ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2020年11月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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名誉より正義

アメリカ大統領選挙問題に関し、カリフォルニア州弁護士のケント・ギルバート氏と、経済評論家の上念司氏という人気者同士が対談しながら、そのYouTube動画は、高評価ボタン1.1万に対し、低評価ボタンが1.8万で、コメント機能も停止されている(11月28日6時現在)。
【DHC】2020/11/25(水) 上念司×ケント・ギルバート×居島一平【虎ノ門ニュース】

私も、この二人の考え方には、全く共感出来なかった。
この対談の内容を簡単に言えば、両者とも見解は一致しており、
「トランプ大統領は、本当に素晴らしい実績を作っており、今、潔く去れば高く評価されるが、このまま抵抗を続ければ評価を下げる。名誉のために、早く諦めた方が良い」
というものだったと思う。

トランプは名誉のためではなく、民主主義のために戦っているのであり、名誉を失う危険は承知と思う。
それは、彼に味方する、やはり名誉ある一流弁護士達・・・ルディ・ジュリアーニ、シドニー・パウエル、リン・ウッドも同じである。
彼らが引けば、アメリカから民主主義が失われ、アメリカは弱体化していき、中国共産党が世界の覇権を握る危険が大きい。
何よりも、トランプ達は、「正義のために試練に立ち向かえば、神は必ず味方する」と信じているのだろう。
もし、そうでないなら、この世界に何の価値があるだろう。

ケント・ギルバート氏は、別の動画でも、「弁護士の立場として、こう言うしかない」と言うが、では、リン・ウッドやシドニー・パウエルは弁護士ではないのだろうか?
まあ、確かに、シドニー・パウエルは、本件は、無報酬のボランティアでやっているらしいので、その意味では、まともな弁護士ではないかもしれないし、それは、リン・ウッドも同じかもしれない。

アメリカ大統領選挙で不正があったのは、普通に考えれば、ほぼ間違いないと思う。
47年の政治家生活で特に実績もなく、選挙までの数ヵ月、地下室で過ごし、集会を開いても、カメラはギャラリーを映さないのは、人が集まっていないかららしい。
確かに、言っては悪いが、バイデンは、どこにもインパクトのない、ただの老人である。
失言、言い間違い、記憶違いも、非常に多く、もうかなりボケてる印象がある。そりゃ、78歳なのだから、それなりには衰える。
(いくら何でも、トランプをジョージと呼ぶな)
そんな男が、8千万票という、非常識なまでに記録的な数の票を集めるはずがない。
2008年、2016年には、黒人初の大統領、女性初の大統領が期待されて熱狂を呼び、投票率が伸びたが、オバマが記録的と言われながら6千9百万票、ヒラリー・クリントンが6千5百万票なのである。それでも、大変な得票なのだ(まあ、共に不正票もあったのかもしれないが)。

歴史の中には、長い長い年月を経て、やっと悪が暴かれるというものもある。
例えば、タイタニック号の沈没事故だ。
タイタニックがなぜ、氷山があると分かりながら、速度を落とさずに全速で走ったのかは、これまで謎だったが、そこに、タイタニック号を所有する会社の利己的な理由があったのだと分かったのは、割と最近のことと思う。タイタニック号は動力室で火災を起こしていながら、出航を強行し、石炭が足りなくて速度を落とすことが出来なかった。そして、火災のために、動力部の船体が弱くなっており、本来なら、氷山と衝突しても沈むはずがなかったのに、動力部から浸水して沈んだ。
そして、この事故は、未然に防げた可能性もあったのだ。

だが、アメリカから民主主義が失われ、利権にしか興味がないトップの政治家達が中国に操られてしまったらもう遅い。
間違ってバイデンが大統領になったら、尖閣諸島は間違いなく中国に奪われるが、日本は全く何も出来ない。
バイデンが尖閣を守る?
中国はトランプがいないので、堂々尖閣に入り、おそらく、バイデンは、見せかけだけ尖閣の近くに艦隊を近付け、ついでに、適当なスクランブルを行うことを繰り返すことで、日本に莫大な額を請求し続け、総理や閣僚は文句も言わずに支払うだろう。

だが、正義のために戦うトランプは決して諦めないだろう。
彼は、ノーマン・ヴィンセント・ピールの本に書かれている通り、神の力を求め、また、現実的なビジネスマンらしい冷徹な判断をするし、何より、本当に頭の良い彼は、常に高度な推測を行い先回りして敵を追い詰める。
彼には、全て想定内だ。
それでなければ、彼のこれまでの実績は作れないだろう。








苦労なんかしない

恐れや不安がない人間は、楽しい人生を送ることが出来る。
では、恐れや不安の正体とは何かというと、世の中には、自分より強い人が沢山いて、その強い人達の多くが、自分に対して親切ではないという嫌な予想だ。
一番良くないのは、自分より強い人がいくらでもいて、その人達のほとんどが、自分に優しくないと思うことだ。
逆に、一番良いのは、自分より強い人もいるだろうが、そんな強い人は、皆、自分に優しいと思うことだ。

だが、このことをどう思うかは、ほぼ、生まれ育った家庭で決まる。
親が、子供に対し、自分の方がずっと偉くて強いことを見せつけ、しかも、(稀には優しいこともあるかもしれないが)子供をいじめてばかりいる・・・そんな親が実に多く、ある調査では、全家庭の8割以上の親がそうであるという話がある。
父親だけでなく、母親もほとんど同じ、あるいは、本質的には母親の方が子供をいじめているとも言われている。
ところが、学校、あるいは、テレビでは、「母の愛は海よりも深く」なんて教わるのだから、その子は頭が混乱して、思考力を失くす。
さらにまずいことがある。
それは、母親は、自分が子供をいじめることが大好きであることを巧妙に隠し、「海よりも深い愛」を注いでいるかのように見せかけ、子供もそれに騙されている場合が多いということだ。

上のような親のために無力感を持った人間は、世の中でうまくやっていくことが難しく、いつも弱い立場に立たされ、辛い人生を送る。
では、どうすれば良いかというと、ある庶民(貧しい百姓)の念仏行者の男の例が参考になる。
その男は、元々は念仏行者ではなかった。
ところが、彼が19歳の時、父親が亡くなったのだが、父親が最後に、「俺が死んだら親様を頼れ」と言う。
自分が親なのに「親様を頼れ」とは変な話であるが、この「親様」とは阿弥陀如来のことである。
阿弥陀如来とは、阿弥陀仏であり、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える対象である。
彼は、父親が言ったことの意味がなかなか分からなかった。
ところで、彼は、飼っていた一頭の牛を大変に可愛がっていた。
彼が、その牛と、山に草刈に行った時のことだ。
草刈に励み、大きな草の束が3つ出来たので、牛に2束背負わせ、自分も1束背負った。
ところが、その1束が重く、歩くことが出来なくなり、牛に、「すまない」と言って、自分のも背負わせたところ、牛は全く平気である。
それで彼は悟った。
この牛でさえ、力ということではそうであるように、世の中には、想像も出来ないほど強い存在がいて、それが阿弥陀如来であり、その阿弥陀如来は、徹底的に優しい慈悲に満ちた存在であるはずだ。
彼は、お坊様の話を真面目に聞いていたので、そう確信したのだ。
それで、父親が言った通り、阿弥陀仏を親と思い、念仏を唱えて、全面的に頼ることにしたのだ。

イエス・キリストだって、「重荷があるものは私のところに来なさい」と言ったが、行ったらどうなるのかよく分からない。
しかし、ラマナ・マハルシが、よく分かるようにしっかり言ってくれている(イエスも分かり易く言ったのかもしれないが、転写や翻訳の際に、変な記述になったのかもしれない)。
マハルシは、次のように言っている。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か?』より~
【PDF】私は誰か?

親と頼るべき存在のことは、神でも、仏でも、阿弥陀如来でも、潜在意識でも、呼び名は何でも良いと思う。
『イット・ワークス』の著者は「インマヌエル(我らの中にまします神)」と呼んでいるが、やはり、どのような名前で呼んでも構わないと述べている。
『イット・ワークス』には、そんな偉大な力の助けを確実に得る方法が書かれているし、トランプ大統領の愛読書『積極的考え方の力』(ノーマン・ヴィンセント・ピール)も、神の力を求める方法を書いたと著者が述べている。








夢遊病者の驚異的な能力を得る

夢遊病とは、意識は眠っているのに活動している状態のことを言うのだと思う。
ところが、夢遊病者は、単にふらふらと歩いているだけではないことがある。
例えば、目が覚めていたら恐くて絶対に立てないような高い場所に立っているようなことがあるらしい。
それどころか、高いだけでなく、高度なバランスを取ることが必要な塀の上を、ふらつくことなく見事に歩いていたという話もある。

作り話も多いだろうが、夢遊病の状態にある剣士が、目が覚めている時よりはるかに強く、達人級であったという話が沢山ある。
いや、剣の極意、武道の極意というのは、夢遊病のような状態になることではないかと思う。
心が済んでいるどころか、心がないのである。
まさに無の境地であり、それなら無敵ではないだろうか?

夢遊病の状態の時、普段より能力が格段に高いとしたら、その理由は、何も考えないことで「恐れがない」からだ。
マカロニウエスタン『怒りの荒野』の中に、初老の凄腕ガンマン、タルビーの「ガンマン心得十カ条」というものがある。
その6番は「危険な時ほどよく狙え」で、これは、あらゆることに通じる重要な心構えだ。
しかし、普通の人は、それが出来ない。
恐れがあるからだ。
鍛え抜かれ、心頭を滅却し、恐怖を超えられる者のみが可能なことだ。
しかし、それは、ある意味、夢遊病の状態になることで、夢遊病患者が高度な能力を発揮することがある理由がこれなのだと思う。
アニメ『ノワール』の「イントッカービレ ACTE I」で、幼い時から恐るべき力を持つ「世界で最も凶暴な姫君」シルヴァーナの「私には恐れはない」という言葉が非常に印象的だった。
彼女の特殊な育ち方が、そのような最強の精神を作ったのだろう。

ラグビーなど、激しいスポーツの中で、時々、こんなことがあるらしい。
強いタックルを受けて転倒した選手が起き上がった時、ぼーっとした顔つきをしているので、「大丈夫か?」と、ぽんと叩きながら声をかけると、「ああ、大丈夫だ」と応える。
そして、普通にプレイを続けるが、無駄のない、非常に良い動きをする。
ところが、その選手は、タックルを受けて倒れてからしばらくの記憶がなかったりする。
つまり、夢遊病状態でプレイしていたのだ。
また、本当かどうかは知らないが、前田日明さんの自伝『パワー・オブ・ドリーム』の中で、前田さんがマーシャルアーツの全米王者ニールセンと戦った時、前田さんは試合の序盤でニールセンのパンチを顔に受けた後の記憶がなく、その試合後、友人を助手席に似せて車を運転している時に不意に意識が戻り、「あれ、俺、なんで車運転してるの?」といった感じだったという。
ニールセンに勝った試合のことも全然覚えていないと書かれていた。
こういった話は、作り話も多いだろうが、割とよく聞く話であり、実際に、このようなことがあるのだと思う。

心が澄み切り、無になれば不可能はなくなる。
それに近付くほど、能力は高くなり、引き寄せも自在になっていく。
瞑想が良いのは、そのような状態に慣れ、その感覚を掴み、いつでも、速やかにその状態に近づくための訓練だからという面があると思う。
また、普段から、呪文をよく唱えていれば、無の状態になることが多くなり、いざという時にも呪文を唱えれば、無我に近付き、高い能力や神秘力を発揮出来るだろう。
そんな意味からも、呪文(あるいは、真言や念仏)が奨められる。








全て決断次第

時々忘れるが、私が奇跡を起こすコツは「決めつける」ことで、これは、子供らしい子供ならやっていることである。
私が小学校4年生の時、たまたま天体望遠鏡を譲ってもらい、それで土星を見たいと思ったのだが、私には、天文の知識など全くなかった。
しかし、私は、健康的な子供に戻り、「土星を見ることが出来る」と決めつけた。
そして、適当に1つの星を選んで望遠鏡で見ると、その星には輪があった。
どんなヤバいことでも、この方法でうまくいった。
逆に、決めつけてからやらなかったことは、うまくいかなかった。

「決めつける」とは、「決断する」ことと、多少は違うが似ている。
うまくいかない人は、決断が遅い、あるいは、決断出来ない。
喫茶店やレストランで注文をする時、なかなか何を注文するか決めることが出来ず、迷う人がいる。
残念ながら、そんな人は、人生が順調でないはずだ。
別に、軽率であることを薦めたい訳ではなく、注文する時にも、ちゃんと考えれば良いが、大物はやはり、少し考えたら、ぱっと決めるのである。
駄目なやつは、「うーん」といつまでも迷い、挙句、注文を取りに来た人に、つまらないことを質問して時間を無駄にする。
人間性も良く、頭も悪くないのに、決断が遅くて人生を損している人を見るのは、辛いところもあるのだ。

では、なぜ決断が出来ないのだろう?

私が大好きな決断の場面がある。
CLAMPの漫画『ツバサ』(アニメでは『ツバサ・クロニクル』)の中のものだ。
小狼(シャオラン)は、サクラ姫の命を救うために、「時の魔女」と呼ばれる女に助けを請う。
時の魔女が、手を貸すには対価が必要だと言うと、小狼は即座に承知する。
これには、さすがの時の魔女も「私はまだ、対価が何か言っておらぬぞ」と驚く。
だが、対価が何かなど、小狼にはどうでも良かった。
それが何であろうと払うつもりだった。
滅多なことで人を褒めるとは思えない時の魔女も、そんな小狼を「お前は願いを叶えるために必要なものを全て持っている」と称賛した。
(以上、昔、借りて1回読んだだけなので、細かいところは違うと思う)

そういえば、建築家で波動の研究者である足立育朗氏は、『波動の法則』などの著書の中で、何度も「決意する」ことの大切さを説かれていたと思う。
そして、大胆に決意(あるいは決断)するためには、やはり、何かを信じていないと駄目なのであると思う。
小狼は、サクラ姫が、何より大切な存在であることを疑っていない。
トランプ大統領がもし神を信じているなら、敵がいかに巨大であっても戦うことを即座に決断したのだろうし、決して諦めない。
念仏を信じて唱えている者は、やはり、不退転の決意を持つものである。
クリシュナムルティは「私は何も信じない」と言ったが、見えるものではない何かを信じているのだ。
デビルマンも言ったではないか。
「俺は誰の言うことも信じない。ただ1人、牧村美樹を除いてはな」
何かを奨める訳ではないが、神を信じる者は強い。
アメリカの硬貨には全て「我々は神を信じる」と刻印されているが、国民がそれを承認していた時のアメリカは、本当に強かったのである。
私は、小狼のようでありたいと思う。








神罰はあるか

「正義は必ず勝つ」とか「悪が栄えた試しはない」と言うが、本当だろうか?
それは本当であり、ただ、正義が勝ち、悪が滅びるのに多少の時間がかかるだけだ。
だが、要するのは「多少の時間」に過ぎない。
だから、真理を言うなら、平家物語の冒頭にある通り、
「奢れる者は久しからず。ただ春の夜の夢のごとし」
である。

少しの間なら、悪いことをしても愉快に過ごせることはある。
だが、人間というのは、「本当の喜び」を欲しがるものだ。
それは悪人も同じである。
悪人であっても、自分の子供が可愛いと思うところを見ても、そんなことが分かる。
あるいは、悪人であっても、親友や恋人や妻や夫を愛するところは同じなのである。
だが、悪人は、それらを奪い去られる。
その惨めさは地獄のようである。

あるいは、悪人であろうと、健康を望まないはずがない。
大抵の悪人は、それを容赦なく奪われるし、仮にそうでないとしたら、数倍化した精神的苦痛が与えられる。
そして、やがては健康も完全に奪われる。
つくづく、悪にメリットはない。
少し長い目で見ればね。

テレビや新聞しか見ない、あるいは、ネットでも大手のポータルサイトしか見ない人は知らないと思うが、アメリカ大統領選挙は、今も続いているし、それどころか、ますます戦いは激しさを増している。
どちらが善で、どちらが悪とは言わないが、善と悪との戦いであることは間違いない。
バイデン側から見れば、トランプ側が悪であり、トランプ側から見れば、バイデン側が悪である。
主要メディア(CNNやニューヨークタイムズ等)はバイデン側であり、一部のオンラインメディア(エポックタイムズ等)がトランプ側であると言えるかもしれない。

バイデン側から言えば、選挙で負けたのに、敗北を認めず、アメリカを混乱されるトランプ側は悪である。
トランプ側から言えば、選挙で不正を働き、民主主義を奪うバイデン側や主要メディアは悪である。

だが、上に述べた通り、悪にメリットはないのだ。
少しの間は、悪いことをしても、贅沢で快楽に満ちた愉快な時間を送ることが出来る。
だが、末路の哀れさを考えれば、私なら、それほどの悪に手を染める気はない。

キリスト教、ユダヤ教、それに、イスラム教では、神や神の代弁者の教えに背くことが悪であり、神は必ず悪を罰する。
それは、善人も悪人も知っているはずなのだ。
そのせいか、神を畏れない振る舞いを続けていると、これらの宗教を信仰する悪人は、人相が悪くなる。魂の苦しさが顔に出てしまうのだ。

仏教の中でも、浄土仏教では、仏は悪人も救う。
ところが、キリスト教でも、深くイエスの教えを理解する者は、同じ結論に達するらしい。
神といい、仏といっても、本質は愛なのだから、どんな人間も憎まない。
だが、魂自体が神であり仏なのであるから、神仏の性質とあまりに違うことを続ければ、自分で悲惨を作ってしまうことは、逆に、神が人を罰する、一般的なキリスト教やユダヤ教の教えと一致してくるのである。
だが、浄土仏教を知る者には、念仏という手段があり、素早く悪の報いを免れることが出来る。
だから、海外でも、やむなく悪に加担し、魂を傷付けている者には、念仏の教えである『歎異抄』を愛読する者は多いのである。

いずれにしろ、イエスが言ったように、「隠されたものは、必ず明るみに出る」。
念仏を知らない悪人は、神の罰を免れることはなく、必ず悲惨に遭う。
「悔い改めよ」とか「神を畏れよ」という言葉は、快楽に目が眩んだ愚か者に対して効果がないことは、だいたい分かっている。
「念仏を唱えよ」が、最後の救いである。
ただし、「神よ、哀れみたまえ」も同じである。
悪人であることを止められないなら、「南無阿弥陀仏」あるいは「神よ哀れみたまえ」「主イエスよ、哀れみたまえ」と常に唱えるが良い。
それで、早くに悪を捨てる気になれば、痛みは少なくて済むかもしれない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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