだと思う。
数多く真言を唱え、マスターに近付けば、世界への支配力が高まり、怠け者であれば安楽に過ごせるし、エネルギーが高ければ大成功者になれるだろう。








真言で業(カルマ)を解消する

真言を唱えることの有り難い効果の1つに、業(カルマ)の解消がある。
真言で運が良くなる大きな理由が、この業の解消によるものと思う。
業とは、罪のある悪い行いによって作る悪因縁といったものだと思う。
簡単に言えば、「善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる」という、「善行の報い」「悪行の報い」のうちの「悪行の報い」の原因となるのが、業、悪因縁である。
「悪行」で作る「業」や「悪因縁」に対し、「善行」で作るものは「徳」と言われるのだと思う。
業の報いを、因果応報と言うことがある(徳の報いである良い因果応報もある)。
因果応報は、すぐに来ることもあるが、かなり時間が経ってから来たり、生まれ変わった次の生で受けることもあるという説もある。
超心理学分野で世界的に有名なジナ・サーミナラ(哲学博士)の、エドガー・ケーシー関連の本を見ると、インドでは、カルマによる因果応報が一般的に信じられているので、不幸な人に対して、あまり同情しないと書かれていたのを思い出す。
サーミナラの本では、多くの因果応報の事例が紹介されており、来世にまたがる話も沢山あったように思う。
飯田史彦氏の有名な『生きがいの創造』では、因果応報といった懲罰めいた書き方は避けていたと思うが、行った行為に対する反作用が、来世で起こる事例も多数紹介されていたと思う。
また、因果応報に関し、割とよく聞く話としては、
「悪いことがあったら、これで業が軽減し、将来起こる悪いことが軽くなったり消えたりするから喜びなさい」
というものがあえる。
風邪をひくことだって、それが因果応報によるものであれば、苦しむことで業の軽減につながり、「風邪1つひかないなどというのは、かえって恐い」と言う者もいる。

ところで、真言を唱えることで背負っていた重い業が消えると言う話があるが、私は、それは本当だと実感することがある。
業の存在を心で感じているのだが、真言を唱えているうちに、「あれ」という感じで消えてしまうのである。
具体的にどんな業が消えたというのではなく、「あれ、何か重い業がのしかかっていたような気がするが、それが消えて軽くなった」と感じ、本当にホっとするのである。
ただそれは、「なんとなく」といった観念的なものというよりも、やはりどこか明晰な感じはするのである。

業を消すために、善いことをすることを奨励する人も多い。
私が好きな本である『パイロットが空から学んだ運と縁の法則』では、ジャンボジェットのパイロットである著者が、自分の力ではどうしようもないような空でのトラブルから救われるためには、不思議な運とでもいうものに頼るしかないことが多いが、そんな幸運である「善の報い」は、日頃積む徳で貯えるしかないのではと述べる。
徳は、一般的には善行によって積むことが出来るが、隠れてやる善行による陰徳だけでなく、大っぴらにやる善行による陽徳とでもいうものにも効果があると言う。例えば、有名人が災害被害者に多額の寄付をするのは売名行為のように言われることもあるが、その寄付は実際に役立つのであり、それは、やはり、幸運をもたらしたり、悪業を解消する「陽徳」になるのである。

真言が業を消すということに関し、真言の1つである念仏について言えば、親鸞は、業を消すために念仏を唱えるというのは間違いだと言ったようだ。
ただし、それは、「念仏を唱えて業を消してやる」という自力の想いでやるのが間違いだと言う意味で、念仏で業が消えることは肯定している。
いや、念仏で業が消えるどころか、極めて重く大きな悪業が念仏1つで消えてしまうのである。
これは、親鸞の教えを弟子の唯円が記した『歎異抄』や、親鸞の著書である国宝『三帖和讃』の『浄土和讃』の章の『現世利益和讃』などで見ることが出来る。
親鸞が強調したことは、自分で善いことをして業の解消をしようとしても、人間は思い通りに善いことをすることは出来ず、それどころか、故意に、あるいは、無意識に悪いことをして、どんどん業を積み重ねるので、本来であれば、我々凡夫は救われず、地獄に行くしかないが、念仏を唱えて、阿弥陀如来に頼れば、業を消してくれるのである。
これは確かに、あまりに都合の良い話であるが、結果としては正しいのだと思う。
また、親鸞は、念仏以上の善はないので、他に善いことをする必要はないのだと言う。
ただ、実際は、念仏のみならず、優れた真言であれば、同じ効果があると思う。

そんなわけで、身に覚え(罪を犯したという自覚)がある人・・・多少でも記憶力があれば、憶えているものだけでも沢山あるだろうが、そんな、やってはいけないこと、やるべきでなかったことをやってしまった者は、ますます熱心に真言を心で唱え、我々には理解不能ではるが、高次元の力で、良い方向に持って行ってくれるよう願うのが良いと思う。
不安や恐怖で心が重いのは、業を背負っているからかもしれない。
そんな時、熱心に真言を唱えていると、程度の大きさはあっても安らぎを感じると思うが、それが業が解消された証かもしれない。
私の場合、もっと明確な感覚で業の解消を感じることがあるが、長く真言を唱えれば、あなたにも分かるかもしれない。












内にある宝に気付く方法

豊かさとは何かを考えさせられる2つの対照的なお話がある。
それぞれ単独でも面白いが、2つ同時に見ると、もっと面白い。
そして、そこに仏教の知恵を加えると、誰でもそれを得られる。

1つは、ある女性の話で、彼女は普通の家庭に生まれ、普通に育った。
現在の日本の大半の子供同様、何不自由ない生活だったが、彼女の賢い親には無駄を慎む美徳があり、彼女にもそれをしっかり躾けた。
彼女は普通に大学を出て、普通に就職したが、親は余計な干渉もしない代わりに余計な援助で甘やかすこともなかったので、彼女は苦労しながらも、仕事で立派に勤めを果たしていた。
すると、ある時、彼女の親は、彼女に彼女名義の預金通帳とその印鑑を渡した。
それには、サラリーマンの生涯給与くらいは入っていた。
実は、彼女の家は、相当な金持ちだったのだが、彼女はそれをずっと知らなかったのだった。
今や、彼女が人間的に立派になったので、彼女の親は、もう、このお金を渡しても大丈夫だと判断し、そうしたのだった。

もう1つは、マーフィーの成功法則で世界的に知られるジョセフ・マーフィーの本に書かれていることだ。
貧しい労働者の息子は、ある時、自分は将来、医者になりたいと思い、父親に言ってみた。
すると、父親は意外なことを言った。
「実は、こんな時のために、父さんは貯金をしていて、既にかなりの額になっている。だから、お前は望み通り医者になれる。しかし、思うのだが、お前は、医者になるまで、この金を使わない方が良い。しかし、いざという時には自由に使えるので安心しなさい」
息子は感激し、金は自分が立派に医者になるまで使わないと父に誓った。
そして、苦労をしながらも、息子は医大を出て医者になった。
その時、父は言った。
「私のような貧しい労働者が貯金するなんてことは出来ない。金は本当は無かった。しかし、お前は医者になれた」

1つ目は、実際はお金があるのに、それを知らなかった女性の話で、もう1つは、金があると思っていたが、実際はなかった男性の話だ。
しかし、同じことなのだ。
賢い親により、2人は幸福になった。
賢ければ、金があろうがなかろうが同じなのである。
仏教にこんなお話がある。
ある男が、ひどく貧しい友に、お守りをあげ、「これを大事にし、いざとなったら開けなさい」と言った。
長い月日が流れ、2人は再会したが、貧しかった友は、今も貧しかった。
ところが、この友に渡したお守りの中には、大きなダイヤモンドが入っていたのに、友はそれに気付かなったのだ。
仏教では、誰でも、このようなダイヤモンドを持っていると教えている。
最初から、仏様からそれをもらっているのだが、ほとんどの人はそれに気付かない。
昔から、厳しい修行をすることで、それを得ることが出来ると言われているが、得るも何も、最初から持っているので、修行など必要ない。
それに気付く方法が、真言を唱えることなのである。
それを、龍樹からの1つの流れである、道綽、善導、法然、親鸞は、念仏として伝え、別の流れである、不空(ふくう)、恵果(えか/けいか)、空海は真言密教として伝え、主な真言は「オン、アビラウンケン」である。
他にも、法華経の中の観音経では「南無観世音菩薩」で、他にも、いろいろな真言がある。
ルドルフ・シュタイナーが言うように、高級な霊界である神界に仏教の世界があるが(想像出来ないほど壮大と思う)、真言が、そことの霊的交流を起こす手段と思われる。
高貴な真言には、どれも、その力があるはずで、心の中で、丁寧に静かに唱えると良い。
すると、仏の力とも言えるものが現実的に流れ込むのである。
仏典には、それが象徴的に述べられているのだと思う。








真言を唱えると何もしなくてもよくなる

真言を唱えると、何もしなくてよくなる件について。
これも、古代からの聖賢達の教えの一致する点だ。
真言の根は、心の深い部分・・・潜在意識のさらに奥にある、集合無意識や超意識にある。
よって、真言を唱えれば唱えるほど、意思は、意識の深いところに潜っていく。
そこは、我々が現実世界と呼ぶ幻想(今流には仮想世界)を生み出す創造の場である。
その深い意識の場は、少しあの世に似ていて、思ったことが速やかに実現する世界だ。
ただ、初めてそこに行った時はもちろん、何かの拍子でたまに訪れるだけでは(誰でもたまにある)、手も足も出ず、何も創造出来ない。
しかし、逆に言えば、その意識の深い部分に慣れてしまえば、現実を容易く生み出せるようになる。
慣れ次第ではあるが、初心者でも、ある程度の現実を作れるようになれる。
たとえて言えば、池や湖の深いところで活動することに慣れてしまえば、水の表面での活動は簡単過ぎて、何もしなくても思う通りになる感覚と同じである。

真言を唱えると、自分では何もしていないつもりなのに、全てが思うようになる原理は上に述べた通りである。
神話のシンボルや、昔話の神や英雄の名が、集合無意識、あるいは、超意識に存在していることは、C.G.ユングも、多くの人を観察する中で確認していた。
ユングは、そこに辿り着くいろいろな方法を考えたが、真言(マントラ)については、それほど重視しなかったのは、彼の意外な見逃しのように思える。
古代ギリシャ語やサンスクリット語の神の名や真言がそこにあるのだから、それを数多く繰り返し心で唱えれば、超意識と共鳴し合うことは少しも不思議ではない。
よって、あなたも、古代からある、由緒正しき真言や神の名を唱えるべきである。
どの言葉が良いかは、単に試せば良く、もし、良くない言葉であれば、唱えているうちに嫌な感じがするだろう。
龍樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ)という2世紀のインドの僧で、真言密教の祖師とも浄土真宗の祖師とも言われる天才仏教僧は、『華厳経』の中で、十の仏の名を唱えることで高い境地に至ると書いているが、特に、阿弥陀如来について詳しく取り上げ、その名を唱えるよう勧めている。
阿弥陀如来は、インドの言葉でアミターバ、あるいは、アミタ―ユスであり、もちろん、この通りに唱えても良いが、現代から見れば、かなり以前から、「南無阿弥陀仏」の念仏や、真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」と唱えられてきたので、これらの言葉も、確として超意識界に高いエネルギー体として存在するので、これらの言葉を心で唱えれば、良い効果があるに決まっている。
ただし、丁寧に、静かに、ゆっくりと、心で唱えるべきである。
でなければ、超意識の中の波動の高いこれらの言葉と共鳴し難い。
しかし、これらの言葉を、心で、静かに、ゆっくり、丁寧に唱えれば、確実に共鳴するだろう。
すると、実際の話として、世界は意のままなのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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