呪文、マントラ、念仏などに、霊的な意味はないという考え方がある。
ただ、霊的な意味はなくても、重要な意味がある。
それは、思考を消すという意味だ。
呪文を唱えている間、心は他のことを考えることが出来ない。
心にいかなる想念もない時に、人間は超能力のようなものを発揮し、奇跡を起こす。あるいは、奇跡の媒体(あるいは中継点)になるのである。
いかなる危険な状態であっても、もし、想念が消え、無になれば、危害は及ばない。
風説も含まれるかもしれないが、報告された例では、爆発現場のごく近くに居たり、高いところから落ちてもかすり傷一つ負わず、毒を飲んでも何の影響も受けず、銃弾が飛び交う中にいても全く安全であったという話は多い。
自分の意思によらず、偶然のようななりゆきで、心が静かな状態になった人間の驚くべき話がある。
ある人物は、癌になり、医者に余命僅かと宣告されると、その事実を粛々と受け入れ、この世を去る準備を始めた。
死んだ後で、他の人になるべく迷惑をかけないよう、出来る限りのことをした。
借金を返済し、一切の持ち物・・・衣服や靴なども処分し、様々な契約を解除し、情報を必要な人に伝え、ただ死を待つことにした。
すると、その後の検診で、癌がすっかり消えていた。
死を受け入れることで、心が静かになったので、全てが自由自在になったのだ。
その後は、この人物は、何かを願うと、それが自動的に実現するようになった。
最近、よく取り上げる橋本健氏(理学博士)も、学生の時に、長く生きられないと医者に言われる中、『生命の実相』という宗教書を読み始めたら、内容に惹きつけられ、三日三晩読み耽った。
すると、すっかり健康になり、次々と幸運に恵まれるようになり(円滑現象と言う)、大金すら入って来るようになった。
これも、『生命の実相』を読むことで、心が消え、高次の世界と通じたのだろう。
呪文や真言を、果て無く唱えると、心が静かになり、高次の世界と通じ易くなるというのは、不思議なことではないと思う。
玄奘三蔵は、般若心経の呪文をインドの僧に教わり、それを唱えながら、中国からチベット経由でインドに行ったが、それは、極めて危険な旅で、野獣、盗賊、吹雪、ヒマラヤの絶壁といった障害に打ち勝ってインドに到着するのは博打にも等しいはずが、般若心経の呪文を常に唱えることで、余計なことを考えず、心静かであったので、あらゆる幸運が味方したのかもしれない。
呪文や真言に霊験があるなら、それはそれで良いことであるが、もし、そうでないとしても、想念をなくし、心が静かになるだけでも十分である。
アメリカの、とある精神の研究団体が、意味はないながら、想念を起こし難いものとして「ナ・ダーム」という言葉を作り、それを唱えさせたところ、絶望的な末期の癌が治るなど、数々の目覚ましい成果があったようだ。
「南無阿弥陀仏」という念仏にしたって、意味が分かる人もいるだろうが、念仏を唱えている間に、いちいち意味を考えることはないし、むしろ、肯定的な心的効果で心が静かになるだろう。実際、念仏を唱え続けるうちに、ある時不意に心が透明になり、世界と一体化したように全て自由自在になった人は少なくないと思う。
面白いのは「神様の奇跡が起こる」という言葉は、意味は明らかながら、「考えても無駄な言葉」なので想念は消え易いし、想念が消えた時に奇跡が起こる。
よって、例えばだが、次の言葉の中から、好みのものを選んで、繰り返し唱えると良いと思う。
十分な回数(心が静かになるまで)唱えるなら、都度、取り換えても良いと思う。
南無阿弥陀仏(念仏)
南無妙法蓮華経(念仏)
アジマリカン(神道呪文)
ナ・ダーム(想念を起こし難い言葉、意味なし)
ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー(般若心経呪文。サンスクリット語)
ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか(般若心経呪文。中国語音写)
アウム
阿吽(あうん)
神様の奇跡が起こる
オン、アロリキャ、ソワカ(観世音微札真言)
オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(阿弥陀如来真言)
※自分の干支の守護仏の真言を唱えるのが良いという話があるので、各自、調べて欲しい(下にご紹介した『守護霊占運学』に詳細が載っている)。
他にも無限にあるだろう。
尚、ラマナ・マハルシによれば、最も心を静かにする言葉は「私」である。
ただ、霊的な意味はなくても、重要な意味がある。
それは、思考を消すという意味だ。
呪文を唱えている間、心は他のことを考えることが出来ない。
心にいかなる想念もない時に、人間は超能力のようなものを発揮し、奇跡を起こす。あるいは、奇跡の媒体(あるいは中継点)になるのである。
いかなる危険な状態であっても、もし、想念が消え、無になれば、危害は及ばない。
風説も含まれるかもしれないが、報告された例では、爆発現場のごく近くに居たり、高いところから落ちてもかすり傷一つ負わず、毒を飲んでも何の影響も受けず、銃弾が飛び交う中にいても全く安全であったという話は多い。
自分の意思によらず、偶然のようななりゆきで、心が静かな状態になった人間の驚くべき話がある。
ある人物は、癌になり、医者に余命僅かと宣告されると、その事実を粛々と受け入れ、この世を去る準備を始めた。
死んだ後で、他の人になるべく迷惑をかけないよう、出来る限りのことをした。
借金を返済し、一切の持ち物・・・衣服や靴なども処分し、様々な契約を解除し、情報を必要な人に伝え、ただ死を待つことにした。
すると、その後の検診で、癌がすっかり消えていた。
死を受け入れることで、心が静かになったので、全てが自由自在になったのだ。
その後は、この人物は、何かを願うと、それが自動的に実現するようになった。
最近、よく取り上げる橋本健氏(理学博士)も、学生の時に、長く生きられないと医者に言われる中、『生命の実相』という宗教書を読み始めたら、内容に惹きつけられ、三日三晩読み耽った。
すると、すっかり健康になり、次々と幸運に恵まれるようになり(円滑現象と言う)、大金すら入って来るようになった。
これも、『生命の実相』を読むことで、心が消え、高次の世界と通じたのだろう。
呪文や真言を、果て無く唱えると、心が静かになり、高次の世界と通じ易くなるというのは、不思議なことではないと思う。
玄奘三蔵は、般若心経の呪文をインドの僧に教わり、それを唱えながら、中国からチベット経由でインドに行ったが、それは、極めて危険な旅で、野獣、盗賊、吹雪、ヒマラヤの絶壁といった障害に打ち勝ってインドに到着するのは博打にも等しいはずが、般若心経の呪文を常に唱えることで、余計なことを考えず、心静かであったので、あらゆる幸運が味方したのかもしれない。
呪文や真言に霊験があるなら、それはそれで良いことであるが、もし、そうでないとしても、想念をなくし、心が静かになるだけでも十分である。
アメリカの、とある精神の研究団体が、意味はないながら、想念を起こし難いものとして「ナ・ダーム」という言葉を作り、それを唱えさせたところ、絶望的な末期の癌が治るなど、数々の目覚ましい成果があったようだ。
「南無阿弥陀仏」という念仏にしたって、意味が分かる人もいるだろうが、念仏を唱えている間に、いちいち意味を考えることはないし、むしろ、肯定的な心的効果で心が静かになるだろう。実際、念仏を唱え続けるうちに、ある時不意に心が透明になり、世界と一体化したように全て自由自在になった人は少なくないと思う。
面白いのは「神様の奇跡が起こる」という言葉は、意味は明らかながら、「考えても無駄な言葉」なので想念は消え易いし、想念が消えた時に奇跡が起こる。
よって、例えばだが、次の言葉の中から、好みのものを選んで、繰り返し唱えると良いと思う。
十分な回数(心が静かになるまで)唱えるなら、都度、取り換えても良いと思う。
南無阿弥陀仏(念仏)
南無妙法蓮華経(念仏)
アジマリカン(神道呪文)
ナ・ダーム(想念を起こし難い言葉、意味なし)
ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー(般若心経呪文。サンスクリット語)
ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか(般若心経呪文。中国語音写)
アウム
阿吽(あうん)
神様の奇跡が起こる
オン、アロリキャ、ソワカ(観世音微札真言)
オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(阿弥陀如来真言)
※自分の干支の守護仏の真言を唱えるのが良いという話があるので、各自、調べて欲しい(下にご紹介した『守護霊占運学』に詳細が載っている)。
他にも無限にあるだろう。
尚、ラマナ・マハルシによれば、最も心を静かにする言葉は「私」である。