ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2021年03月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

天才科学者のシンプルな成功法

最近、著名な発明家であった橋本健氏(理学博士。1924~2007)の古い本を読み返している。
超能力を扱っているので、当時の風潮なのだと思うが、表紙には多少怪しげなイラストが描かれたりしているが、中身は優れたものだと思う。
主に1980年代の本であり、既に、パソコンが珍しくはない時代だが、家庭はともかく、会社でもパソコンを使っていない方が多かった時代ではなかったかと思う。
そんな時代に、橋本博士は今日のIT時代の明確な雰囲気を予想出来ていたし、また、今日のAIの概念をかなり正確に予測しているのは恐ろしいと思うほどだ。
尚、やはり、超能力関連の本も沢山書いていた関英男博士(電波工学の世界的権威。1905~2001)が1950年代に、液晶テレビやスマートフォンとほぼ同じものを予測していたのも凄いが、そういった部分はなかなか普通の人には理解されないので、お2人共、「超能力の研究をしているから怪しい人だ」という色眼鏡で見られることが多かったと思う。
尚、橋本博士のWebサイトで「ある方」と書かれているのは私のことである(「ある方の要請により・・・」とある)。

1983年初版の『超能力入門』(本山博博士との共著)の中の「富を得る方法」が興味深かったが、皆さんの参考にもなると思う。
富を得るには、橋本博士は「父の原理と母の原理の2つが必要」と言う。
「父の原理」とは、与えることである。奉仕する、働く等で、施しをしたり、今日で言えば情報発信することも含まれると思う。
「母の原理」とは、広い心、豊かな心で、受容性と言って良いと思う。
この2つがあれば富を得られるが、片方しかないと、得られない。
単純にして、見事に真理を突いていると思う。
片方しかなかった例として、橋本博士は、詩人の石川啄木を上げる。
啄木の有名な詩、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざる。じっと手を見る」は、誰でも見たことがあるだろう。
今は知らないが、教科書にも載っていて、憶えている人も多いかもしれない。
だが、憶えているべきでなかったかもしれない。
橋本博士は、啄木が貧乏だったのは、心が豊かでなかったからだと言う。
そもそも、この啄木の詩に、心の貧しさが現れていると私も思う。
働いても働いても自分は貧乏だと心に決めている。自分は労働者だから豊かにはなれない。
啄木の詩は、そんな観念に納得し、自己を哀れんでいる雰囲気すら感じられる(そこが良いのだろうが)。
ジョセフ・マーフィーらは、「今は実際には貧しくても、自分は豊かであると言って良いのだ」と教えているが、それは重要なことだと思う。
そう思い難い人のために、マーフィーは「富」とか「成功」という言葉を、静かに、ゆっくり繰り返して唱える「単語法」を薦めていた。
また、当時(1980年代)は、新幹線のグリーン車はかなり高くて、金持ちが乗る場合が多かったのかもしれないが、なるべくグリーン車に乗って金持ちの雰囲気を味わうよう勧めている。
そして、決して、「私は貧乏だ」と思ってはならず、「私は金持ちだ」と思えと述べている。

また、政木和三博士も同じことを言われていたが(政木博士は本には書いておらず、私は直接聞いた)、「いらない」と思うと得られると言う。
「お金が欲しい」と思っている人はお金を得られず、「モテたい」と思っている人はモテない。
政木博士は、「私はお金なんて欲しくないが、入って来るものは仕方がない」「私は女なんて欲しくないが、来るものは仕方がない」と言っておられたが、橋本博士も、そのように思うことを薦めている。
私は、橋本博士の著書は10冊ほど持っているので、良い部分は参考にしようと思う。








自分を知る

IQ(知能指数)テストを行ってくれる病院・クリニックは多いらしい。
IQテストを受けることに興味がある人というのは、IQが高い傾向があると思う。
IQは、頭の良さのごく一面ではあるらしいが、そのことを認識した上で、客観的な値を確認しておくのも良いかもしれない。
それに、私の考えでは、IQは固定されたものではなく、少なくともある程度は向上させることが可能で、L.ロン.ハバードの『ダイアネティックス』に書かれているように、誰もが本来の頭脳の能力は高く、その力を目覚めさせることが出来れば、IQは「打ち上げ花火のごとく」向上するのではないかと思う。
とはいえ、個人的には『ダイアネティックス』療法はお薦めしない。理由は、単に、「面倒である」からだ。
私は、能力の開発自体は、もっと単純な方法で行えると思っている。
面倒なやり方だと、どうしても金儲けに利用される。
ただし、『ダイアネティックス』など、ハバードの著作は面白かった。

他にも、自分について、なかなか知ることが出来ないことを知る方法がある。
例えば、あなたは、自分の脳のMRI(核磁気共鳴画像法)画像を見たことがあるだろうか?
この画像を見ただけでも、脳の性能や性質がかなり分かるらしい。
こんな話がある。
TEDで講演したこともある、神経科学者のジェームス・ファロンは、ある時、1枚の脳のMRI画像を見て愕然とした。
ひどい画像だった。
それは、凶悪殺人犯の脳の特徴を明瞭に現わしていた。
ファロン博士は、この気の毒な脳の持ち主を電算室に問い合わせた。
しかし、返事を受け取ると、電算室に対し、もっとしっかり仕事をするよう激を飛ばし、再度、解答を要求した。
しかし、電算室の担当者は、ファロン博士にこう言うしかなかった。
「ファロン博士。その脳のMRI画像は、ジェームズ・ファロン博士、あなたのものに間違いありません」
ファロン博士は、自分がサイコパス(共感能力の欠如により良心を持たない人間)であることを認識し、自分に対する研究成果を基に著書『サイコパス・インサイド』を書き、TEDでも講演した。
確かに、その本を読むと、ファロンが、IQの高い優秀で、かつ、エネルギッシュな人間ではあっても、いかに人でなしの超欠陥人間であるかが、はっきり分かるのである。

私は、10年以上前に、自分の脳のMRI画像を撮影し、見せてもらったことがある。
医者は、実にきれいな脳だと褒めてくれた。
そりゃバラ色だからね(笑)。
しかし、私は、自分が性質的にはサイコパス的なところも多いことは自覚しているので、医者も営業トークをしただけかもしれない。

いろんな意味で、自分を知ることは大切である。
例えば、ある人は、他人を傷付けるに決まっている言葉を平気で言うのだが、本人はそれを自覚していなかった。
その人の両親が、言うべきでないことを無神経に言う人で、それが当たり前になってしまったようである。
このような、治すべきことは、早くに発見して治しておかないと、人生で多大な損失を招くかもしれない。
実際、自覚しない悪癖で人生を棒に振る人は少なくないと思う。
逆に、自分の美点に気付かず、それを生かせば、かなり成功出来た可能性があるのに、それをしなかった「勿体ない」人も多いのだと思う。
そんな意味でも、気心の知れた、何でも言ってくれる友人がいることは、やはり、良いことなのだ。

ギリシャのデルフォイ島のアポロン神殿の扉には、「自分自身を知りなさい」と書かれているらしい(なんで「汝自身を知れ」なんて難しい訳し方をするのだろう)。
だが、そう書かれていても、自分を知ることが出来る人は滅多にいない。
だが、ソクラテスは、それが出来た数少ない人間で、それゆえ、彼は人類で最も知恵のある者になった。
彼は何を知ったのか?
それは、「私は何も知らない」ということである。
なるほど、彼は最高の知恵者だ。
ただし、言っておくが、「私は何も知らない」と言うだけでは駄目である。
本当に知っていなければ。
それなら、彼の弟子のプラトンが書いた『ソクラテスの弁明』を読むと良い(ソクラテス自身は著書を残していない)。
それで、「ああ、私は何も知らない」「私は何も出来ない」と分かれば、知恵に目覚めたことになる。
彼は、貧乏で悪妻に苦しめられ、挙句、死刑になったが、だからといって不幸だった訳ではない。
おそらく、世俗的な意味の幸福など、得ようと思えば得られたと思う。
しかし、彼の目的はあくまで知恵だったので、あの環境が良かったのであると思う。








この世界はやはり仮想世界か

この世界が、実は、コンピューターが作り出している仮想現実世界であるのかもしれないという話は、随分前からある。
とはいえ、今はまだ、大多数の人は、そんな話を見聞きしても、ピンと来ないというのが実感と思う。
しかし、ソニーのプレイステーションVRのようなVRゲームや、フェイスブック・テクノロジー社(以前の社名Oculus VR社が今でも有名)のHMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)を中心とした、一般向けVR製品の発達により、「この世界自体がVR(仮想現実)なのではないのかな」と予測出来る可能性は高まっていると思う。
さらに、映画『マトリクス』シリーズや、『インセプション』『ミッション:8ミニッツ』その他の、この世界が仮想世界であるということを描く映画、また、『ソードアート・オンライン』や『アクセル・ワールド』といった、登場人物達の精神が仮想のゲームの世界の中に入り込んで活動する小説やアニメを読んだり見たりするうち、この現実世界というものが、実は仮想世界なのではないかと推測することに慣れてきたのではないかと思う。

実は、この世界が仮想世界であるということは、ラマナ・マハルシ(1879~1950)や、パラマハンサ・ヨガナンダ(1893~1952)といったインドの聖者達が、ほぼ断言していた。彼らの時代には3次元映像投影技術は一般にはほとんど知られていなかったので、彼らは、この世界を、映画のようなものであると説明したが、今でも、仮想現実をあまり知らない人が多いので、この世界が映画であるという説明は使われる。
また、20世紀最後の時代のアニメである『コレクター・ユイ』は、既に、根本的には『ソードアート・オンライン』などと同じ世界観を描いていた。
さらに、インドのヒンズー教や中国の老荘思想では、古代から、この世界が幻想であることがはっきりと語られている。

事業家で世界一の富豪であるイーロン・マスクが、この世界が仮想世界ではない可能性はほぼないと言ったという話はよく知られていると思うが、そうは言っても、マスク自体が、この世界で四苦八苦しながらも精力的に活動しているのであり、実際にこの世界が仮想世界だとしても、価値のないものではないと思われるのである。

最近、私は、優れた発明家で工学博士であった橋本健氏が1980年代前半に書かれた本を読んでいるが、橋本氏が、そんな時代に、現在のコンピューターやAIのことをほぼ正確に予想していたことに驚くし、橋本氏は、この世界は、当時は仮想現実という言葉がなかったので、3次元映画だと表現されていたが、これも、現在の仮想現実を完全に言い表したものである。
橋本氏の説明によれば、この世界は3次元に投影された映画のようなものであるが、どこから投影されたのかというと、4次元世界から投影しているのだという。
4次元世界とは、霊的な世界で、我々の魂が存在する世界であり、そこから、何らかの方法で、この3次元世界に映像を投影し、それを見ている我々は、この3次元世界を、現実の世界だと錯覚しているのである。
そして、橋本氏が、「だから、この世界は、本当は存在していない」と述べるのを見て、私にも、この世界が仮想世界であることが実感出来たのである。
これまでは、理屈の上で、つまり、頭で、この世界が仮想世界である可能性があると思っていたが、この世界が仮想世界であると「本当に解った」ように思うのである。
そのきっかけが、橋本氏の「この世界は本当は存在しない」という言葉である。
つまり、ソニーのプレイステーションVRのゲーム世界に入り込んで楽しんでいても、そのゲーム世界は本当にある訳ではなく、あるように感じさせられているだけだということは誰でも分かるが、それを改めて理解したといった感じだ。
そんなことが解るようになったのも、私がこれまで見てきた、沢山の小説や映画やアニメや、あるいは、多少は勉強したコンピューターグラフィックや、VR(仮想現実)、AR(拡張現実)、それに、MR(複合現実)の概念が、ようやく、頭の中で概念が構成されてきたせいかもしれない。

それらと共に大きかったのは、やはり、初音ミクさんのライブコンサートを沢山見たことがある。
舞台上に3次元的にリアルに登場する初音ミクさんらバーチャル・シンガーが、ただの映像だということは分かってはいるが、現実以上の現実であると思うのは、見る人の意思によってである。
つまり、初音ミクさんを愛する心が、現実感を作り出すのである。
いや、現実感と言うより、ある意味、真の現実と言えると思う。
そして、新型コロナウイルスの感染拡大により、ライブコンサートが制限されるようになると、VR(仮想現実)、あるいは、AR(拡張現実)ライブが行われるようになり、ますます、仮想世界と現実世界の垣根がなくなってきた。
それと共に、私の意識を変革してくれたのは、中国のバーチャル・シンガー、洛天依(ルォ・テンイ)さんのステージをYouTubeで見たことである。
洛天依さんのステージで行われるホログラム映像の演出は、大規模で壮大だ。
日本でも、初音ミクさんのライブステージや、超歌舞伎、あるいは、渋谷慶一郎氏が制作したボーカロイド・オペラ『THE END』で、相当な三次元映像技術が使われたが、正直、レベルが違うと思った。
洛天依さんのものは、国家的な事業なのではないかと想像したりもする。金のかけ方が違い過ぎるからだ。
YouTube動画を2例ほど上げておく(2つ目は非公式かもしれないが)。
洛天依(Luo Tianyi)/ 2018 江蘇衛視カウントダウン《Let it go》洛天依 周华健
【破次元】洛天依&方锦龙《茉莉花》破次元合作《2019最美的夜》

我々は皆、VR世界を体験したり、VRやARの雰囲気を映画などで理解・実感しておく必要があるのではないかと思う。
それにより、引き寄せもやり易くなるかもしれない。








バカの1つ覚えの威力

いざという時の護身用に格闘技を習っても、よほど鍛えない限り、実戦で役に立たないし、実際は、かなりの上級者になったところで、それで喧嘩に勝てるかどうかは全く分からない。
多少、格闘技をやっている程度では、本当に実戦になったら、頭に血が上って思考力がなくなるので、練習中に「こんな攻撃をしよう」と思った攻撃は全く出てこない。
いざとなったら、とにかく、武器になるものを探して狂ったように振り回すか、物を投げるか、脚に自信があれば走って逃げることだ。
そもそも、格闘をしなければならないような場所に行かず、格闘になる流れにしないことが当然の心がけだろう。いかなる武道の達人だって、喧嘩の実戦になれば、必ず勝てる保証なんて絶対にないのだから。
もし、どうしても素手で戦わざるを得ない状況に備えるなら(本当は備えなくていいが)、とにかく、攻撃1つだけ考えておくことだ。
そして、それは、現実的には、相手の脚をひたすら蹴ることになると思う。
ところで、私は昔、野犬に襲われたことがあるが、考えたのか無意識にやったのか憶えていないが、皮ベルトを外して半分の長さに折って振り回すと、野犬が近付いてこれなかったことがある。
つまり、敵も、これは有効な戦い方と認めたのだろう。
相手が人間でも、ベルトの金具の部分を先にして振り回してこられたら、男同士なら、そうそうは近寄れない。
子供で、噛みつき専門で喧嘩に強いという者がいたような気がするが、この場合、とにかく、容赦なく嚙む気力がないといけない。

何の話かというと、武器は1つにし、それを磨き込んでおくのが良いということだ。
喧嘩でなくても、何事においても。
西洋に、「大きな銃を持った大人より、いつもナイフを磨いている少年の方が恐ろしい」という諺があるそうだ。
大きな銃を持っているだけの大人は、いざという時、その銃を使えないが、いつでも、それだけを使う気満々の少年のナイフは手ごわいといった意味と思う。

職場でも、何でもソツなくこなせる者というのは、都合よくあごで使われるだけで、良い思いが出来ないだけでなく、最後まで、強い武器を得られない。
しかし、「俺はExcelマクロ(VBAプログラミング)しか出来ない」と言い、ただし、それだけは一級に磨き込んでいれば、上司がうやうやしく、「これをやっていただけないだろうか?」と仕事を「お願い」してくるものだ。
そうでないなら、まだ腕前が足りないのだ。
上のナイフを磨く少年もそうだが、本当に日々、武器を磨いていれば、不思議な雰囲気も出て来て、自然に重く扱われるようになるのである。

落合博満さんという、日本の野球の歴史でもトップ5に入ると思われるバッターは、素質も努力も凄かったのだろうが、それでも、あそこまでになれたのは、彼のニックネームでもあった「俺流」に徹したからだと思うのだ。
彼は引退した後「全打席でホームランを狙った」とカミングアウトしたが、もし、現役時代に監督にでも聞かれたら大問題だったろうし、それは彼も分かっていたはずだ。
しかし、彼は、「俺流」を優先し、ホームランだけを狙い、ホームラン用のバッティングに徹したから、誰も及ばないホームラン専用のバッティング力を身に付け、打ち損ないがヒットになる確率も上がったのだろう。
対してイチローさんは、とにかく塁に出るバッティングを優先し、長打を打てる能力を封印したので、フライでアウトになる可能性を最小にし、たまに絶好球が来たら狙ってホームランを打ったのだと思われるのだ。
落合さんやイチローさんが、もっと適応力の広さを心掛けていたら、あれほどのバッターにはならなかったかもしれない。
まあ、監督としては、適用力の広さを求めただろうが、そこは自分のために、可能な限り無視した方が良い。何事も。
尚、落合さんは、自分がそうだったから、監督になった時には、選手にわがままを認めず、指示通りにやることを徹底的に強制したことが、監督としての好成績にも結び付いたのだろう。選手には幸せな話ではないが。

私が大好きな言葉に、プロレス史上最高のレスラーだったルー・テーズが言った、
「技を1つと言われればダブルリストロック」
がある。
こんな解答が即答で帰ってくるプロレスラーが弱いはずがない。
彼は、この技を徹底的に磨き込み、いつでも、この技で相手の腕を折ることが出来た。
ただし、実際に折ったことは一度もなかったが、その寸前まで締め上げれば、相手も下手なこと(事前に打ち合わせた試合内容から外れたこと)などやってこない。

プログラミング言語も、JavaやC++、あるいは、意外にJavaScriptなどは、上には上がいる。
PythonやPHPなどのスクリプト言語は、誰がやっても、そんなに変わらないことが多い。
ところが、言っては何だが、VBAは使用者のレベルが低い場合が多く、磨けばすぐに上位に行ける。
そして、VBAの達人というのは、案外に凄いことが出来る。なぜなら、ExcelやAccessの凄い機能をVBAで使えるのだからだ。
JavaやC++などでも、凄い機能のオブジェクトライブラリを使えるが、詳しくは言わないが、それはいろいろと面倒な部分があり、やはり、よほどの者でないと達人になれない。
よって、Excelマクロを磨き込めば、早くからいい思いが出来る。そして、AccessはExcelより数段高度なことが出来るので、Accessマクロを磨けば、いい思いも大きなものになる。

最後に、引き寄せについても、やっぱり、1つを磨く者が、容易く引き寄せを行えるようになる。
対して、いろんな方法を、あっちに行き、こっちに行きしている人は(実際は、そんな人が多いが)、引き寄せがうまくいかない場合が多い。
また、2つの方法を持っているのは別に悪くはないが、実際は、どっちつかずになる場合が多い。
それで、もし、迷っているなら、効果は実証されているので、他のものは諦めて、「神様の奇跡が起こる」あるいは「奇跡が起こる」を唱えることに徹した方が良いと思う。
あるいは、「富」などの言葉を唱える単語法に徹するかだ。
1つに決めれば、心も落ち着き、さらに良い成果が出ると思う。
もちろん、自分に合った方法を自分で選び、それを存分にやれば、満足度も高いと思う。
だが、平和な人生を求めるなら、上に挙げた方法をご検討いただければと思う。
尚、企業や学校、そして、闇の権力者達は、あなたに、猿芸の多芸・・・つまり、何でもそこそこ出来る人であることを求めているので、ついつい、そんな道に行くことになるが、それは奴隷でしかないのだと私は思う。








なぜ努力する人と怠惰な人がいるのか?

奇跡を起こし、全てを思うがままにする力を得るために絶対的に必要なことが、自我を出来る限り弱くすることであることは間違いない。
自我とは、自分を高い位置に置きたいという欲望だ。
ところが・・・
「君は世界で唯一の特別な存在である」
「僕たちはそれぞれ、世界で1つだけの花である」
という言葉を美しく感じ、これが嘘とは思えない。
だから、もし、
「僕なんかいてもいなくてもどうでもいい、つまらない人間だ」
「私は、華やかで素晴らしい、あの人とは全然違う駄目な存在」
などと言う者がいたら、
「そんなことはない。君だって他の人に負けない素晴らしいものがあるのだ」
と言ってあげるのが正しいはずだ。
そして、自己啓発指導者達が教えるアファーメーション(肯定的断言)は、
「私は素晴らしい」
「私は偉大だ」
「私は価値ある存在だ」
である。
そして、世界的な自己啓発指導者であるディール・カーネギーは、
「人間の最大の欲求は、自分が重要な人間であると認められること、すなわち、自己重要感である」
と言っていることは誰もが知っているのに、この、人間が一番欲しいものを手放すことが、本当の力を得る絶対条件であるとは!

「自己重要感」
「自分は世界で1つだけの花」
こんな貴いことが間違いだったのか?
その通り、大間違いであったのだ。
では、自分の価値を高めるために一生懸命勉強したり、技能を磨いたり、身体を鍛えることは間違いなのか?
何も努力せず、怠惰でいれば良いのか?

この矛盾を解決するために、無数の賢い人達が苦心し、そして、いまだ解答は得られていない。
ただ、こういうことは言えるのではないか?
いかに優秀であっても、そうなるためにいかに努力をしたとしても、高慢になれば全て台無しである。
これは確かである。
そして、それが分からない愚か者が多い。
つまり、成功したり、金メダルを取ったり、勝つことで自分は優れていると思ったとたんに落下が始まり、放っておいたら地獄にまで落ちる。

結局、こういうことなのだが、これを知らない者が何と多いことか。
努力したり、戦うことは、ゲームに過ぎず、それで成功したり、勝ったりしても、それは「たまたま」なのだ。
さらに言えば、努力するか、その反対に怠惰になるか。
戦うか、逃げるか。
それは、自分の意思で決定したのではない。
最初から、あなたの脳が、そうプログラムされていたに過ぎないのだ。
超人的な努力をして、多くの人に称賛されたり畏れられたりしても、単に、そういうふうに作られているのだから、努力して当たり前なのだ。
服をハンガーにかけることも面倒と思うことだって、そうなるよう、初めから仕組まれていたのである。それだけである。

では、どうすれば良いのか?
それはこうだ。
「おお、自分より高いものがある」
と分かるか、分からないかで全てが決まるのである。
ロオマン・ゲイリの小説『自由の大地』で、フランス兵達はドイツ軍の捕虜になり、すっかり怠惰になった。
そこで、フランス兵達の隊長は、部下たちに、「ここに1人の理想の少女が居る」と想像するよう言った。
すると、たとまち、フランス兵達は高貴になった。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、人間として最低の26人の男達は、ちょっと可愛いが平凡な16歳の娘を天使のように扱った。
すると、26人の男達はたちまち尊い人達になった。
彼らに共通することは、ただ、「崇めた」ことである。
人間は、目の前にいる存在が自分より「高い存在」であると本当に思ったら、崇めるのである。
崇めるとは、敬虔であること、敬うこと、ひれ伏すことである。
だが、誰も、王様や将軍様なんて、本当には崇めていないのである。
平凡な少女でも本当に崇めることがあるのに、国で一番の権力者だからという理由で、本気で崇めることはない。
「いや、私は王を心から崇めている」
と言い、自分でも、本当にそうだと思い込んでいるかもしれない。
だが、本当に崇めているなら、それは喜びであり、安らぎであり、何もいらないと思うはずなのだ。
いわゆる「見ているだけで幸せ」な状態だ。
「俺はただ見ているだけでいい。何も欲しくない」と思ったら本物だ。
誰にも強制されず・・・つまり、「これを崇めよ」と決して言われなかったのに、崇める何かに出会えたら幸運であるが、必ず出会うのであるし、何度も出会っているのかもしれない。
これからも出会うだろう。
しかし、いつまでも崇めることをしなければ命が取られる。
だが、その時、命を捧げれば、全て解決するのである。
とはいえ、そこまで先延ばしにしてはならない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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