ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2021年01月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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バカが勝つ

政治家でも、スポーツ選手でも、プログラマーでも、セールスマンでも、ミュージシャンでも、どんな職業でも、抜きん出た人がいる。
そんな抜きん出た人というのは、特別な才能があるとか、環境に恵まれていたとか、あるいは、運が良かったとか、いろいろ考えられると思う。
しかし、抜きん出た一番の要因は、時間をかけたことだ。
政治家であれば、趣味や、家族との対話や、レジャーや、グルメ等に使う時間を少なくし、より多くの時間を政治活動に注ぎ込んだのだ。
だが、もう一段、高い観点で言えば、仕事について、長い時間、考え続けたのだ。
この、「考え続けた」は、理屈や言葉で考えることも、もちろん含まれるが、とにかく、意識を向け続けたのだ。
いつでも、そのことが「心にあった」「頭から離れなかった」「心の目で見つめ続けた」ということだと思う。
「方時も忘れなかった」という言い方がぴったりするかもしれない。

なぜこんなに、心や思考や意識についてしつこく述べるかというと、やはり、心(あるいは精神)には力があるからだ。
いや、心や精神以外に力はないと言えるかもしれない。
つまり、世界そのものが、心・精神が作り出したものなのである。
だから、考え続けた者が勝つのは当たり前なのだ。

具体的な日常レベルの話になると、抜きん出る人は、雑談をしない。
雑談は時間がかかるので、雑談好きな人は、大切なことを考える時間が少なくなってしまうのだ。
私は、本で読んだ、こんな話をよく憶えている。
有名なプロレスラーだったジャイアント馬場さんが、アメリカにいた若い時のことだ。
プロレスラー達は、大勢で一緒に電車等で移動することが多かった。
電車の中で、多くのレスラー達は、雑談したり、ゲームをしたりする。
ところで、馬場さんには、バディ・ロジャースという憧れのレスラーがいて、一緒に移動する時は、ロジャースをじっと見ていたそうだ。
ロジャースは、トップレスラーで、人気は一番、世界チャンピオンでもあったが、何よりも、客を呼べるレスラーで、特に、女性客の集客力が凄かったらしい。
ロジャースが出れば客が入るとなれば、プロモーターからは大事にされ、当然、ギャラも物凄く高かった。
そして、プロなんだから、仲間のレスラーからも敬われていたし、実際、素晴らしいレスラーなので、馬場さんのように、憧れる者も多い。
そのロジャースは、雑談もゲームもしなかった。
馬場さんには、ロジャースが1人で、ずっと考えているように見えた。
試合やコスチュームのこと、どんな登場の仕方をすれば受けるか等、いろいろ考えていたのだろうが、とにかく、心を向け続けたのだ。
そこが、他のレスラーとの違いだ。
ある意味、プロレスしか分からない「プロレスバカ」だったのだろう。

それで言えば、やはり、抜きん出る人は皆、「〇〇バカ」なのだ。
イチローは間違いなく野球バカだったはずだし、エジソンは電気機器バカだった。
勝手なことを言えば、私は、浅田真央さんより、キム・ヨナさんの方がフィギュアスケートバカだったから、金メダルが取れたのだと思う。
そして、練習や実験の時間が長いというのは結果で、根本的には、心を向ける時間の差だと思える。
私も、セールスコンテストで優勝したとか、周囲のプログラマーやシステムエンジニアよりマシだった時には、セールスしてたとか、プログラミングしてたというよりは、セールスのことやプログラミングのことを思い続けていた時間が長かったのだ。
極端に言えば、実際に何をするかはどうでも良いのかもしれない。
あくまで、心が世界を作るのであるからだ。
実際、達人になると、何もしなくなるらしい。
『名人伝』においては、天下一の弓の名人は、名人になる過程で弓を射ず、名人になってからは弓を取らず、遂には、弓を見て「これは何だ?」と言う。
名人は、弓よりも上位のことに精神を向け続けていたのだろう。

で、何度も取り上げるが、教育学者の七田眞氏の著書『奇跡の超「右脳」開運法』の中で、ホームレスの男性が、1日中「神様の奇跡が起こる」と唱えて、宝くじで1憶円を2回当てたのも、この男が、ずっと神様の奇跡に意識を向け続けた結果であると思う。
彼には、他にやることも、雑談する仲間もいなかったので、本当に1日中、唱え続けた。
ある意味、バカであるが、奇跡を起こせるのはバカだけなのである。








できるだけ単純に

私が、アインシュタインは本当に天才だと信じることが出来る、彼の素晴らしい言葉がある。
それは、
「出来るだけ単純に。ただし、度を超えないように」
だ。
まあ、後半の「度を超えない」も大切ではあるが、まずは、「出来るだけ単純に」であり、その重要さは、いくら強調しても足りない。
この言葉には、もっと深い意味もあるのかもしれないが、今回は、それこそ「ごく単純」に捉える。

『あしたのジョー』というボクシング漫画・アニメは、1968年に連載開始されたものながら、いまだ人気は衰えず、数年前に、昔の漫画の再連載を始めたという話もあった。
原作者は、人間的にはいろいろ問題がありながらも天才作家だった梶原一騎(かじわらいっき。この作品では高森朝雄名義)だ。
梶原一騎には、『巨人の星』や『タイガーマスク』はじめ、歴史的とも言える人気作品が数多くあり、マジな天才なのだと思う。
梶原一騎は、本当に、人間のツボを知っていた。
彼の作品には、美学と言えるほどの「ど単純」の法則がある。
『あしたのジョー』で言えば、多くのファンが、この作品から離れられなくなったエピソードは「明日のためのその1」だろう。
これは、落ちぶれたボクシングトレーナーの丹下団平が、主人公の少年、ジョーこと矢吹丈に、ハガキで、左ジャブ(軽く打つストレートパンチ)の打ち方を教えたものだ。一種の通信教育である。
私は、子供の時に読んだが、書いてあったことを憶えている。
「脇を締め、やや内角を狙い、えぐり込むようにして打つべし」
それを丈がやるのを見て、すぐに自分でやる。子供でも出来る簡単さ、単純さだ。
それでもう、自分は、ボクシングの奥義をマスターした気になり、強くなったように感じるのだ。
『巨人の星』で言えば、ひたすら直球を投げる練習をして、剛速球が投げられるようになればいいのだし、『タイガーマスク』であれば、ブリッジさえすれば、気持ちはタイガーだ(笑)。

もし、これらの漫画を読んだ子供が、本当に、野球やボクシングを習いに行けば、面食らうか、少なくとも、戸惑うであろう。
実際は、梶原漫画のように単純ではないからだ。
しかし・・・一面の真理もあるから、梶原一騎は天才なのである。
梶原一騎自身、こつこつとスポーツをやるような真面目な人間ではなかった。
しかし、喧嘩は本当に強かった。
戦い方のコツを知っていたのだ。
普通、喧嘩に強くなりたくて、格闘技を習いに行くと、(言い過ぎかもしれないが)確実に弱くなる。
昔の極真空手や(今はどうか知らないのでこう言うが)、護身術を専門に教えるようなところではそうではないが、武道というのは、実戦というか、喧嘩の道具ではない。
どういうことかというと、ある喧嘩の達人の本に、見事な指摘があった。
だいたい、こんな感じだ。
「本当の戦いになったら、頭なんて絶対に回らない。多彩な技の練習をしてたって、そんなもの出て来ない。だから、一番単純で効果的な技1つを徹底して練習してるやつが強い。キックなんてやってる余裕はない。複数の敵が相手なら、走り回るのに必死だし、ハイキックなんてもっての他。脚を上げたところを倒されたら、相手が複数なら殺されるだけだ」
実戦武道や護身術では、単純な1つか2つの攻撃を徹底的に鍛え、それが完全にならないと次のことを教えてもらえない。
そして、技にはパワーがないと威力がないが、そのためにも、同じ技を何千回、何万回と繰り返す必要がある。
梶原一騎は、そんなことをよく知っていたし、漫画の読者も、それを直観的に解るので、梶原作品に惹かれるのだ。

人間は、馬鹿なのである。
超単純なことしか、うまくやれないのだ。
そして、我々は別に喧嘩術を修得する必要はないが、引き寄せも同じなのだ。
よく、『なぜあなたの引き寄せはうまくいかないのか』なんて本があるが、その答を言ってしまえば、「やり方が難しいから」の一言だ。
単純なことを、1日中やれば良いだけなのだ。
もう1つ重要な、うまくいかない理由を挙げれば、「やる時間が少ない」だ。
(優秀な人の場合は別かもしれないが、それは私には分からないので、置いておく)
引き寄せの、1つのきれいな模範は、何度も取り上げるが、教育学者、七田眞氏の『奇跡の「右脳」超開運法』にある、ホームレスの男性の話だろう。
彼は、1日中、「神様の奇跡が起こる」と唱えた。
ネット上で、これと同じことをやったが駄目だったという話も多いが、それは単に、やった時間が足りないのだ。
このホームレスは、起きている時間は、ずっと唱えていた。
そして、2週間ほどしたら、不意に頭の中に数字が浮かび、その番号でロト6を買ったら一億円当たり、その後、再度やったら、また一億円が当たった。
高名な著者は、これは絶対に実話だと保証している。
やさしい引き寄せの本を1つ選び、全体を読まなくていいから、その中の、単純な方法を愚直にやり続ければうまくいくだろう。








究極の引き寄せに痺れる

笹沢佐保(1930~2002)さんの時代劇小説『木枯らし紋次郎』シリーズは、第2部の『帰って来た紋次郎』シリーズと合わせると、紙の書籍で19巻という長編だ。
貧しい農家に生まれた紋次郎という名の男は、10歳で家を捨て、やがて、剣と博打を頼りに、「死ぬまで生きる」旅をしていた。

そんな生き方をした人間は沢山いたかもしれない。
その大半は、若いうちに死んだに違いなく、もし、生きられるとしたら、賢かったり、戦いが強いことももちろんだが、運が良かったのだと思う。
そして、そんな人間は、意識せず、引き寄せが出来るようになっていたに違いないと思うのだ。
『木枯らし紋次郎』シリーズを読んでいたら、それを強く感じるのである。
紋次郎はまさに、引き寄せの秘訣を知っていた。

紋次郎は、乞食と変わらないほどボロボロの服を着、ロクに食べられないので、身体は不気味なほど痩せていたが、30歳過ぎまで生きていられたのは、経験によって得た賢さと、剣の腕のおかげだった。
ただ、剣の腕が立つとはいえ、あくまで、経験と度胸が頼りの喧嘩剣法だ。何度か、武士や元武士である本物の剣の達人と対峙するが、正面切って戦えば勝てるはずがない。しかし、そんな場面での紋次郎の戦いぶりもまた、本作の見どころの1つである。
紋次郎は、やむにやまれぬ時以外は戦わないが、剣が命なので、いくら貧しくても、剣(武士の刀よりやや短い長脇差と呼ばれるもの)だけは、良いものを持っていた。
だが、ある時、紋次郎は、因縁をつけられて、やむなく剣で戦った際、剣を折ってしまった。
これは緊急事態で、すぐに剣を治すか買うかしないと生命の危機である。
良い剣を買うほどの金がないと、治すしかなく、適当な鍛冶師がいないか探していると、山奥に良い鍛冶師がいるという噂を聞き、そこに行ってみた。
そこに居たのは、天才鍛冶師だった。
この天才鍛冶師は、訳あって、こんな山奥に潜んでいたが、名刀を打つ情熱を静かに燃やしていた。
そんな高貴な天才刀鍛冶師と、乞食のような流れ者のヤクザでは、本来は話にならないが、紋次郎は剣を必要としていた。
そして、天才鍛冶師は、今や、一世一代とも言える名刀を製作中だった。
しかも、何と、紋次郎の刀の鞘にぴったりのサイズだった。
だが、天才鍛冶師に、「これはあなたには売りません」と言われる。当然だ。
そもそも、売ってくれるとしても、それほどの剣を買う金があるとは思えない。

紋次郎は、その天才鍛冶師が、仕事を始める早朝から、その仕事を離れた場所からじっと見ていた。
その名刀は、まさに仕上がろうとしていた。
天才鍛冶師は、静かに、中断せず仕事を淡々と続ける。
紋次郎もまた、静かに、身動きもせずに、それを見ていた。
そして、空が夕焼けに染まる頃、名刀は遂に完成した。
すると、天才鍛冶師は、紋次郎のところに歩いてきて、無言で手を出し、紋次郎は、折れた刀が収まった鞘を渡す。
天才鍛冶師は、柄から折れた剣を外し、完成したばかりの剣をそれに付けた。
そして鞘に納めると、黙って紋次郎に手渡した。

痺れるシーンだった。
ここに、神聖なる引き寄せの極致があると感じた。
ただ、この話が、どの巻にあったかは分からない。








夢の中で天使に逢う

夢の中は、魔法や超能力や引き寄せの良い訓練場所、あるいは、リハーサル場になる。
なぜなら、夢の中では、患い事、心配事が、目覚めている時よりずっと少ないからだ。
よほどの心配事なら、夢の中にも持ち込むこともあるが、普通は、日常の問題は忘れていることが多い。
そして、我々が、超能力や魔法を使えないのは、患い事や不安のせいなのだ。
つまり、現実でも、不安や患い事がなければ、ちゃんと超能力や魔法が使える。もちろん、引き寄せも自在に出来る。
イエスが、「思い煩うな」と言い、釈迦が、「妄想するな」と言ったのは、そんな意味があったのだと私は思う。

言ってみれば、夢の中というのは、不安さえなければ、魔法が使えることを実感するための実験場でもある。

だから、夢の中では、何があっても恐れず、勝つと思うことだ。
だが、夢を見ていることが分からない場合が多いかもしれない。
しかし、問題ない。
目が覚めている時でも、「これは夢だ」と思い、「大丈夫だ。うまくいく」と思う癖をつけておけば、夢の中では楽々出来るのである。
もう一度言うが、いつでも(夢、現実に関わらず)、「これは夢」「大丈夫、うまくいく」と心で言うのだ。
夢の中では、不安を捨てないといけない。

では、私の模範を語ろう。
つまり、私の夢の話だ。
私は、窓のないビルに閉じ込められていた。
階段を降り、1階につくと、頑丈そうな鉄のドアがあった。
「ふ、僕好みのドアだ」
と言い、ドアに手をかけた。いつも、遊び心を忘れてはならない。夢でも現実でも。
一瞬、動かないのではと思ったが、「大丈夫、動く」と断言して押したら、重いが、問題なく開いた。
広い庭があり、プールがあった。
「入れってことだな」
と思い、恐れずプールに入っていったら、水は浅く、膝のところまでしかない。
だが、少し前が深くなっている。
怖くはないが、入るのは面倒臭い(笑)。
すると、向こうから、男が1人、歩いて来た。
黒づくめの服を着て、なんと、黒い目隠しをしている。
しかし、見えているかのように、平然と歩いている。怪しい(笑)。
「おい!」
私は、男を呼び止めた。
そして、プールの深い場所を指さし(彼に見えようが見えなかろうが知らない)、
「お前がここに入れ!」
と命じた。
夢の中でまで、人にものを頼んではいけない。要求するだけだ(偉そうだw)。
男は何も言わず、黙って従った。
ところが、男がプールの深い場所に入った時、「こいつ、僕を引き込もうとするな」と思った。
案の定、その通りだった。
しかし、私に怖れはない。
私は手近な柱を掴み、抵抗した。
私は、脚をプールの深いところに引っ張りこまれたが、それ以上は大丈夫と思い、やはり不安はなく、余裕を感じていた。
夢の中の攻撃は、長くは続かないものだ。
こちらが堂々としていたら、すぐに終わる。
実を言えば、現実でも同じなのだ。その訓練を、こうやってやれば良い。
次の瞬間、私は、森の中にいた。目の前は、所々に低木がいくらかあるが、開けていた。
目の前に、羽の生えた天使が下りてきた。
大変な美少女であったが、言っておく。
夢の中で、変なことを考えてはならない(笑)。
夢の中だから、何をしてもいいなんて考えたら大間違いだ。大切な訓練場なのだから。
私は、
「やあ、調子はどうだい?」
と気安く声をかけたら、睨まれた(笑)。
だが、可愛い。夢の中でも、心の余裕が大切だ。決して、動揺してはならない。
そんな訓練もすることだ。
心の強さ、広さを試せることなら、何をしても良いのである。
そして、それは現実も同じなのだ。
以前、ナチの軍隊に、火炎放射器を向けられたことがある(もちろん、夢の中で)。
少しは恐れたが、堂々たる態度は崩さなかったのだ。
こんな訓練、なかなか現実では出来ない(笑)。
美少女の天使は、小さな巻物(高さ12cm、直径1cm)を差し出した。
私は、「えっと、こんな時は何か言わなくちゃいけなかったな・・・」と思ったら、目が覚めた。

恐れなかったら、天使や仙人が出てきてくれるのである。
そうだ、聖なるアイテムを差し出されたら、「私の腹に収めて下さい」と言えば良かった。
物のままでは、現実には持ってこれないからだ。
今回は、このミニスカートの天使のぱんつは何色だろうと阿呆なことを考えたから失敗したのだ。
あなたなら、うまくやれるだろう。








夢のコントロールも現実のコントロールも同じで簡単

眠っている時に夢を見ていて怖いと思う理由は2つである。
(1)これが夢であると分からないから。だから、自分が海の上を漂っていたり、ジャングルの中を無防備に歩いているように感じるのである。
(2)これが夢であると薄々は感じていても、この夢の世界をコントロール出来ないと思っているから。
逆に、言えば、こうであれば、夢は恐くない。
即ち、
(1)これが夢だと分かっている。
(2)夢をコントロール出来ると感じている。
なら、夢は怖ろしいものではないのだ。

なんで夢の話をするかというと、現実も夢と同じだからだ。
つまり、現実も夢と同じで、いい加減と言うか、曖昧と言うか・・・もっと適切な言い方をするなら、自由だ。
だが、「現実がのしかかる」と言うように、現実は、重く、確固たるものだと思っている人が多いと思う。
けれども、現実も夢と同じなので、気楽に生きるためのポイントは、夢と同じと考えると良い。
即ち、
(1)現実も夢のようなものであると感じている。
(2)現実をコントロール出来ると感じている。
であれば良い。
普通の人は、両方難しい、
いや、両方難しいと言うより、この2つはセットである。
そして、夢とほんの少し違うのは、夢は自分でコントロール出来るが、現実をコントロールするには神だということだ。
だから、神との一体感がなければ、現実が怖いのである。
だが、本来は、神と人間は一体なのであり、特に、昔の日本人はそう感じていた。少なくとも、神を身近に感じていたのだ。

神との一体感があれば、自分が現実を動かしているのだから、何も怖くはない。
じゃあ、どうやって神との一体感を持てば良いかというと、それは、スーフィー(イスラム教神秘主義)の格言に、見事にまとめられている。
それは、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
だ。
ラクダというのは、心の象徴でる。
つないでおかないと、ふらふらとさ迷ってしまう。
ラクダをつないでおくことの意味である、心をつないでおくにはそうすれば良いか?
宗教的に言うなら、神の姿や名前に意識を集中すること。
つまり、神の姿をイメージしたり、神の名を唱えることだ。後者の方が簡単だ。念仏も、これと同じである。
宗教ではなく一般的な方法では、例えば、心からの願いのことを考えることだ。弁護士になるとか、一億円を作るとかだ。ただし、あくまで心からの、それなりに志のある願いであることが必要だ。
それを、いつでも考えることだ。
別の方法は、呼吸を制御するか、呼吸に意識を集中するかだ。好きな方でやれば良いが、呼吸を制御する場合は、「少し大きく吸い、いったん止め、細く長く吐く」のがベストであるが、憶え難いなら、とにかく、静かで、少ない数の呼吸をすることだ。1分に1回なら非常に良いが、無理をしてはならず、徐々に少なくしていけば良い。
これらのようにして、ラクダのようなものである心を静かにすれば、夢は楽々コントロール出来るようになり、現実の方も、支配力を増し、やがては、やはり簡単にコントロール出来るようになる。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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