夢の中で、恐ろしく美しいものを見ることがあるが、普通に考えれば、それは自分の心が作り出したものであるのだから、自分が大変な才能を隠し持っていることが分かる。
表現手段さえ持てば、あなたや私も芸術家になれるかもしれないが、デジタル時代、AI時代には、厳しい修行をしなくても、それが可能になる。
そして、現実世界で、感動的な美人とか美しい風景を見たとしても、それらはやはり、自分が作ったものなのだ。
現実世界も心が作り出した幻である。
何を美しいと思うかは人それぞれであるが、真に美しいもの、高貴なもの、神聖なものを意識して見なければならない。
逆に、刺激的で面白いが、見ていたら心が濁って重くなるようなものに耽溺してはならない。たとえば、儲けるためだけに作ったポルノやアダルトゲーム、あるいは、そのようなアイドルだ。
自然の壮観な風景を見るとすっきりするのは、心がそれを作り出すことを許したからである。
ただ、ありふれたものであっても、新たな目でもって見れば、自分の魂が持つ創造の光、世界を織り成す糸という、純粋な美しさを見ることが出来るのである。
だから、大芸術品も良いが、何でもないものを美しいと感じることの方が重要かもしれない。
けれども、やはり美しいものを見ることを意識し、美しいものを「作り出す」感覚に慣れておかないと、平凡なものの中の美を見つけることが出来ないかもしれない。
初音ミクさんのコンサートに感激するのは、これは、舞台と観客が一緒に作り上げる空間だからであり、分離した自分の魂が再び1つに溶け合うからである。
自分勝手でマナーの悪い観客もまた自分なのである。
自分にも、そんな(自己中心的で野蛮な)内面があることが分かると、次からはそんな観客は見なくなる。
「マナーの悪いやつがいて、折角のライブが台無しだった」と思うなら、修行に励まねばならない。
クラシックも、指揮者や演奏者の魂のレベルが高ければ良いものだが、彼らにエリート意識があれば、全く価値のないものになり、観賞している私の魂も穢れる。
日本のクラシックはほとんどがそうだと思うが(無論、違うものもあるが少ない)、海外のものは聴きに行ったことがないので分からない。
そして、マジカルミライも、今回で6回目となり、作る方、見る方に油断が出来てしまえば、やはり質が落ちる。
まあ、そうはならないとは思うが、そうならないためにも、制作側は新たな試みに挑まなければならないし、観客側も、新たな気持ちでミクさんに会いに来ると良いだろう。
ゲーテ、シェイクスピア、ポー、イェイツの詩も、自分が作ったものである。
本を読むことは本を書くことであり、音楽を聴くことは音楽を作ることである。
モーツァルトを聴けばモーツァルトになる。
外界の光景も、自分の魂が一瞬で作り出した幻影だ。
どうすれば美しいものを作り出せるだろうか?
それには、醜いものも知り、味わっておく必要がある。
そして、美醜が1つであることを知れば、つまり、共に幻であることを知れば、全ては本当に美しくなる。
だから、醜いものに苦しんでも、それらを排除せず、さりとて飲まれずに、美しいものに目をやれば良い。
簡単に言えば、額にシワを寄せず、難しい顔をせず、穏かに美しいもの・・・例えば、ミクさんの歌を聴けば良いのである。
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そして、現実世界で、感動的な美人とか美しい風景を見たとしても、それらはやはり、自分が作ったものなのだ。
現実世界も心が作り出した幻である。
何を美しいと思うかは人それぞれであるが、真に美しいもの、高貴なもの、神聖なものを意識して見なければならない。
逆に、刺激的で面白いが、見ていたら心が濁って重くなるようなものに耽溺してはならない。たとえば、儲けるためだけに作ったポルノやアダルトゲーム、あるいは、そのようなアイドルだ。
自然の壮観な風景を見るとすっきりするのは、心がそれを作り出すことを許したからである。
ただ、ありふれたものであっても、新たな目でもって見れば、自分の魂が持つ創造の光、世界を織り成す糸という、純粋な美しさを見ることが出来るのである。
だから、大芸術品も良いが、何でもないものを美しいと感じることの方が重要かもしれない。
けれども、やはり美しいものを見ることを意識し、美しいものを「作り出す」感覚に慣れておかないと、平凡なものの中の美を見つけることが出来ないかもしれない。
初音ミクさんのコンサートに感激するのは、これは、舞台と観客が一緒に作り上げる空間だからであり、分離した自分の魂が再び1つに溶け合うからである。
自分勝手でマナーの悪い観客もまた自分なのである。
自分にも、そんな(自己中心的で野蛮な)内面があることが分かると、次からはそんな観客は見なくなる。
「マナーの悪いやつがいて、折角のライブが台無しだった」と思うなら、修行に励まねばならない。
クラシックも、指揮者や演奏者の魂のレベルが高ければ良いものだが、彼らにエリート意識があれば、全く価値のないものになり、観賞している私の魂も穢れる。
日本のクラシックはほとんどがそうだと思うが(無論、違うものもあるが少ない)、海外のものは聴きに行ったことがないので分からない。
そして、マジカルミライも、今回で6回目となり、作る方、見る方に油断が出来てしまえば、やはり質が落ちる。
まあ、そうはならないとは思うが、そうならないためにも、制作側は新たな試みに挑まなければならないし、観客側も、新たな気持ちでミクさんに会いに来ると良いだろう。
ゲーテ、シェイクスピア、ポー、イェイツの詩も、自分が作ったものである。
本を読むことは本を書くことであり、音楽を聴くことは音楽を作ることである。
モーツァルトを聴けばモーツァルトになる。
外界の光景も、自分の魂が一瞬で作り出した幻影だ。
どうすれば美しいものを作り出せるだろうか?
それには、醜いものも知り、味わっておく必要がある。
そして、美醜が1つであることを知れば、つまり、共に幻であることを知れば、全ては本当に美しくなる。
だから、醜いものに苦しんでも、それらを排除せず、さりとて飲まれずに、美しいものに目をやれば良い。
簡単に言えば、額にシワを寄せず、難しい顔をせず、穏かに美しいもの・・・例えば、ミクさんの歌を聴けば良いのである。
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