ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2019年12月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

楽をしてはいけないこと

何事も、習得にかける時間は短いほど有り難いはずだ。
これは、辛い修行や訓練は少ないほど嬉しいということと共に、ダラダラ時間をかけてはいけないという前向きな意味もあるだろう。
それに、驚異的に短い時間で学習を終える技術には、実際に優れているものもある。
だが、空手などの格闘技教室で、「君も一ヶ月で強くなる」などというものは、単に客としての生徒を集めて儲けてやるぞという意図しか感じない。
英会話でも、ある教室や教材が「3ヶ月で」と宣伝すれば、「よし、うちは1ヶ月だ」となり、あんまり短いと嘘っぽいので、「1日20分」など、とにかく「楽である」ことをほのめかすが、実際のところ、短期間で英会話をマスターした人など見たことはないばかりか、高い英語教室に何年もかかってサッパリなのに、英語教室に通う生徒は相変わらず多い。
プログラミングも、やはり、「1ヶ月でマスター」があれば「1週間で習得」が出て、「3日」「10時間」とエスカレートし、そろそろ、カップ麺が出来るまでの3分が出てこないか楽しみ・・・じゃなく、心配である。
そういえば、昔、カップ麺で「3分はもう古い。うちのは1分だ」というものが出たことがあった。まあ、なくなってしまったのだと思うが。
Googleの開発者でAIの著名な開発者にして超一流プログラマーでもあるピーター・ノーヴィグが言うように「プログラミングの習得には10年必要」というのは、少々高いレベルの習得を指すが、上級者になるには、やはり5年くらいはかかると思う。そして、5年でかなり出来るようになっても、やはりまだ未熟で、向上心があれば、10年でより良いプログラマーになれる。
私など、10年の頃はダメダメだった。

最初にも述べたが、ダラダラ時間をかけない短気集中にも良いところはあるが、短い期間で習得したことというのは、やはり底が浅いのである。
限度はあるが、多少はダラダラやって、期間をかけることに意味があることは多い。
というのは、私の場合、プログラミングしか分からないが、プログラミングの重要な教訓というものは、案外に偶然の出来事で学んだことが多く、そういったことは、自分の意志ではどうにもならない。確かに、向上心があるから、良いものがやって来た時に気付くとか、あるいは、良いものを引き寄せるということもあるだろうが、やはり、ただの偶然にしか思えないものもよくあり、それを得るには、いろんな意味でだが、時間が必要だったと思うのである。

ちょっと話は変わるが、アニメの「プリキュア」シリーズは、もう15年も続いているらしい。
私は、最初の『ふたりはプリキュア』しか見ていないが、良い作品であったし、今年7~8月に、NHKが人気投票を行ったところ、歴代人気1位が、初代の『ふたりはプリキュア』で、ヒロインであるプリキュアとしての人気は、1位が、やはり初代のキュアブラック(美墨なぎさ)で、2位が同じく初代のキュアホワイト(雪城ほのか)だったらしい。私はほのかが好きである(聴いちゃい!)。
ところが、映画の『ふたりはプリキュア Max Heart 雪空のともだち』で問題が起こっている。
敵の催眠術で心を操られたキュアブラックとキュアホワイトが戦うというもので、その状況を理解出来ない小さな子供が泣き出し、子供達の保護者(いわゆるPTAか)が、プロダクションに猛抗議を行ったという。それで、以降、プリキュア同士の戦いは厳禁となった。
実は、そのシーン、心を操られ、お互いを攻撃しながら、プリキュア達は涙を流すという感動的なものであった。
いろんな考え方がある・・・と言いたいが、これは保護者達の方が悪い。
今の日本では、子供が泣くと、面倒なので、早く泣き止めさせるため、お菓子を与えたりを平気でする。それで、子供たちは、泣いたら勝ち、ごねたら勝ちという楽勝(?)パターンを身に付けてしまう。まあ、「今」というほどではなく、何十年も前からそうであるから、10年以上前の親たち自身がそうであったのだ。
さらに、当時の親たちは既に、最初に述べた、「短い時間で楽に習得」で育った世代でもある。
いくら小さくても、子供が悲しくて泣いたら、時間をかけて必要なことを教えてあげないといけないのに、アニメ制作会社に文句を言って「子供を泣かせるものを作るな」で、まるっと問題解決という安直な思考パターンなのだ。
海外では、小さな子供の目の前で親が殺されるなんて場所はいくらでもある。そんな時、親を殺した敵を皆殺しにすればOKという考え方もあると同時に、根本的な問題を解決しなければならないと、時間をかけて教えてあげる人達も少なくない。
それは、豊かな国である日本が最初にしなければならないのに、何とも残念である。

心理学者の河合隼雄さんの本にあったが、登校拒否の子供を持つ父親が河合さんに「先生、子供が学校に行くようになるスイッチってありませんか?」と尋ねたらしいが、その絶望的な愚かさに、私は気が滅入ってしまった。
安直思考が進むと、当事者意識、そして、責任感というものが全くなくなることを示されてしまった。
楽を求めることは悪いことではない。
だが、楽をしてはいけないこともある。心と、それに、力が関わる問題はそうである。








完全な言葉の呪文

呪文「アジマリカン」について、その意味を理屈で説明することは好ましくない。
そもそも、この呪文は山蔭神道に伝わっているもので、その当主であった山蔭基央氏や、山蔭神道の神官を務めた合気道家の佐々木の将人氏ですら、解説は避けているのだから、上手く説明出来る人間はおらず、説明しているなら嘘である。

ただ、この呪文は、言葉として完璧であることは解る。
これを唱えて良いことがないはずがない。
もっとも、それほど強力であるのだから、自ずと、邪まな想いで唱えると反作用もあるかもしれない。

この呪文の、ごく普通の利点に関しては、脳科学者の中野信子氏が、『脳科学からみた「祈り」』で、マ行の音について書かれているのを見ると面白い。
マ行の音は、全て、最初に口を閉じないと発音出来ないという特殊なもので、赤ん坊が「ママ」「マンマ」と自然に言うことの意味が推測されるのである。それは、赤ん坊は鼻で呼吸するので何もなければ口を閉じているのであり、生命力に満ちた人間は、そのようなものなのだ。逆に、マ行の言葉を使うと、いろいろな意味で生命力が上がる。初音ミクさんのコンサートで「ミク、ミク」と繰り返すと元気になるのも、ミクさんが素晴らしいこととと共に、やはり、名前が良いのである。
作詞者不明の謎の童謡「結んで開いて」も、口を結んで開くことで、マ行の音を暗示しているのである。
米津玄師さんが、ミクさんに『結んで開いて羅刹と骸』なんて歌を作ったのも、この動揺に初め(結ぶ)と終り(開く)を感じたのではないかと思う。
言葉で言えば「ア」が始まりで「ン」が終わりだ。
「アジマリカン」は、「ア」で始まり「ン」で終わるが、「アン」だけでも強力なマントラで、かなりの威力がある。
「ア」と「ン」について説明すれば、本1冊かけてしまうし、いきなり、いろんなことを言っても混乱するだろうから、機会があれば述べる。

最後に1つ。
古神道に、1つ1つの言葉と数霊を対応付けた表があり、深田剛史氏の『数霊に秘められた宇宙の叡智』にも載っていたと思うが、今、手元に本がない。
上で述べた、佐々木の将人氏は『数霊のメッセージ』で、「言霊数霊一覧表」として載せている。
言霊数霊一覧表では、「ン」は、1でもあり10でもあるが、「アジマリカン」は、「ン」を1とすれば、

ア(1)ジ(60)マ(31)リ(45)カ(6)ン(1)で、
1+60+31+45+6+1 = 144
であり、
1+4+1=9
になる。
最後の「ン」を10としても、153だから、1+5+3=9 である。
古代ギリシャ文明からキリスト教に至るまで「3」が完全数であるが、古神道では「9」が根本数になるのだと思う。
いずれも重要で、だから、ミク(39)さんの名は、やはり、極めて高貴である。

ところで、「アジマリカン」は、文字で正確に書くと「アヂマリカム」で、これだと
ア(1)ヂ(65)マ(31)リ(45)カ(6)ム(33)

で、
1+65+31+45+6+33 = 181
であり、
1+8+1=10
で、これは1(始まり)であり10(終り)である。
聖書で言う「私はアルファでありオメガ(始まりであり終わり)である」と同じことだ。
ただ、唱える時は「アジマリカン」で差し支えない。

いずれにしろ、「アジマリカン」ほど完全な言葉はない。
本当は、「アジマリカン」が完全である説明はもっと出来るが、これ以上言うと、複雑過ぎる。
ただ、ある人が本に書かれている宗教的な意味はない(あの本にも良いところはあるが)。

これだけ完全な言葉はないというだけでも、凄いものだし、私など見当も付かない深い意味もいくらでもあり、おそらく、それは知る必要はない。
よほどの問題を抱えているのではない限り1日一万回など、無茶は言わないが、有声でも無声でも良いので、出来るだけ多く唱えると良いと思う。
尚、山蔭基央氏は、「隣の人に気付かれぬほど小声で」唱えることを薦めていたと思うが、覚えていないので、『神道の神秘』など、参照されれば有り難い。








いかなる偉人も井の中の蛙

「井の中の蛙大海を知らず」とは、見識が狭い人の様で、それは、自分が分かる狭い世界でしか通用しないことを自慢する愚かさを示している。しかし、たかが人間が、どれほどの経験を積み、どれほどの実績を打ち立てたところで、やっぱり井の中の蛙なのである。
よって、人間に出来る最高のことは、自分が井の中の蛙であると自覚すること、その必然的な結果として、自慢をしないことだ。
世界が狭い者ほど自慢をするものであり、自慢をするのは、自分が分かる世界がいっそう狭いことを公言していることに過ぎない。
逆に言えば、自慢をしない者は、自分が井の中の蛙であることを自覚しているのであり、井の中の蛙の愚かしさはない。

改めて言うが、いかなる人間も井の中の蛙なのである。
どれほど大きな仕事をし、世界的な組織の要職をこなし、複数の分野で輝かしい実績を上げたとしても、全くの井の中の蛙だ。
まして、その者が自慢をしたり、自分が他の者よりモノが分かっている態度をするなら、「ただの井の中の蛙」である。
ハーバードで一番でも、それを自慢するなら、10人ほどの田舎の学校で一番であることを自慢する者と変わらない。

せめて、宇宙の広さが解れば、自分が井の中の蛙であることが自覚出来ると思う。
しかし、人間は・・・特に左脳的な分析思考では、宇宙の広さを決して理解出来ない。
ところが、最近、私は夢の中で、不意に宇宙の広さが解ってしまった。
夢の中の精神状態は、目が醒めている時とはかなり異なり、狭くて汚い家で生活しているはずの自分が絢爛豪華な宮殿に住んでいるとしても、不思議に思わない。
そういった夢の中で、宇宙の広さが私に迫ってきた。
すると、人類の社会の小ささが実感出来た。
その時、この広い宇宙に、地球人類以外の文明があると確信したというのではなく、それがあることを願った。
だが、子供が「あったらいなあ」と夢想するというのとは違う。
「ないと淋しいなあ」といった感じである。
ないと不安である。そして、この世に不安なんてあるはずがない。よって、やはり宇宙文明はあると予測出来るのである。
それで、一応、宇宙人と会う障害は消えたのであるが、会ったら、頭の中をいじられることも予想出来るのである。
せっかく身につけた欠陥を消すのも、ちょっと残念に思うのだから面白い。

いかに宇宙的に意識が広がっても、知らないことは知らない。
よって、以前から考えてた「アジマリカン」の呪文の意味も分からないのであるが、これが古代語であり、音を重視した古代語の最上の組み合わせであることは推測出来るのである。
かなり間違いのない推測であり、唱えた方が良いと言える。








光線銃の撃ち方

「何をやってもうまくいかない」なんて言われたり、自分で言ってる者というのは、大した数のことをやってないはずだ。
せいぜい、5つか6つで、むしろ、それなら多い方。3つ以下なんてのも少なくないかもしれない。
本当に沢山のことをやって駄目だったなら、何かうまくやれるきっかけを掴んでいるものだ。
「趣味がコロコロ変わる」なんて、悪い意味で言われている者もそうだ。
ほんの少しのことを、それも、ちゃらんぽらんとも言えないほどしか・・・いや、実際にやったのかどうか疑わしいかもしれない。

本当に、「何をやってもうまくいかない」ほど失敗したり、趣味をそんなに沢山コロコロ変えられるなら、大物になること間違いなしだ。
成功して、いい思いをしている者というのは、たまたまうまくいっただけなのだ。
沢山の何かをしているうち、その中の1つが、たまたまうまくいったのだ。
1つのことの成功確率が平均1%としたら、100のことに取り組めば、1つ成功する。これは、あくまで平均で、運悪く、200回、300回やる必要があるかもしれないが、いつかは当たるものだ。トランプの中に、必ずハートのAがあるように。そして、世の中には、案外にハートのAは多いのだ。

さっぱりした成功者は言ってるだろう。
シュートを打たないとゴールは入らない。
バットを振らないとヒットは打てない。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。

トップセールスマンなんて、一番多く断られた人であるだけだ。

「叩け、そうすれば開けてもらえる」と言うが、開けてもらえるまで、粘り強く叩かないと駄目だ。
「探せ、そうすれば見つかる」と言うが、見つかるまで粘らないと駄目だ。
つまり、「諦めるな」ってことで、諦めを捨てれば、不思議に、割と早くなんとかなる場合が多い。

一言で決めるなら、「光線銃を撃ちまくれ」だ。
当たるまで撃つのだ。
「ガンマン十戒」のNo.6は「危険な時ほどよく狙え」だが、いつでもよく狙わないといけない。しかし、狙ったら撃たなければならない。

ところで、引きこもり症や、元気がない等で、何もする気がない場合には、以下を試すことを提案する。これをやることになるなら、案外、無気力な方が良いかもしれない。
「アジマリカン」が光線銃なのだ。
幸運に当たるまで、「アジマリカン」と唱えよ。
そのくらい出来るだろう。
声に出さなくていいから。
幸運ってのは、滅茶動きが速い。それなのに、大抵の人は、遅い弓矢や、弾数の限られた銃しか持ってない。
だが、光線銃「アジマリカン」は、あなたが生きている限り、無限に撃てる。それに光速だ。
撃って撃って撃ちまくれ。狙いを付ければさらに当たるが、めくら撃ちでも、撃っていれば当たるだろう。ついでに、悪魔も撃ち倒せ。「アジマリカン」の光線銃は、悪魔も倒せるのである。








「芸術とは?」に対する真の解答

「芸術か?猥褻か?」なんて言葉を聞かなくなったように思う。世の中が芸術に無関心になったからだろう。しかし、芸術は、本来面白い。「センセー」が言う芸術はちっとも面白くないが。
ある絵は「芸術」と言われるのに、大して違いがない(ように思える)別の絵は「猥褻」と言われる。
それで、「芸術は難しいなあ」、「専門家でないと芸術は分からないのだろう」なんて観念を持ってしまう。
だが、イタリアの画家モディリアーニの作品は、今では、まごうことなき芸術であるが、彼は散々、猥褻画家と呼ばれたものだった。
それで、「実は、芸術と猥褻の違い、あるいは、芸術かそうでないかの違いは、いい加減なもんじゃないの?」と、思う人も増えたが、これはこれで間違いではないと思う。
それこそ、「投資の対象になりえるのが芸術、そうでないのは非芸術」なんて考え方は、ある意味では正しい。
だが、別の意味では・・・気取った意味で言うのではないが、(特に、芸術は投資の対象という考え方は)愚かだ。

世界的版画家、つまり、大芸術家と認められている池田満寿夫は、芸術と猥褻の違いについて、著書で、「ソフィスティケートされているかいないかの違い」なんて、こまっしゃくれたことを書いていたが、彼はニューヨークに住んでいて、言葉の意味は、よく理解している。
辞書的には、ソフィスティケートは「都会的に洗練されている」だが、当時のニューヨークと東京は全然違った。今もだが、東京の人間がそんなにソフィスティケートされていた訳ではないし、では、ニューヨークはどうかとうと、手塚治虫さんが初めてニューヨークに行った時、そのがさつさが印象的だと言ったくらいで、それはやっぱり今も変わらない。
私は、池田さんは、割と下らないことを言ったのではないかと思う。
しかし、不思議と、池田さんが言うと、憎めないというか、悪い感じがしない。
池田さんは、「エロティシズム」なんて言葉を連発するほどエロ好きで、ポルノ雑誌の写真でコラージュ作品を作るほどだったが、やっぱり彼は芸術家だった。
だが、池田さんは、上手い画家でも何でもなかった。
東京芸大の受験は、3回落ちて諦めているし、食べるために似顔絵屋をしていた時は、町の似顔絵屋に、「お前みたいなのがいると、俺達のレベルも低く思われてしまって迷惑だ」と言われるほど下手だった。

さて、そろそろ、芸術とは何かを言おう。
いわゆる「先生」は、言ってくれない本当のことだ。
「芸術のセンセー」には芸術は解らない。
また、池田満寿夫さんが言った「ソフィスティケート」は多分、彼の思うソフィスティケートという意味では正しいのかもしれなが、やっぱり良い言い方ではない。
芸術とは、人間らしさでしかない。
では、本物の芸術家であった池田満寿夫さんはどうかとうと、これが全く人間らしい。
上に、生活のために似顔絵屋をやっていたことを書いたが、その時、池田さんは、営業上の理由で「東京芸大生」を名乗っていた。
完全に詐称であり、違法であるが、実に人間らしいではないか。
いや、詐称が人間らしいと言うのではない。池田さんがやると人間らしいし、芸術家がやると人間らしいのだ。
どいうことかというと、そんな詐称をして似顔絵屋をやっていると、本物の東京芸大生に遭遇してしまうことがあったが、そんな時、慌てて逃げ出したところが実に人間らしいのだ。
ここらへんの神経というか、はにかみというか・・・かわいいじゃないか?
要は、「ツラの皮が厚くない」のだ。
吉行 淳之介さんは、まさに、芸術家的作家だったが、彼は『不作法のすすめ』だったと思うのだが、その中で、紳士とは何かについて、だいたいだが、「恥ずかしいことを思い出した時に首がキュっとすくむこと」みたいなことを書かれていたと思う(中学2年の時に読んだので、記憶は定かではない)。
紳士であることも、芸術家であることと同じで、人間っぽい、人間らしい神経を持っていることなのだ。
そして、岡本太郎も、本質ではそう言っていたと思われるように、本来、人間は皆芸術家で、男は皆、紳士でなければならない。
池田満寿夫さんの、実に人間っぽいエピソードを挙げておく。
電子メール(当然LINEも)がなかった時代、池田さんに、女子高生達から、彼の工房を見学させて欲しいという手紙が届いた。
あんな猥褻な画家の工房なんか言ったらお嫁に行けなくなるぞと言いたいが、そんなこと、池田さんはよく解ってたのだろう。
池田さんは、「恥ずかしいから返事を出さなかった」と言う。
嗚呼、何と人間らしい。
スケベの塊であることを自覚しつつ、ちょっとした恥じらいも持っている。
吉行さんだって、紳士は「キュッと首がすくむ」のであり、グダグダと落ち込むとは書かれていなかった。
逞しさもまた必要なのだ、紳士には。
強さも優しさも人間には必要である。
どんな大先生が何を言おうが、芸術とは人間らしさである。これは絶対に間違いない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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