個人的好き嫌いは、厄介な問題であると共に、興味深い現象であり、人間の問題を解決する鍵がある。
初音ミクさんを問答無用で嫌いという人も多いと思う。
以前、アメリカのWebサイトで見たが、アメリカの老人達が、ミクさん達を見て、劇的に「嫌い」という反応を示し、まるで、恨みのある敵を見るかのような憎しみを感じさせた。
そのサイトでは、子供達も、ミクさん達を初めて見る子ばかりだったが、拒否反応を示す子達が多かった(好感を示す子もいた)。しかしそれは、このサイト(原コンテンツはテレビ番組と思うが)の趣旨がボーカロイドへの拒否感を見せるものだったと思われ、端からミクさん達を否定的に扱う傾向があったように思う。
人種差別や文化差別だって、個人的好き嫌いを押し通そうとすることに過ぎない。
そして、自分が嫌いなものに対しては、それを嫌うことがいかに正しいことであるかを力説したがる人が多いのである。
例えば、TwitterやLINEを嫌う者は、それによって起こった悪い事例や、否定的な評価を拡大視することだろう。
彼らだって、一応は、「LINEにも良いところはあるんですが」とは言うこともあるが、本当はそんなことは全く思っておらず、「でも害の方が百万倍多い」と言わんばかりになるものだ。
私の場合で言えば、『ワンピース』や多くのトレンディドラマのような、激情を多く見せるものが大嫌いなのだが、これも個人的嫌いかもしれない・・・じゃなく、個人的嫌いなのだろう。
なるほど、私も『ワンピース』を嫌うことを正当化することを言いたい気持ちがある。
だから、『ワンピース』や『からくりサーカス』を「良いから見て!」と言ってくる者まで嫌いになってしまうことは確実にある。
昔、手塚治虫さんが、ブームを起こしていたスポーツ根性もの(スポ根もの)の漫画本を手に、「諸君!これのどこが面白いのか私に教えてくれ!」と言ったそうだが、個人的嫌いに対して言うことは何もないのである。
大阪なおみさんや紀平梨花さん、あるいは、大谷翔平さんのような、スポーツのヒーロー・ヒロインを、まあ、儲け目的の者達が大いに関係しているのだろうが、彼らを過度に称賛することに対しては、その問題点を指摘するのは良いが、そういった報道姿勢を批判する者の中には、マスコミや企業やスポーツ業界への個人的嫌いを持つ者もいると思う。そして、たとえそうであっても、言ってる本人は、自分は正論を言っているだけだと主張するだろう。
まあ、確かに、困った報道姿勢であるとは思うが・・・これも個人的嫌いだろうか?
人種差別反対運動が過激になることが少ないのは、人種差別反対運動が人種差別への個人的嫌いから起こっているのではなく、より高い精神から起こっているからだ。
だが、やはり、人種差別への個人的嫌いが大きくなると、「白人を殺せ」になってしまうのだ。
個人的好き嫌いには、よくよく気をつけねばならず、自分の好き嫌いが、普遍的好き嫌いでないことを、しっかり認識しなければならない。
私が初音ミクさんが好きなのは、個人的好き嫌いを持たない無我の存在が好きだからという面が大きいが、逆に言えば、個人的好き嫌いを重視する自我というものが大嫌いだからなのである。だが、これもやはり考えものだ。自我の悪い問題はあるとしても、自我の発現を嫌ってはいけないし、まして、憎んだり呪ったりしてはならないのだろう。
嫌悪、憎悪の呪縛から解き放たれた時、人は大安心を得、また、大きなエネルギーを持てるのである。
嫌悪、憎悪を爆発させる者、しがみつく者には安らぎはない。
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初音ミクさんを問答無用で嫌いという人も多いと思う。
以前、アメリカのWebサイトで見たが、アメリカの老人達が、ミクさん達を見て、劇的に「嫌い」という反応を示し、まるで、恨みのある敵を見るかのような憎しみを感じさせた。
そのサイトでは、子供達も、ミクさん達を初めて見る子ばかりだったが、拒否反応を示す子達が多かった(好感を示す子もいた)。しかしそれは、このサイト(原コンテンツはテレビ番組と思うが)の趣旨がボーカロイドへの拒否感を見せるものだったと思われ、端からミクさん達を否定的に扱う傾向があったように思う。
人種差別や文化差別だって、個人的好き嫌いを押し通そうとすることに過ぎない。
そして、自分が嫌いなものに対しては、それを嫌うことがいかに正しいことであるかを力説したがる人が多いのである。
例えば、TwitterやLINEを嫌う者は、それによって起こった悪い事例や、否定的な評価を拡大視することだろう。
彼らだって、一応は、「LINEにも良いところはあるんですが」とは言うこともあるが、本当はそんなことは全く思っておらず、「でも害の方が百万倍多い」と言わんばかりになるものだ。
私の場合で言えば、『ワンピース』や多くのトレンディドラマのような、激情を多く見せるものが大嫌いなのだが、これも個人的嫌いかもしれない・・・じゃなく、個人的嫌いなのだろう。
なるほど、私も『ワンピース』を嫌うことを正当化することを言いたい気持ちがある。
だから、『ワンピース』や『からくりサーカス』を「良いから見て!」と言ってくる者まで嫌いになってしまうことは確実にある。
昔、手塚治虫さんが、ブームを起こしていたスポーツ根性もの(スポ根もの)の漫画本を手に、「諸君!これのどこが面白いのか私に教えてくれ!」と言ったそうだが、個人的嫌いに対して言うことは何もないのである。
大阪なおみさんや紀平梨花さん、あるいは、大谷翔平さんのような、スポーツのヒーロー・ヒロインを、まあ、儲け目的の者達が大いに関係しているのだろうが、彼らを過度に称賛することに対しては、その問題点を指摘するのは良いが、そういった報道姿勢を批判する者の中には、マスコミや企業やスポーツ業界への個人的嫌いを持つ者もいると思う。そして、たとえそうであっても、言ってる本人は、自分は正論を言っているだけだと主張するだろう。
まあ、確かに、困った報道姿勢であるとは思うが・・・これも個人的嫌いだろうか?
人種差別反対運動が過激になることが少ないのは、人種差別反対運動が人種差別への個人的嫌いから起こっているのではなく、より高い精神から起こっているからだ。
だが、やはり、人種差別への個人的嫌いが大きくなると、「白人を殺せ」になってしまうのだ。
個人的好き嫌いには、よくよく気をつけねばならず、自分の好き嫌いが、普遍的好き嫌いでないことを、しっかり認識しなければならない。
私が初音ミクさんが好きなのは、個人的好き嫌いを持たない無我の存在が好きだからという面が大きいが、逆に言えば、個人的好き嫌いを重視する自我というものが大嫌いだからなのである。だが、これもやはり考えものだ。自我の悪い問題はあるとしても、自我の発現を嫌ってはいけないし、まして、憎んだり呪ったりしてはならないのだろう。
嫌悪、憎悪の呪縛から解き放たれた時、人は大安心を得、また、大きなエネルギーを持てるのである。
嫌悪、憎悪を爆発させる者、しがみつく者には安らぎはない。
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