ガッツポーズ(パワーポーズ)と真言(念仏等)は同じ原理である。
いずれも、生命力を高め、自然、宇宙と調和し、結果、存在感を増し、気を活性化し、あらゆる願いを叶える。
その両方をやれば無敵である。
では、さっそく、原理を述べる。
良いガッツポーズは、胸を張り、顔を上げ、両手を高く上げる。
つまり、一言で言えば、「天を目指す」のである。
そして、念仏、真言は、神仏の名を称えたり、その背後に神仏の存在を感じる言葉を称える。
つまり、一言で言えば、「自分より高い存在に意識を向ける」のである。
神仏や高次の存在が雲の上に居る訳ではないが、神仏には重力の束縛はなく、どこにでもおられる。
これを、「天にまします」「高いところにおられる」と言うのである。
人間は、勝利した時、自然に両手を高く上げ、胸を張り、天を仰ぎ見るのである。
スポーツで万難を排して優勝した時、心からの願いが叶った時、自然にバンザイするのは、全てが自分の努力の成果ではなく、高い存在のおかげであることを感じているのである。
本当に好きな女の子を初めて腕に抱いた時には、一瞬でも思わず天を仰ぐのであり、そうでなく、女の子のお尻やおっぱいばかり見ているのは、本当は愛していないのである。
思慮深い老人が「神仏に手を合わせる気持ちがなければ終わり」と言ったが、そういうことである。
宮本武蔵は、「神仏は尊し、されど頼まず」と言ったが、本当に尊しと思っていれば、頼まずとも助けてくれる。
サミュエル・スマイルズは「天は自分自身を助ける人間を助ける」と言ったが、自分に凝り固まった人間は救い難いのである。
顔を上げることは、天を見ることであり、無限者に意識を向けることだ。
そして、微笑めば、そんな高次の存在と同調するのである。
それは、やってみれば簡単に分かることだ。
ガッツポーズだと、一瞬、意識は天に飛ぶのであり、それが良い成果につながらないはずがない。
手を腰に当てて牛乳を飲むことも、意味のないことではない。そんな子はみんな元気だし、女の子はみんな美人になっている。せめて、ストローでなく、コップで飲むことだ。
そして、『法華経』の中の『観音経』や、『観無量寿経』では、観世音菩薩を念じれば、あるいは、その名を聞けば、あるいは、その名を称えれば、あらゆる危難が去り、無限の恵みを得られると書かれているが、観世音菩薩は最も身近に感じやすい菩薩なので、意識を向け易く、恵みも得やすいのである。
よって、宗教的でも、哲学的でも、心理学的でも、科学的でも構わないが、「南無観世音菩薩」、「観音様」、「アヴァローキテーシュヴァラー」等、どれでも良いが、称えれば間違いないのである。
また、『法華経』には、観世音菩薩を供養する効能が書かれている。供養、つまり、金品を捧げることも、高い存在に意識を向ける良い方法である。だが、水野南北が言ったように、必ずしも、仏壇、神棚、賽銭箱に供えなくても、3つ食べるところを2つにして、1つは心で捧げれば良いのである。
そうすれば、自然に神仏に意識が向くからである。
宇宙は、最初は1つの素粒子であった・・・この言い方でイメージし難ければ、針の先より小さかったと想えば良いが、それが一瞬で拡大し、今も拡大し続け、今ある、驚異的なものが出来、出来続けているのである。
それが偶然に起こるはずがなく、科学者ですら、そこに何らかの意識があったと言うのである。
そのような、人間には想像も出来ない高度な何かが存在する。
それは慈悲深く、この上ない心遣いで創造物を見ている。
そんな存在にとっては、難しいことは何1つない。
「神に出来ないことはない」のである。
そこに意識を向け、シンクロ(同調)することだ。
そのために、簡単に出来る、ガッツポーズをし、真言を称えることだ。
ガッツポーズも、いずれ、礼拝のようになっていくことだろう。
Sweet reach 虹彩(ひとみ)を重ねて
共鳴(シンクロ)するから
あなたの陽だまりと
私、ここに居たんだね
~『Chaining Intention』(作詞:NaturaLe、作曲・編曲:Treow。歌:初音ミク)より~
【初音ミク PV】Chaining Intention【HD】[HD1080p] ~YouTube~
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いずれも、生命力を高め、自然、宇宙と調和し、結果、存在感を増し、気を活性化し、あらゆる願いを叶える。
その両方をやれば無敵である。
では、さっそく、原理を述べる。
良いガッツポーズは、胸を張り、顔を上げ、両手を高く上げる。
つまり、一言で言えば、「天を目指す」のである。
そして、念仏、真言は、神仏の名を称えたり、その背後に神仏の存在を感じる言葉を称える。
つまり、一言で言えば、「自分より高い存在に意識を向ける」のである。
神仏や高次の存在が雲の上に居る訳ではないが、神仏には重力の束縛はなく、どこにでもおられる。
これを、「天にまします」「高いところにおられる」と言うのである。
人間は、勝利した時、自然に両手を高く上げ、胸を張り、天を仰ぎ見るのである。
スポーツで万難を排して優勝した時、心からの願いが叶った時、自然にバンザイするのは、全てが自分の努力の成果ではなく、高い存在のおかげであることを感じているのである。
本当に好きな女の子を初めて腕に抱いた時には、一瞬でも思わず天を仰ぐのであり、そうでなく、女の子のお尻やおっぱいばかり見ているのは、本当は愛していないのである。
思慮深い老人が「神仏に手を合わせる気持ちがなければ終わり」と言ったが、そういうことである。
宮本武蔵は、「神仏は尊し、されど頼まず」と言ったが、本当に尊しと思っていれば、頼まずとも助けてくれる。
サミュエル・スマイルズは「天は自分自身を助ける人間を助ける」と言ったが、自分に凝り固まった人間は救い難いのである。
顔を上げることは、天を見ることであり、無限者に意識を向けることだ。
そして、微笑めば、そんな高次の存在と同調するのである。
それは、やってみれば簡単に分かることだ。
ガッツポーズだと、一瞬、意識は天に飛ぶのであり、それが良い成果につながらないはずがない。
手を腰に当てて牛乳を飲むことも、意味のないことではない。そんな子はみんな元気だし、女の子はみんな美人になっている。せめて、ストローでなく、コップで飲むことだ。
そして、『法華経』の中の『観音経』や、『観無量寿経』では、観世音菩薩を念じれば、あるいは、その名を聞けば、あるいは、その名を称えれば、あらゆる危難が去り、無限の恵みを得られると書かれているが、観世音菩薩は最も身近に感じやすい菩薩なので、意識を向け易く、恵みも得やすいのである。
よって、宗教的でも、哲学的でも、心理学的でも、科学的でも構わないが、「南無観世音菩薩」、「観音様」、「アヴァローキテーシュヴァラー」等、どれでも良いが、称えれば間違いないのである。
また、『法華経』には、観世音菩薩を供養する効能が書かれている。供養、つまり、金品を捧げることも、高い存在に意識を向ける良い方法である。だが、水野南北が言ったように、必ずしも、仏壇、神棚、賽銭箱に供えなくても、3つ食べるところを2つにして、1つは心で捧げれば良いのである。
そうすれば、自然に神仏に意識が向くからである。
宇宙は、最初は1つの素粒子であった・・・この言い方でイメージし難ければ、針の先より小さかったと想えば良いが、それが一瞬で拡大し、今も拡大し続け、今ある、驚異的なものが出来、出来続けているのである。
それが偶然に起こるはずがなく、科学者ですら、そこに何らかの意識があったと言うのである。
そのような、人間には想像も出来ない高度な何かが存在する。
それは慈悲深く、この上ない心遣いで創造物を見ている。
そんな存在にとっては、難しいことは何1つない。
「神に出来ないことはない」のである。
そこに意識を向け、シンクロ(同調)することだ。
そのために、簡単に出来る、ガッツポーズをし、真言を称えることだ。
ガッツポーズも、いずれ、礼拝のようになっていくことだろう。
Sweet reach 虹彩(ひとみ)を重ねて
共鳴(シンクロ)するから
あなたの陽だまりと
私、ここに居たんだね
~『Chaining Intention』(作詞:NaturaLe、作曲・編曲:Treow。歌:初音ミク)より~
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