ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2021年04月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

エリートのコツと古代叡智のコツ

エリートの家庭では、どうすれば、子供が学校の勉強が良く出来るようになるかが知られている。
それは1つのコツであるが、コツというものは、楽に目的を達成するためのものである。
簡単なことであるのに、庶民はそれを知らない。
それで、庶民は、勉強が良く出来る子は、元々頭が良いのだと思ってしまうのである。
頭の良し悪しもあるかもしれないが、頭が良くても、庶民の子供はあまり勉強が出来ないものだ。親が、勉強のコツを知らないからね。

学校の勉強に限らないが、学校の勉強レベルのことであれば、出来るようになるコツは「自信を持たせる」ことだ。
そして、自信を持たせるにはどうすれば良いかというと、優越感を持たせれば良い。
そのためには、何かで、他の子供より優位に立たせれば良い。
だから、子供が幼い時から、お稽古事をやらせるのである。
例えば、他の子供が弾けないピアノが弾ければ優越感を持てるし、スポーツ教室に通えば、他の子供より速く走れるようになり、それが子供に優越感を持たせる。
だが、今のエリート家庭で常套手段化しているのは、学校の勉強を先に塾でやらせておくことだ。
すでに塾でやっているので、その子供にとって、学校の勉強は簡単で、先生には褒められ、他の子供達が間違うのに自分は間違わないことで味わう優越感は快感である。それで、「勉強なんて僕には簡単。僕は出来て当たり前」という自信を持てれば、もう勝ったも同然である。

ただし、庶民がその真似をしても、うまくいかないことが多い。
庶民は、とにかく、お稽古事をやらせれば良いと考えるが、そんなに甘くない。
あくまで、その子に合ったものを選び、しかも、楽しくやれるようにしてやらないといけない。
庶民の子供達は、往々にして、お稽古事で落ちこぼれて、かえって自信を失うのである。
また、馬鹿みたいに沢山のお稽古事をやらせるのは、ちょっと金回りの良い庶民と相場が決まっている。
エリートの場合は、沢山やらせるとしても、その子の適正に配慮するし、お金をかけて、どれも楽しく出来るよう調整する。
エリートは、自信を失わせることの恐さを知っているのである。
そして、名門のエリートになると、自信を持ちすぎて傲慢になったり、人付き合いが下手でストレスを抱えることがないような指導をする。
現代社会の仕組みの中では、庶民はエリートに全く敵わない。
そんなエリートの典型が小泉進次郎だろう。どんな馬鹿を言っても自信があるので、なんだかんだで支持を得てしまうのである。

そんな訳で、学校では、庶民の子供はエリートの子供に敵わないし、現代社会では、庶民はエリートに敵わない。
親の差である。
そこで、子供時代は勝ち目がなかったが、庶民は、大人になれば、エリートが知らないコツを持たないといけないし、持ちさえすれば良い。
大人になれば、現代社会というのは、能力の差は無いと言って差し付けない。
だから、いい歳になっても、学歴がモノを言ったりするのである。
それはそれで良いので、庶民の親に育てられた者は、秘法的なコツを知らなければならない。
2つあって、高度な方は、「頭の中のおしゃべりを止める」方法である。
思考を止めることと言って良いが、「思考を止める」というと、悪いことのように思う者が多い。
だが、馬鹿というものは、「考えていない」のではなく「ロクでもないことを考え続けている」のである。
それと、これは最新科学になるが、実際、そこそこのエリートであっても、頭は勝手にいろんなことを考え、それが、かなりのエネルギーを使っていることが分かっている。
それを止めるのが、今、エリートの間でも流行っている「マインドフルネス」である。
こちらは、それなりに勉強しないと分からないので、ここでは述べない。

で、難しい方は、とりあえずパスし、簡単な方で行こう(笑)。
それは「単語法」である。
簡単なようで、案外に古代から伝わる秘法に近いのである。
非常に簡単で、「成功」とか「勝利」という単語を唱えるだけである。
ただし、唱え方を間違えると、やはり、逆効果である。
心の中で、「静かに、ゆっくり、丁寧」に、「成功」とか「勝利」といった1つの言葉を唱えるのである。
「富」とか「富裕」などという言葉を使う場合もあるが、好きと思える言葉でなければならない。
単語法を少しやっておくと、度々ご紹介した「神様の奇跡が起こる」という言葉も使い易くなる。
それで、現代社会でうまくやっていける。
そして、次に来る世界でも、このやり方はマイナスにならない。
ただ、全面的な勝利にもならない。
というのは、次の世界では、価値観がゴロっと変わり、勝利というものは、それほど好ましいものではなくなるからだ。
新しい世界では、「愛」とか「平和」といった言葉を使った方が良いだろう。
そこでは、エリートのコツは完全に前時代的なものになるだろう。








神の視点とは

リチャード・バックの小説『かもめのジョナサン』は、絶賛する人もいれば、全く価値を認めない人もいる。
ところで、『かもめのジョナサン』と、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』から、似た視点を感じるには、まさに、この2作品の著者が共に飛行機乗りで、「高空の視点」を持っているからのように思える。

私は、『かもめのジョナサン』は、かなり前に一度読んだだけなのだが、最も印象深く憶えている言葉は、
「最も高く飛ぶかもめが、最も遠くを見通す」
だ。
全くその通りだと思ったのだ。
それは、物理的な高さを指すだけでなく、むしろ、精神的な高さのことだ。
では、精神的な高さとは何かというと、「神との近さ」だ。
1953年の傑作SF映画『宇宙戦争』で、火星人の飛行船に向かって歩きながら、コリンズ牧師は言う。
「我々より進んでいるなら、より神に近いはずだ」
精神的に進んでいるなら、その通りだ。
しかし、テクノロジーの進歩が、必ずしも精神的進歩を示すとは限らない。
コリンズ牧師は、火星人の飛行船のエネルギー光線を受け、消滅してしまう。
(私は、2005年の映画『宇宙戦争』は、悪くはないが、1953年の作品の方がはるかに優れていると思う)

では、高い、あるいは、より神に近い精神を持つ心は何を願うのだろうか?
他のかもめ達より高く飛んだジョナサンは、何を求めていたのだろう?
確かに、ジョナサンは、「かもめの可能性」を探求していたが、その結果、もたらされるものは、「皆が仲良くあること」だ。
なぜなら、皆が本当に高ければ、争う必要などないからだ。
この仲良くは、慣れ合いを指す「グループ内での仲良く」とはまるで違い、むしろ、正反対だ。
「グループ内での仲良し」は、グループ外の者や他グループを攻撃し、排除する。
グループという概念のない仲良し・・・それが「皆が仲良く」だ。
尚、より高い力を発揮するために協力する「チーム」はグループとは全く違うものである。

漫画・アニメ作品『まちカドまぞく』で、ポンコツ魔族(女子高生としてもポンコツ)のシャミ子(優子)に、超強力な魔法少女(女子高生としても優秀)な桃が逆らえないのは、シャミ子の願いが「皆が仲良くなりますように」だからだ。
小説・アニメ・漫画作品『灼眼のシャナ』で、ごく平凡な男子高校生、坂井佑二に、異世界の創造神「祭礼の蛇」がすっかり惚れ込んで一体化したのもまた、この2人(坂井佑二と祭礼の蛇)の願いが、紅世の輩、フレイムヘイズ、人間の区別なく、皆が仲良くなる世界を望んでいたからである(と思う)。
つまり、神の視点に立てば、その願いは「皆が(誰も例外なく)仲良く」である・・・と言って、そう間違えてはいないと思う。
「皆が仲良く」と思い、それを目指すなら、即ち、自分が神である。
そのような者に不可能などあり得ない。
今後の世界は、それを示す世の中になると思う。
「この人を愛す、でも、あの人は嫌い」は、責めはしないが、人の視点であり、その傾向が強いほど、無力と苦難を味わうしかないだろう。








落ちこぼれの方が良いかもしれない

今、落ちこぼれている人間、あるいは、元々駄目な人間の方が良いかもしれないという話をする。
なぜ、そう言えるかというと、世の中の仕組みや価値観が「ゴロっと」変わってしまうからだ。
今の世の中で、優秀とか、立派とか、偉いと言われるための基準が、本当になくなってしまうのである。
例えば、今の世の中では、一流と言われる大学を出ていることには価値があり、それに該当する者は優遇される。
しかし、もうすぐ、「〇〇大卒?それが何?」と言われる時代になる。
これからの優秀の基準は、もっとまともな、当たり前な、自然なものになる。
もちろん、一流大学卒業者でも、本当の意味で優秀であれば、これからもうまくやっていけるだろうが、〇〇大卒であること自体には特別な意味はなくなる。
「いや、なんだかんだ言っても、一流大学卒業者はやはり優秀だ」
と言う者もいると思う。
そりゃあ、そんな部分も確かにある。
しかし、これまでなら、それで60ポイントが得られていたのが、せいぜい0.3ポイントしか得られないことになるかもしれないし、しかも、一流大学卒によるマイナス面により、マイナス20ポイントになってしまうかもしれない。
まあ、実際は、これからの世の中では、「ポイント」だの「ランキング」だのという言葉は、あまり聞かなくなると思う。

ある民族では、首が長いことが美人であるという共通の観念があり、その民族では、女の子は生まれた時から、首にリングを付け、時と共に、そのリングを増やして首を長くするそうだ。
それがうまくいった女の子は、首が異様に長くなるが、その民族では、皆が、「首が長い女性が美人」という洗脳がされているので、外部から見れば不気味でしかない首の長い女性が、「本当に美人に見えている」のである。
ところが、ある時、何かが起こって、その民族の、「首が長い女性が美人」という洗脳が解けてしまったら、これまで、「素晴らしい美女」と言われ、もてはやされてきた首が物凄く長い女性が、惨めな「不気味な女」になってしまうのだ。
これを、我々に当てはめると、「一流大学卒」「家柄が高貴」「大企業の社員」「高級官僚」「金持ち」「ある種のマナーに通じている」「高身長」「若い」といった、これまでは美点とされてきたことが、「首が長い」というのと同じ価値とみなされるかもしれない。
もちろん、家柄が良いことで蔑まれることはないが、家柄を鼻にかけ、他人を見下すなら蔑まれることになるかもしれない。
そもそも、今後も、名家ということに、ある種の価値は認められても、それが権力や財力に結び付くことがなくなるので、馬鹿でない限り、その家の者が他者を見下すことはないはずだが、そうではない、従来の価値観にしがみつく者も、当面は多いかもしれない。
ただ、そんな古い人間が迫害されることもなく、皆が、「普通に温かく」接してくれるので、いつかは、そんな歪んだ人間も正しい認識を持つに至る。

今後は、温かく広い心を持ち、親切で、真の意味で高貴で有能な人間がリーダーになる。
今後の世界で必要とされる能力を持った者が、その力を発揮し、自分を幸せにしつつ、皆を益することになるだろう。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』ように、「自分を勘定に入れない」ことは、現在においては美徳と思われるかもしれないが、新しい自分の優秀な人は自分を特別視しないので、自分も他者同様という意味で勘定に入れるのである。

これまでの価値観では優れているとは見なされていない、いわば、落ちこぼれの方が、早く新しい時代に馴染むかもしれない。
新しい時代での価値は、今は考えられないような方法で得られるもので、ある意味では、誰でも簡単に手に入れられるのである。

ところで、上に挙げた「首が長いほど美人」とされる民族は、本当にあったことである(現在もあるかどうかは私は知らないが)。
今でも、「個人の趣味だからほっとけ」と言われたら確かにそうだが、「女性は太っていればいるほど美人」と感じる人が実際にいる。
その人には、体重が100kgより150kgの女性の方が美人だと感じるのである。
これも、敢えて言えば洗脳なのかもしれない。
それで言えば、ナボコフの小説『ロリータ』で、主人公のハンバートが語る「ニンフェット」と呼ぶに相応しい美少女というのも、「首が長い女」「太った女」と同レベルの価値であり、今も、ロリコンと言われる人の女性に関する美の価値観も、ただの洗脳かもしれないのである。
男の場合だけでなく、韓国のスター達に熱狂する女性の、「素晴らしい男性」の基準も、後の世の人には、せいぜいが「一輪車を趣味とする男性が異常に称賛された不思議な現象」というのと同じ程度のものかもしれないのである。








ソフトタッチこそが極意

人間、力むとロクなことがない。
潜在意識による成功法則の世界的権威であるジョセフ・マーフィーは、代表的な著書『眠りながら成功する』で、願いがいかに強く熱意があっても、その願い方はどこかソフトタッチでなければならないと書いていたが、これは本当に重要なことと思う。
力むとは、自我(顕在意識と言って良いと思う)が優勢になっている状態であり、それだと、願いが万能の潜在意識に届かない。

スポーツでも、ダンスでも、講演でも、武道でも、力んで緊張していると実力が発揮出来ない。
本当に優れた者は、力が抜け、リラックスしているものである。

発明家の政木和三博士は、50歳を過ぎてから始めたゴルフも達人で、関西シニア選手権で優勝し、ゴルファーの夢であるエージシュート(年齢以下のスコアを出す)を2度達成している。
政木博士が言うゴルフの極意とは、インパクトの瞬間、力を抜くことであった。
最小の力でボールを叩くのである。
私はゴルフは全然知らないので表現が適切でないかもしれないが、政木博士はドライバーで370ヤードを飛ばしたことがあり(男子プロでも難しい)、300ヤードはいつでも飛ばせたと言う。

合気道の達人、塩田剛三が、こんな興味深いことを言っていたらしい。
「合気道では打撃の練習はしないが、打撃でも、ボクシングや空手より強い」
これは、ビックリ仰天発言だろう。
だが、塩田剛三の師である植芝盛平は、「拳聖」と言われた名ボクサー、ピストン堀口とスパーリングした際、堀口のパンチを掴み取ることが出来たそうだ。
塩田剛三も、ボクシング経験のある米兵とストリートファイト(早い話が喧嘩)し、楽勝したと言う。
塩田剛三が言う打撃のコツは、
「手は軽く握る。力を入れず、ぽんぽんと当てるように打つ」
だったと思う。
ここでもやはり、ソフトタッチが一番強いことをうかがわせる。

私が最近注目している言霊研究家、大野靖志氏の著書で、穢れを祓えば自分で決めたことが叶うが、その時も、軽く決めよと書かれていた。
やはり、「絶対叶えてやる」と力むと叶い難いのだと思う。
大野氏が製作した特殊なお祓いのCDや、それから作った音源をオーディオ機器やパソコンやスマホで流しながら、願いを「〇〇になった」と過去完了形で口で言うか心で思う、あるいは、紙に書いてそのパソコンの上にでも乗せておけば良いが、やはり、力まずに言ったり思ったりすることが大切で、紙に書いても、保存しておく必要はないと言う。

ソフトタッチ(あるいはフェザータッチ)こそ、究極の極意であることを、よくよく忘れてはならないと思う。








駄目人間のために秘法がある

イエス・キリストは、とても興味深いことを言っている。
それは、イエスが、「私は罪人のために来た」と言ったことだ。
医者は病人のためにいるのであり、健康な人が医者を必要としないように、イエスは罪人のために来たのであって、立派な人のために来たのではないということだ。
ウルトラマンだって、怪獣や悪い宇宙人がいるから来るのであり、現実には必要がないという訳だ。
『サンドリヨン(シンデレラ)』に登場する魔女だって、サンドリヨンのような可愛そうな子がいるから出てくるのであり、もし、皆が仲良く楽しく過ごしていたなら、魔女に出番はない。

念仏は、悪人が救われるためのもので、立派な人間には必要がない。
だが、念仏を必要としないような立派な人など、いないのではないか?
法然は常に念仏を唱えていたが、法然ほど立派な人はそうはいないとい思われる。
しかし、法然は、自分も念仏を必要とするグループ(悪人の集団の中の1人)だと言っていた。
イエスは罪人のために来たが、キリスト教では、罪人でない人間はいないという考え方らしい。
なんと言っても、人間は、アダムとイブの罪である原罪というものを背負っているらしく、やっぱり、皆、罪人なのだ。

そして、日本の神道に伝わる「祓詞(はらえことば。はらえのことば)」というものがあるのも、人間に穢れがあるから、それを祓うためにあるのだと思う。
人間は本来、神の子孫で、神そのものであるが、穢れのために神とは程遠いものになっているというのである。
しかし、穢れを祓えば本体は神なのだ。これは、宗教の問題と言うよりは科学の問題かもしれない。

罪人はイエスがいなければ救われないし、悪人は念仏がなければ地獄に行くしかない。
ウルトラマンがいなければ、地球は怪獣の星になるか、宇宙人に侵略される。
魔女がいなければ、シンデレラは惨めな少女時代のために生きる力を失いかねず、仙女がいなければ、眠れる森の美女は永遠に眠ることになった。
これらのうち、フィクションだって、何らかの現実を表すノンフィクションだ。
そして、人間に穢れがあるということはノンフィクションであり、「祓詞」の力もノンフィクションである。

本来、人間はきちんとした生活をし、善いことをして悪いことをしなければ、皆が幸福になれるのだが、どうしても、きちんとした生活が出来ない者、悪いことをする者、善いことが出来ない者が沢山いる。
そのために、警察がいたり、法律が作られたり、学校があるはずだし、病人のために医療があるはずである。
だが、医療が病人を作り、学校が駄目人間や悪人を作り、法律が悪人の道具になり、警察などの国家権力が巨悪の道具になっているかもしれない。
全て、穢れのためであれば、人間の力では、もうどうしようもない。
なぜなら、穢れとは、観念であるかもしれいないが、観念こそが本当に力があるエネルギーであり、歪んだエネルギーが穢れなのである。
これは、信仰や宗教と言うよりは科学である。
よって、証明は難しいが、やはり科学であると感じる祓詞は、この穢れ・・・つまり、歪んだエネルギーを祓う、つまり、矯正するものであるなら、それに頼った方が良い。
実際、素粒子レベルのエネルギーの歪みが、癌などの病気や、さらには、悪運の原因であることが、かなりのところまで分かってきている。もちろん、そんなことは全く信じないという人や権威も多いのであるが、一頃のように、信じないのが圧倒的主流とまでは言えなくなってきた。
それほど、人類の状況は深刻であるからだ。

一例であるが、例えば、足立育郎氏のロングセラー『波動の法則』で、この世の姿を1つの科学として知り、祓詞を使って穢れを祓う・・・つまり、歪んだエネルギーを矯正することをお薦めする。
『波動の法則』を読むだけでも、かなり矯正される(この本では振動数を上げるとしているが、それが歪んだエネルギーの矯正を助ける)。
ただし、理解しなくても、祓うだけで効果がある。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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