ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2019年07月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

超能力復活計画

そろそろ、本格的に超能力を復活させようと思う。
いや、真面目とも言えないが冗談ではないし、不真面目ではないのだが、それほど生真面目でもない。
そう、何事も、9割のいい加減さと1割の生真面目さが大事なのだ。

ただの珍しい偶然に、過大な意味を持たせるのは考えものだ。
しかし、奇跡としか言いようのないことを、意図的に何度も起こしていたのなら、それは必然だし、自分の意志が働いたものだ。
それを、一応、超能力と言っているのである。
現実を自在に創造する。
イメージとしては、H.G.ウェルズの『奇跡を起こせる男』のようなものだが、まあ、あそこまで露骨で下品ではない。
とはいえ、ウェルズだって、未翻訳だが、自伝的小説『ポーリー氏の生涯』で、「人生が気に入らないなら変えてしまえば良い」と言い、それが、コリン・ウィルソン(イギリスの世界的作家で、最も多く日本語訳されている作家とも言われる)の座右の銘となっている。

私の超能力は、子供の時が最も頻繁に起こったと思うが、二十歳過ぎても、結構使えてたし、馬鹿げたほどの奇跡も起こしたものだ。
よく取り上げた話では、以前見た時代劇のある回を録画したくて、ただ録画装置を持ってテレビを見ていたら、本当にそれが始まり、録画出来たのだが、私は特に驚いてはいなかった。
ごく単純に言えば、超能力発動の鍵は、信じきって疑わないことだが、別に、信じようとした訳でもない。
いわば、「疑うことを知らない馬鹿」状態だったのだが、それで子供の時、何度も命拾いしているのだから、まさに馬鹿は尊い。
何をやったかというと、交通量の多い車道に目をつぶって飛び込んだのだ。何度もね。
ただ、「車は来ない」って思ってね。
いや、これは絶対、真似しないで欲しい。
とはいえ、日常では、嫌な先生に嫌な目に遭わされていたし、学校での忘れ物が多いことも改善されなかった。
おそらく、そういった場面では、馬鹿になり切ることが出来ないからだと思う。

偉大なる神道家、黒住宗忠は、阿呆になる練習に励んでいたと言うから、私の言うことも、あながち間違ってはいないかもしれない。
宗忠のイエス並の超能力は、もちろん、どこまで本当かは分からないが、ある流れを感じ、私には信用出来るもののように思えるのだ。
阿呆と言っては失礼だが、私が好きな話がある。
プロレスラーだった前田日明さんがプロレスラーになったきっかけが、ウルトラマンの仇を討つためだったということだ。
ウルトラマン(初代)は、最終回で宇宙恐竜ゼットンに破れたのだが、前田さんはテレビでそれを見て、涙を流して悔しがり「俺が仇を討ってやる」と誓ったらしい。
前田さんは、その時、それほど幼かった訳ではないし、本人も、理屈には合わないことは理解していたらしい。
しかし、そんな思い込みが出来ることが、世界を創造するために必要なのだと思う。









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ビバ(万歳)

パム・グラウトの『こうして、思考は実現する(2)』という本は良かった(『こうして、思考は実現する』より良いと思う)が、その中で、たびたび「ハレルヤ!」と叫べと書かれているのを見て、当然、それは日本人向けではないと思った。
「ハレルヤ」とは、Wikipediaによれば「神をほめたたえよ」という意味らしい。
ユダヤ教由来の言葉で、キリスト教にも引き継がれているのだと思うが、そのような言葉としては「ホサナ(オサンナ、ホザンナ)」があり、こちらは元々は「どうか救って下さい」といった意味らしいが、特に意味は考えずに神を賛美する言葉であるようだ。
「ホサナ」は、雰囲気としては、「万歳」と同じようなもので、「ハレルヤ」や、あるいは、「アヴェ・マリア」も同じではないかと思う(キリスト教徒からそう聞いたこともある)。
そもそも、「万歳ってどういう意味?」と聞かれても明確には答え難いが、やはり、何かを称賛するとか、「めでたい」といった感じであると思う。

そこで、パム・グラウトの奨めに従うなら、「万歳」と叫べば良いと思ったが、よく考えると、全くそれで良いように思う。
何かあるごとに「万歳」と言っていたら、そう気分は悪くならないだろう。
英語に万歳はないが、「ブラボー」や「イェイ」あたりが似た雰囲気で、「ハレルヤ!」の代わりにそう叫んでも良いだろう。
そして、「ブラボー」や「イェイ」なら、日本人でもそう違和感はないだろう。
ちょっと前に若者がよく使った「ビッバー」はスペイン語の万歳のような言葉「ビバ」で、イタリア語では「ヴィヴァ」になるらしい。
フランス文学にあまり興味がなくても、アルフォンス・ドーデの『月曜物語』の1つ、『最後の授業』で、最後に教師が黒板に「ヴィーヴ・ラ・フランス」と書くのを覚えている人は多いと思うが、これは「フランス万歳」と訳される。

Mitchie Mさんによる初音ミクさんの歌で、昨年の「マジカルミライ2018」でも歌われた『ビバハピ』では、「ビバ! ビバ! ハッピー 」と歌うのが楽しいが、「ビバ(スペイン語の万歳)」と「ハッピー」を組み合わせるのはとても良いと思う。
同じ「マジカルミライ2018」で歌われた、halyosyさんによるKAITO兄さんの『あったかいと』で、最初はちょっとタイミングが難しかったが、「イェイ!」の掛け声が入るのがとても良かった。「イェイ」も万歳に近いと思えることは上に書いた。

「万歳」「ビバ」「イェイ」「ハッピー」「ラッキー」などは、万能呪文として用意し、いつでも使うと良いだろう。
これを使うのと使わないのとでは、人生、かなり変わるかもしれない。
尚、自主的に言う「万歳」は良いが、言わされる「万歳」は総じて悪い。
全部とは言わないが万歳三唱など、私は御免である。









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こせこせしない

仙道家の高藤聡一郎さんの本で見たが、高藤さんが若くて貧乏だった時、彼が金持ちの社長さんに、
「金なんて、何やっても入ってくるじゃない」
と言われる話があったが、私も昔、成功している事業家から、
「金を儲けるのは簡単だ。難しいのは使う方だ」
と言われたことを覚えている。
ところが、普通のサラリーマンは、文字通り、自分がサラリー(給料)以外で金を稼ぐことなど全く出来ないと思っている。
だが本当は、自分はサラリー以外でお金を得ることは出来ないと思い込んでいるから、実際にそうなっているだけである。
そして、彼にそう思い込ませたのは、親や学校やテレビなのだ。
一方で、高藤さんの本に載っていた社長さんや、私が知っているあの事業家は、お金を手に入れる良い方法があることを信じているのだ。
「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎は、金に窮していることを訴える男に、
「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」
と言ったという。

さて、全てを、特殊な、そして、あいまいな言葉でなく、ありふれた、そして、はっきりした言葉で言わなければならない。
腹に力があるとは、腹が据(す)わっていることで、腹が据わっているとは、落ち着いていてどっしりしていることだ。
落ち着いてどっしりしているとは、心が広いことで、心が広いこととは偏見がないことで、偏見をなくすには、それほど大事でないものに対する執着(こだわり)を捨てれば良い。
多くの人間が、いかに、どうでも良いものを後生大事にしていることか。
例えば、学歴、出身校、学校で学んだ知識、肩書き、所属する会社名、評判といったものだ。
こういったものにこだわる限り、楽に金を得ることは出来ない。
つまるところ、お金はエネルギーであり、心を狭めれば、エネルギーの流通が悪くなって、お金も入ってこないのだろう。

お金持ちは、小さなことにこだわっていられない状況に長くいたせいで、ものごとにこだわらなくなったという場合が多い。
矢追純一さんの本で見たが、彼が中国にいた子供時代、集団で盗みをやって逃げている時、前を走っていた泥棒仲間のおじさんが、撃たれて頭を吹っ飛ばされたり、隣に座っていた友達が不意にもたれかかってきたと思ったら、流れ弾に当たって死んでいたりしたが、それが日常茶飯事になると、そういったことが起こっても、何とも思わなくなるそうだ。
矢追さんが大金持ちかどうかは知らないが、彼が高校1年生の時、母親が死んだので(父親はとうの昔に亡くなっていた)、妹2人を養っていたが、別に苦労も感じず、毎晩、飲み遊んでいたらしい(夜までは仕事)。
自分がいくら持っているかはどうでもいいことなので分からないらしいが、家でも美術品でも、欲しければ即決で買って、支払いで問題が起こったことはないそうだから、やっぱり金はあるのだろう。
人間、なりふり構っていられない状況を経験するのは良いことであるに違いない。









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四股と鉄砲

私が、先月(2019年6月)23日に始めた四股踏みは、一ヶ月を越えたが一日も欠かさず続けている。
初めの頃は、一度に数十回、一日で百回程度だったが、ある時から、一度に百回、一日では、平日は300回、休日は500~600回である。
以前、何度か書いたが、私の四股は、相撲の四股とはやや異なり、大東柔術の達人、佐川幸義さんがやられていたものを参考にしたものだ。
佐川さんの高弟で、数学者でもある木村達雄さんは、佐川流の四股を一日に千回以上、多い時は一万回も踏んでいたらしい。
佐川さんは、四股を非常に重要視していたらしく、その効果について「腰を作る」という抽象的な言い方をしていたようだが、少しは分かる気がする。
私のやり方は、自然に立った姿勢から、片脚を斜め前に上げ、柔らかく降ろし、降ろした後で、やや腰を落とすというものだ。基本的に、佐川式と同じと思う。
私は、まだ始めて一ヶ月だし、回数も少ないので、四股についてそれほど解る訳ではないが、単なる筋肉のトレーニングとは異なる、未知なる効果があるのではと感じている。
私は、長い間、スクワットをやっていたが、スクワットは苦しい運動で、無理にやっていたところがあるし、油断をすると身体を痛めることも少なくなかったが、四股は楽しく、毎日進んでやりたいと思うもので、思いついた時に、準備運動なしでやっても、最初の数回を特に柔らかくやれば、身体を痛める恐れはない。

ところで、腕立て伏せは相変わらずやっていたが、腕に関しても、良い運動がないかと思っていた。
相撲には、鉄砲という独自のトレーニングがある。
テレビで見たことがあるが、太い柱に布を巻き、これを手のひらでバシッ、バシッと突くのである。
これは、良いところもあると思うが、私には向いていない。
そこで、四股を参考に、こんなことを始めた。
腕立て伏せの姿勢で、やや脚を開き、片手をすっと上げる。上げると言うよりは引くという感じだ。腕を上げると、身体もやや傾く。
そして、上げた腕を、柔らかく床に降ろす。
これだけで、いわば、四股をそのまま腕でやるような感じだ。
やってみると、ほんの少し、身体がねじれる感じで、全身に心地良い刺激があり、始めて一週間程度ということもあり、30回もやれば、ややシンドイが、悪いシンドさではない。
皆さんも、一度はやったことがあると思うが、腕立ての姿勢で、脚を誰かに持ってもらって、腕で歩行するというトレーニングがあるが、あれとやや似た感じもする。
この、腕でやる四股を、何と呼ぼうか考えた。
腕四股、床鉄砲・・・あたりで良いと思うが、四股同様、こちらも、相撲式に鉄砲と呼ぶことにする。
私が四股を踏むきっかけになった、楽進さんのコメントの通り、私の四股を「なんちゃって四股」、鉄砲を「なんちゃって鉄砲」と呼ぶのも楽しくて良いと思う。
私は、敬愛する貝木泥舟(かいきでいしゅう。西尾維新さんの小説『物語シリーズ』のキャラクター。中年詐欺師だが、得たいの知れない男)同様、偽物・・・即ち、「なんちゃって」が、大好きである。









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一割の理性

昨日も書いたが、人間は、心配をしなければ、安心していれば、何でもうまくいくし、全てうまくいくと思って安心していると、本当にうまくいく。
しかし、医者が、心配してやるべき患者の心配をせず放置したため、患者が全身麻痺になったり、死んだりする例は少なくない。
教師が、心配してやるべき生徒を心配せず、手を打たなかったため、生徒が深刻な状況に陥ってしまうことも多い。
本当に、これは何なんだろうと思う。
だが、このことを理屈で考えていくと、複雑になって混乱し、収拾がつかなくなる。
答はシンプルなはずなのだ。

つまり、人間、9割はいい加減で良いが、1割の理性を持っていなければならないのである。
先日、亡くなられた敬愛すべき賢者、竹村健一さんはよく「僕なんか、ええ加減ですよ」「ええ加減が一番ですよ」とよく言っておられたが、彼は9割いい加減でも、1割は真面目だったのだ。
ところが、ある東大出の仏教学者が、「良い『いい加減』は、仏教で言う中道のことで、これは『いい湯加減』です。しかし、中庸は『ぬるま湯』なんですよ」と、うまいことを言ったが、こんな理屈では何も変わらない。
最初に述べた、患者を殺す医者や、生徒を破滅させる教師は、1割の理性も放棄したのだ。

いや、まだ違うなあ。
安心の仕方も大切なので・・・と、だんだん理屈っぽくなると、そろそろ混乱するので、早く結論を出さねばならない。
一休さんは、弟子への遺言の封を閉じ、「本当に困った時に空けよ」と言って渡した。
そして、弟子達が、本当にどうにもならない状況に陥った時に、それを開くと、「心配するな。なんとかなる」と書かれていた。
大切なことは、「なぜ、なんとかなるか」である。
ラマナ・マハルシは、「汽車に乗っているのに、自分の荷物を頭に乗せて苦労する必要はない。荷物を降ろして安心しなさい」と言ったが、これは、神の万能の力を汽車の力に喩えたのだ。
因幡の源左(いなばのげんざ)は、牛に3束、自分も1束、草を運んでいたが、どうにも疲れたので、牛に自分の分も乗せたら、牛は全く平気だった。それを見て悟ったという。この場合、仏の力を牛の力に喩えて解ったのだ。
一休も、「仏が守ってくれるから心配するな」と言ったはずなのだ。
だが、患者を殺す医者とは、汽車にも乗らないか、荷物を忘れる者だし、草を刈らなかったり、牛を導かない者である。
神も仏も、そんな者はどうしようもない。

こういったことを、ひっくるめてうまく言ったのが、スーフィー(イスラム教神秘主義)の格言、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
である。
少し長く言えば、
「神を信用して安心しろ。だが、ラクダは自分でつないでおけ」
ということだ。
アメリカの公式モットーは、
「イン・ゴッド・ウィ・トラスト(我々は神を信頼する)」
である。
しかし、やはり一言足りないのだ。
これに、Googleのモットーをくっつければ良い。
「我々は神を信頼するが、邪悪にならない」
私は、スーフィーの言葉の方が好きであるが。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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