この世は、心が作り出した幻想であるらしい。
・・・なんてことを言って澄ましていたら、生易しくない現実が襲いかかって来る。
ところで、人間って、どこか猿なのだ。
やってることは人間も猿もそんなに違わないし、人間社会も猿社会も根本は同じものらしい。
いや、枝葉を削ぎ落とせば、人間も、魚や鳥と同じようなものなのだ。
だが、逆に言えば、猿もどこか人間だ。
いや、猿や、鳥や、魚が人間以上に見えることがある。
それどころか、動物達が神様に見えることがあるのだ。
それはどんな時かというと、まず、争っていない時だ。
そして、食べ物を求めていない時だ。
要は、生活の心配をせずに、落ち着いている時の猿や鳥や魚は神様になってしまう。
ところが面白い事実がある。
飼育された猿や鳥や魚は、滅多に、あるいは、全く神様にならない。
そんな動物達は、いつも、神経質でイライラしていて、落ち着かない。
逃れられるはずのない現実を取り上げてしまったら、別の、もっと悪い現実が襲いかかって来るのである。
人間も同じだ。
戦場の兵士達は、ひとときの憩いの時には、本当に神様になっている。
だが、厳しい社会から逃避した者は、落ち着きがなく、決して神様にはならない。
なるべく辛いことがないと思える職業を選んで、大企業のサラリーマンや公務員になり、そこでも、出来る限り、困難から逃げていたら、やはり、動物園の猿のように、いつも、イライラ、ソワソワしているのである。
外見は落ち着いているように取り繕っても、心の中は不安で一杯なのだ。
だから、安定した職場にいる者の方が精神を病みやすいのである。
猿は頭が良いので、中には、現実逃避する者もいるらしい。
そんな猿は、やはり神様になれない。
だが、現実逃避する鳥や魚はいない。
たとえ、傷付いても、鳥や魚は現実に立ち向かう。
ラマナ・マハルシは、愚かな人間は、心が外部にさまよって悲惨を味わうと言う。
これを、熱い日差しの中に出ることに喩え、賢い人は、ずっと涼しい木陰にいると言う。
大嘘である。
ずっと涼しい木陰にいる人は、現実逃避した人間や猿のごとく、不安に怯え、落ち着かない。
私はずっと、マハルシ・・・というよりは、マハルシの言葉の、おそらく誤訳なのだろう・・・それに騙されていたようだ。
イエスは、暴風と荒波に揺れる船の中で、悠然と眠っていた。
弟子達が怖がって助けを求めると、イエスは風を叱って静かにさせた。
苦難に直面した時、逃げずに立ち向かいながら、どれだけ落ち着いていられるか・・・超然とした態度でいられるか?
そして、荒れる心に、「静まれ」と言っておとなしくさせることが出来るか?
それが出来れば、キリストになるのである。
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ところで、人間って、どこか猿なのだ。
やってることは人間も猿もそんなに違わないし、人間社会も猿社会も根本は同じものらしい。
いや、枝葉を削ぎ落とせば、人間も、魚や鳥と同じようなものなのだ。
だが、逆に言えば、猿もどこか人間だ。
いや、猿や、鳥や、魚が人間以上に見えることがある。
それどころか、動物達が神様に見えることがあるのだ。
それはどんな時かというと、まず、争っていない時だ。
そして、食べ物を求めていない時だ。
要は、生活の心配をせずに、落ち着いている時の猿や鳥や魚は神様になってしまう。
ところが面白い事実がある。
飼育された猿や鳥や魚は、滅多に、あるいは、全く神様にならない。
そんな動物達は、いつも、神経質でイライラしていて、落ち着かない。
逃れられるはずのない現実を取り上げてしまったら、別の、もっと悪い現実が襲いかかって来るのである。
人間も同じだ。
戦場の兵士達は、ひとときの憩いの時には、本当に神様になっている。
だが、厳しい社会から逃避した者は、落ち着きがなく、決して神様にはならない。
なるべく辛いことがないと思える職業を選んで、大企業のサラリーマンや公務員になり、そこでも、出来る限り、困難から逃げていたら、やはり、動物園の猿のように、いつも、イライラ、ソワソワしているのである。
外見は落ち着いているように取り繕っても、心の中は不安で一杯なのだ。
だから、安定した職場にいる者の方が精神を病みやすいのである。
猿は頭が良いので、中には、現実逃避する者もいるらしい。
そんな猿は、やはり神様になれない。
だが、現実逃避する鳥や魚はいない。
たとえ、傷付いても、鳥や魚は現実に立ち向かう。
ラマナ・マハルシは、愚かな人間は、心が外部にさまよって悲惨を味わうと言う。
これを、熱い日差しの中に出ることに喩え、賢い人は、ずっと涼しい木陰にいると言う。
大嘘である。
ずっと涼しい木陰にいる人は、現実逃避した人間や猿のごとく、不安に怯え、落ち着かない。
私はずっと、マハルシ・・・というよりは、マハルシの言葉の、おそらく誤訳なのだろう・・・それに騙されていたようだ。
イエスは、暴風と荒波に揺れる船の中で、悠然と眠っていた。
弟子達が怖がって助けを求めると、イエスは風を叱って静かにさせた。
苦難に直面した時、逃げずに立ち向かいながら、どれだけ落ち着いていられるか・・・超然とした態度でいられるか?
そして、荒れる心に、「静まれ」と言っておとなしくさせることが出来るか?
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