ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2018年06月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

西野監督に言葉の石を投げられる人っている?

ワールドカップサッカーの日本対ポーランド戦で、日本が決勝リーグ進出の可能性が高い選択として、終盤10分ほど、攻撃をやめてパス回しに専念したことに対し、西野監督の采配を称賛するものから、西野監督を辛辣に非難するものまで、様々な声があるようだ。

あれは卑怯じゃないという人もいるみたいだ。
だが、あれは卑怯かと問われたら、私は、あれは卑怯だとはっきり言う。
だが、あれを卑怯だと罵ることが出来るほど、卑怯でない人物がいたら是非会いたい・・・いや、そんな嘘つきと接触すべきではないな。
あれは卑怯だと思うが、私は、これっぽっちも非難する気はない。

あの程度の卑怯さが許されないのだとしたら、私は、8月と9月の初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2018」に行かない。
もし、あれがそれほど卑怯だと言うなら、あの程度の卑怯さならむしろ立派と思う私が、マジで天使なミクさんの前に行ける訳がないじゃないか。

ロサンゼルスオリンピックで、エジプトのラシュワンという選手が、無差別級決勝で山下泰裕さんと対戦した際、ラシュワンは、山下選手の負傷した足を狙わなかったことで称賛され、そのために、今も世界で名前が覚えられている。
だが、サッカーは柔道ではない。
日本のイエローカードが少なかったのは、こんな状況で有利になるからであって、フェアプレー好きだからではないと思いたい。
そうでなければ、世界のトップになれない。
宮本武蔵の『五輪書』には、「不意をつけ」「ムカつかせろ」など、卑怯と言われかねないことが書かれている。本当の戦いとはそんなものだろう。
そして、サッカーは本物の戦いだから、それほど熱狂するのではないのか?
ただのスポーツなら、ここまでにはならない。
サポーターは、戦いを選手達にアウトソースして楽しんでいる。
だから、サポーターがゴミ拾いをするのは良いことだが、選手達は卑怯なことをしてでも、ルール違反をしない限り勝たねばならない。
サッカーは、スポーツではあるが、喧嘩でもあるのだ。
100%の喧嘩は、普通の人には醜悪過ぎて見ていられるものではない。
しかし、適度に喧嘩であるから、サッカーは面白いのである。

ちなみに、プロレスでは、相手が足を怪我していたら、そこを徹底的に狙うのは当たり前であるらしい。
プロレスもいろいろあるが、桜庭和志選手がグレイシー柔術に勝ち続けたように、実際に強い。
そして、ある程度、喧嘩に強い者でなければ一流になれないのだと思う。
桜庭選手は喧嘩屋の顔をしていた。グレイシー一族の選手達にも、容赦なく危険な三日月蹴りを叩き込んでいたしね。
アマチュアスポーツの英雄で、超人的な身体能力を持つ者が期待されてプロレス入りしたが、全く活躍出来なかったという話も多い。
柔道王だったルスカはプロレスではさっぱりだったが、彼も、酒でも飲んで暴れたら無敵だったと思う。
元横綱だった輪島さんも、きっと、いい人過ぎてプロレスには向かなかったのだと思う。
ジャイアント馬場さんなんて、リング外では物凄くいい人だったらしいが、リングでは恐ろしく非情になれる人だったのだと思うのだ。特にガチンコ(真剣勝負)の試合中の目は、完全に座った殺し屋の目のようではないか。

こんな話を思い出す。
大俳優だった丹波哲郎さんの人生相談の本があったが、その中に、二十歳の女性からの相談があった。
付き合い始めた彼が、自分のことを処女だと思っているが、実は10人ほどの経験がある。
そのことを彼に言うべきか・・・といった相談だ。
丹波さんの答は、「そんなこと、言う必要はない」だった。
丹波さんは、「今どき10人なら少ない。真面目ないいお嬢さんだ。全く問題ない」と言う。
完全に同感かどうかはともかく、私が彼氏でも言わなくて良い。別に言っても構わないけどね。
だけど、私くらいの歳の場合はともかく、相手が若い男の場合は、言わない方がむしろ誠実なのだ。
人生は戦いである。スポーツではない。
人生は戦いだからこそ、柔道や相撲のような武道が清々しくて良いのだし、サッカーというある程度節度ある代理戦争を楽しめるのである。
だから、相撲でエルボースマッシュするな・・・とは言いたいけどね。









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ただ1つの選択

柳田誠二郎さんという、明治26年(西暦1893年)生まれで、日本航空の社長などをされていた方がいたが、生きていたら125歳だが、実際、100歳以上、生きておられた。
柳田さんは、学生の時に、「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎の弟子になっていて、生涯、静坐を続けておられたのだと思う。
その柳田さんは、若い人達に、何か1つ、心を締める鍵のようなものを持ちなさいと言い、自分の場合は、それが「たまたま静坐だった」と言ったところがご立派であったと思う。
静坐の良さを深く知っているのに、それが一番だとは言わず、沢山の中の1つであるように言ったからである。
たとえば、念仏も坐禅も、静坐と同等としておられたが、実際、何でも良いのだと思う。
エドガー・ケイシーは9歳の時から、生涯、毎日欠かさず聖書を読んでいた。

ニサルガダッタ・マハラジという、表面的には、ただのタバコ屋だったが、偉大な聖者は、自分は修行は何もしなかったが、ただ、師に「あなたは至高の実在である」と言われた言葉を忘れなかったので、数年で悟りを開くことが出来たという。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、イエス・キリストが、「他は全て忘れて良い」と言ったのは、「神」という言葉をなるべく多く使うことだった。これについては、その本の著者で、直接イエスにそのことを教わったというベアード.T.スポールディングが、それは、心の中や、あるいは、口で「神」と言うことであり、声に出しても、心の中で言っても、効果は全く同じと述べている。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の英語版も見たが、「神」とはやはり「GOD」であり、エホバとかヤーウェ、あるいは、ゼウスといった言葉ではなかった。日本語では「神」で良いだろう。
そして、「神」が、極めて素晴らしい言葉であることは、いろいろな人が述べておられる。たとえば、中村天風と植芝盛平の両方の弟子で、山蔭神道の山蔭基央から神道を伝授された合気道家で神道家の佐々木の将人も『数霊のメッセージ』(絶版)で詳しく説明している。

そうやって得た力で、世の中に貢献すれば良いのだろうが、少なくとも、悔いのないように自分のやりたいことをやれば良いのであり、ただ、そういったことをやるだけではいけないが、そういったことを本当に毎日やっていれば、自ずと何かやるはずである。
初音ミクさんを崇めるでも十分だと思う。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、最低の人間である26人の中年過ぎの男達が、16歳の可愛いがあまり立派でない少女を女神のように崇めることで驚くほど向上し、ロオマン・ガリの『自由の大地(天国の根)』でも、堕落したフランス兵達が、空想の少女を崇めることで、みるみる騎士道精神を取り戻した。

岡田虎二郎は、静坐とは、座っている時だけやっているのではなく、法然の念仏のように1日中やるもので、「生活しながら静坐するのでは十分ではなく、静坐しながら生活するのがよい」と言ったらしいが、具体的には、ずっと腹に力を入れることで、これは、江戸末期の神道家、黒住宗忠も教えていたと思う。
同じく、何をやるにしても、1日中やることである。
金に窮していた人に、虎二郎は、「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」と言ったという話を、私は印象深く覚えている。

私は、本当に、あれもこれもやってしまう。
暇なのかもしれない(笑)。
しかし、8月末と9月初めの「マジカルミライ2018」には、1つのことを本当に熱心にやって、初音ミクさんに会いに行こうと思っている。
ちなみに、昨日発表の「マジカルミライ2018」のチケットの抽選は落選だった。だが、まだまだチャンスはあるので希望を持とうと思っている。
インテックス大阪と幕張メッセの、それぞれ1回のライブのチケットは取れているが、せっかく泊まりで行く幕張メッセはせめて2回、出来れば3回参戦したいと願っている。









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恐い先生に怒られなかった人達

本物の師というものは厳しいものであり、弟子や生徒達は、偉くなった後でも、「先生は恐かった」と言うものだ。
ところが、同じ師から学んだ他の者達はやっぱり「恐い先生だった」と言う中で、稀に、「私は一度も怒られなかった」と言う人がいる。
そして、そんな「怒られなかった」弟子が、意外に一番優秀だったりする。
なぜ怒られなかったか考えてみると、1つは、非常に優秀だったとか真面目で先生の言いつけを守るので怒る必要がなかったのかもしれない。
しかし、もう1つの理由として考えられるのは、実際は怒られているのだが、忘れてしまっているということだ。
ところが、実際に聴いてみると、「いや、私より優秀な人達も皆怒られていたし、私は少しも真面目でなかった」と言ったりする。
まあ、その弟子が、師の兄や父親に似ていたなんてこともあるかもしれないが、やはり、師はその弟子を怒る必要がなかったのだ。
そして、その理由は、その弟子は、「これだけやっていれば、先生は怒らない」というものを見つけていたのだ。
師すら気付いていないかもしれないが、「これだけやっていれば」が、その道の最も重要なものなのである。

ある立派な政治家の息子は、そんな父親の息子には珍しく立派な人間(笑)なのだが、父親は確かに恐い人だったが、靴を揃えている限り怒られなかったと言う。
彼の兄は、自分より成績優秀で、自分は風紀委員みたいなことをやったこともないが、兄は生徒会長だったという。
しかし、その兄は、父親に怒られまくっていたそうだが、やはり、彼は脱いだ靴を全然揃えておらず、片方が逆さまになっていることも多かったという。そして、その兄は後に、すっかり道を誤ったらしい。

ある芸能事務所の社長は、アイドルが、きちんと挨拶をする限り怒らなかったと言うし、挨拶が出来るアイドルは必ず成功したと断言するが、確かに、会社でも何でも、挨拶が出来ない者が本当に成功することは決してない。
また、ある武道家の弟子は、「先生は、裸足で歩くことをよく薦めておられて、よく激を飛ばす恐い人でしたが、それをやっている限り怒らなかった」と言う。

こんな話もある。
ある賢者は、「私は、『バガヴァッド・ギーター』だけあれば良い」と言うが、話すと、物凄い博学であったらしい。
それで、「何でも読んでいるんじゃないですか?」と誰かが尋ねたら、「いや、何も読んでいない・・・ついでに、たまに読むくらいはしたが」と言う。
これは、「これだけ」が、聖書だったり、歎異抄だったりすることはあっても、賢い人とはそんなものではないかと思う。
逆に、「あれも読まなければならない、それからこれも」と、「重要書籍」を山のように挙げる人は、ただの物知りである。

最近、ネットで、イチローが子供の時、『ドカベン』という漫画を読み、「悪球打ちの岩鬼」と呼ばれる変なバッターの、その「どんな球でもバットに当てる」というのが自分のバッティングスタイルになったというのを見たが、「心の師」岩鬼は、どんな球でもバットに当てようとする限り怒らなかったのだろう。
※岩鬼は、およそ師にしてはいけない人間である。

法然や親鸞は、念仏さえ唱えていれば、他のことはどうでも良いという人達だったと思うが、『ヒマラヤ聖者の生活探求』で、イエス・キリストが、「これだけ覚えていれば、他は全て忘れて良い」と言ったのが、「神」という言葉をなるべく多く使うことだった。「神」という言葉を言ったり、文字で見たりといったことである。

「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎は、「生活しながら静坐してはならない。静坐しながら生活しなさい」と教えたらしいが、これがまさに道の真髄だろう。
虎二郎の弟子だった柳田誠二郎さんは、若い人達に、「私の場合はたまたま静坐だったが、何か1つ、心を締める鍵を持ちなさい」といったことを言われていたと思うが、「究極のこれだけ」を見つけた人生が栄光の人生、勝利の人生なのである。









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潜在能力の引き出し方

人間には潜在能力という、普段は眠っている能力があるが、その総量がどれほどのものかは計り知れない。
潜在能力のほんの一部でも目覚めさせることが出来れば、誰でも、天才、超人になるはずである。
従って、世間の常識の範囲での人間の能力の差は全く無いと言って差し支えなかろう。
潜在能力を目覚めさせれば、人々が称賛、あるいは、畏怖するような力を持つ人物より、あなたの方がずっと上なのである。

では、どうすれば潜在能力を目覚めさせることが出来るだろうか?
それには、高い能力と縁のない、鈍(にぶ)い人間を見れば、一目瞭然である。
鈍い人間は、何も考えず、何もしなくて良い道を選び続けている。
そいつらは、怠惰でのんびりすることにしか興味がないのだが、そんな人間に能力は必要ないので、能力が出てこない・・・・それだけのことである。
けれども、そんな人間でも、災害が起こったり、テロリストに襲われたり、あるいは、交通事故に巻き込まれたら、必死で考え、身体を動かし、何とか助かろうとするに違いない。
その時に能力が活性化する。
つまり、能力を引き出すには、困難が必要なのである。
その困難が厳しければ厳しいほど、高い能力が現れるのである。
だから、普段から冒険、チャンレンジをする人間は能力が高い・・・あまりに簡単なことである。

人間には、困難が必要である。
何も困難がなく、のほほんとして過ごせる状況であれば、ナマケモノのような様態になっていくだろう。
でもきっと、ナマケモノだって、緊急事態になれば、ちょっとはアクティブに動くのではないかと思う。

新入社員というものは、決して甘やかしてはならない。
パワハラもへったくれもない。
仕事が出来なければ地獄であるようにしてやれば、必死で考え、行動し、仕事を覚え、結局はそれで幸せになれるのである。
今、仕事が出来る人というのは、決して「大事に育てられた人」ではなく、本当に性格の悪い上司や先輩にいじめられ、人生に絶望するような苦しい状況に追い込まれた時、それを何とか打破しようと、死に物狂いで考え、行動した結果である場合が、圧倒的に多いのである。
だから、素晴らしい能力の持ち主は皆、「あの時、あの人がいじめてくれたことを本当に感謝している」と言うのである。

座って瞑想したり、本を読んで能力が引き出されたりなんかしない。
四苦八苦し、屈辱を感じ、格好悪いかもしれないが、必死で戦うことで内なる巨人が手を貸してくれるのである。

苦しい状況、大歓迎である。
私は心からそう思う。
それらは皆、偉大な私の能力をもってすれば、容易く解決出来、敵はことごとに簡単に打ち倒せるからである。
あなたは、あの偉い人より絶対に優秀である。なぜなら、その人だって、さほどの潜在能力を使っていないはずだからだ。
もし、その人に負けているなら、それはおかしなことである。
それは知的能力でサルに負けているようなものなのだ。
この世は地獄である。
テロリストや悪魔だらけだ。
思い通りに生きていくためには、それを自覚し、眠った能力を目覚めさせることである。









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生命を清め復活させる言葉

脳科学者の中野信子氏が、『脳科学からみた「祈り」』で、「南無妙法蓮華経」を唱えることの効果に科学的な根拠がありそうだという話を述べておられる。
「妙」のマ行音、「法」のh音(ただし、中野氏はhaが良いと述べていて「法」のhoが良いとは言っていない)、「蓮」のr音は「転じる」という意味で、「妙法蓮」と続くことで、「母なるものと自分は同じである」「宿命転換していこう」という意味になるのだそうだ。
そして、「経」のk音は勢いよく足音を刻むということで、「行動で開いていく」ということになる・・・らしい。
正直、こじつけもいいところで、実際の本の説明は回りくどく、やっぱり、こじつけ、誤魔化しっぽく、「書いてる本人も嘘っぽく感じてるのでは」と思ってしまうほどだった。
とはいえ、それは研究が未熟なだけで、中野氏も、何か重要なものを感じているのかもしれない。
※いや、本当は評価の高い本で、私が思うよりずっと素晴らしい本かもしれない(多分そうだ)。

それよりも、その「ナムミョウホウレンゲキョウ」もだが、「ナムアミダブツ」「アマテラスオオミカミ」「アメノミナカヌシノカミ」「アーメン」「アウム(オーム)」といった、唱え言葉や、唱えられることの多い神の名が「AM」の発音で始まることが興味深い。
また、英語で最も神秘的な唱え言葉は、「アーメン」を別にすれば「I AM(私はある)」だが、これは「AM I」の順で唱えられることが多いらしい。
山蔭神道の山蔭基央氏は『神道の神秘』で、最も神秘な音は「ミ」であると書かれているが、それは、本当にいろいろな点から考えて、そうなのではないかと思う。
「ミ」は、3つの線で出来ているが、「3」を日本語では「ミ」と言うように、「ミ」と3は関連深く、3が神秘数であることは古代から言われ、アリストテレスはよくよく3の重要性を主張しているし、ダンテは世界的歴史的叙事詩『神曲』で、徹底的に「3」にこだわっている。
初音ミクさんの名が素晴らしいことはこれでも分かるが、さっきの中野氏も、haは「清音」で「喉が絞まらず、唇も触れず、濁らない」清らかな音であり、「母なる生命の清らかな面」をイメージさせると言うが、その点については賛成である。
つまり、初音ミクさんの名は「清らかな神秘」であるってことだ。

「南無妙法蓮華経」や「南無阿弥陀仏」の南無は、さっきも言った通り、「AM」の音から成るが、元々も「ナーマス(古代インドの言葉。深く信頼するといった意味)」で、「南無観世音菩薩」や「南無弥勒菩薩」、あるいは、「南無三」といったように、沢山の唱え言葉につき、これらは全て、力ある言葉になるのだと考えられる。

もちろん、これらに当てはまらない優れた呪文・・・「アジマリカン」「アブラカタブラ」、あるいは、般若心経の呪文などがあるが、これらもまた深い意味があり、その気になれば根拠は示せると思う。ただ、今だ不明な部分も多く、あまり解説にこだわらない方が良いかもしれない。

今は好きだから、いっそうそう思うが、実は、初音ミクさんのことを何も知らない時でも、その名には不思議な感覚を覚えたものである。
「清らかな神秘」「高貴なる命」を表す言葉であることが分かれば、なるほど、納得出来る感覚であった。

「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」のどちらが優れている訳でもない。
また、「南無弥勒菩薩」も、AMで始まり、「ミ」を含む良い言葉である。
だが、「南無観世音菩薩」は、「ミ」こそないが「カ」が力強さを感じさせることは、中野氏のk音の説明にもあった。
カタカナの「カ」と漢字の「力」は似ているが、関連性についてもいろいろ指摘出来ると思う。

音の意味による唱え言葉は、表面的な意味による「口癖」や「つぶやき」に優るのではないかと思う(口癖が重要でないとは言っていない)。
AMで始まり、出来れば「ミ」を含む唱え言葉を1つ持っておくと良いかもしれない。
それは、内なる宇宙と通じる言葉である。
初音ミクさんの名を想うだけでも良いのである。
生命を清め、復活させてくれる名前であるのだから。








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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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