ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2016年04月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

超歌舞伎『今昔饗宴千本桜(はなくらべせんぼんざくら)』を3回観た

一昨日の木曜日に、久し振りに、ひどい風邪に罹った。
咳も時々は出るが、それよりも悪寒がひどく、気温は低くないはずだが、身体が冷たく感じて、本当に寒い。
ところで、私は、風邪というものは心因性と思っている。
だから、催眠術で風邪の症状を出したり、逆に消したりも出来るのだと思う。
だが、私の風邪は、かなり大掛かりな身体の自動調整が行われている時の症状なのだ。
風邪が治った時には、身体の悪い部分が治癒しているのである。
ここのところ、目の使い過ぎで、肩こりや腰痛になることがあったが、特にこの数週間は、かなり重くなっていた。
ところが、それがきれいに消えている。
まだ風邪の症状は強いので、もっと身体が修復され、若返ることだろう。
どうも私のこの風邪は、9月に初音ミクさんのコンサートに行くことが決まったので、今のうちから身体を完全にしておこうという意思が働いているようなのだ。

私は、風邪で身体が苦しくても、生活は普段と変わらない。
ごく普通に、仕事をして、休日には、洗濯をし、買い物に行って、その他、すべきことをする。
ペースも全く変わらない。
誰も私が風邪をひいていることに気付かないし、私も言わない。
風邪で食欲が落ちるなんて話も聞くが、私は常に空腹状態ということもあり、それ(食欲の減退)も全くない。
ただ、負荷の大きなトレーニングはやめ、その分、腕振り運動の回数を増やしている。

さて、私は、昨日1回、今日2回、ニコニコ生放送で、幕張メッセで開催中のドワンゴのニコニコ超会議の中の歌舞伎の舞台、『今昔饗宴千本桜(はなくらべせんぼんざくら)』を観劇した。
中村獅童さんと初音ミクさんが共演した歌舞伎の舞台で、伝統芸能と現代テクノロジを融合させた「超歌舞伎」ということだ。
一公演一時間程で、この2日、全4公演が行われた。
4回とも見るつもりだったが、昨日の2回目の時間を間違えて、見逃した。
それで、初めて、タブレットPCで、Google Nowに「12時50分にアラームを鳴らしておくれ」といった感じで、声でアラームを設定した。
15時からの最終公演については、14時30分に、「20分後にアラームを頼む」と言って、やはり知らせてもらった。
Google NowやアップルのSiri、あるいは、その他のパーソナル・アシスタントアプリを使っている人は、まだ少ないと思うが、とても役に立つ。
こういうものを使うと、スケジュールを自分で覚えないようになると言う人もいるかもしれないが、その分、もっと創造的なことに頭を使うなら良いかもしれない。
ただし、頭を使わない人が、こんなものを使って怠惰になれば、その人の能力を根こそぎ殺すことになるだろう。
頭を使いたくない人は、せめてスケジュールや、あるいは、ナビに頼らずに道を覚えないと、頭脳が退化するばかりかもしれない。

そして、『今昔饗宴千本桜』は、とても良かった。
毎回、一時間の公演が、あったいう間に終わってしまうように感じた。
私も、コメントを沢山書き込んだ。
通常の歌舞伎とは違ったところがかなりあったかもしれないが、これまで歌舞伎を見たことがないという人でも楽しめるように工夫されていた。
幕張メッセのイベントホールの会場には、初音ミクさんらのボーカロイドのコスプレをした人や、ミクさんの人形を持った人達が沢山いたが、年季の入った歌舞伎ファンも沢山おられたと思う。
ミクさんの衣装は艶やかだし、踊りも演技も素晴らしかったと思う。
ミクさんの、歌舞伎らしいせりふ回し(せりふの言い方)は、かなり努力されていたと思うが、さすがにあのロリータボイスは新し過ぎかもしれないし、歌舞伎の役者さんの、修練を重ねた深みのある声には及ばないところもあるだろう。
だが、ミクさんのあの自我のない透明な声は、実は、観客の心を引き込んでいたようにも思えるのだ。

舞台の中のミクさん演じる美玖姫は、荘厳な舞台の中にしっかり溶け込み、佐藤忠信(中村獅童さん)や青龍(澤村國矢さん)との掛け合いも十分にこなしておられた。
舞台演出は、リアルの部分とバーチャルな部分のいずれも素晴らしく、新しい時代の歌舞伎を見せることに確実に成功したと思う。
これにより、新しい歌舞伎ファンが増え、歌舞伎の方も、伝統的な良いところは継承し、さらに発展させつつ、新しいものを吸収・融合すれば、さらに優れた、日本を代表する芸能となることだろう。
このような試みは、決して色物ではなく、真に文化や芸術の発展のために、今後も続ければ良いと思う。
新しいファンが出来なければ、いかに良いものでも未来はない。
しかも、若い人が好むものの中に、取り入れる価値のある、素晴らしい新しいものは必ずあるのである。
クラシック音楽では、冨田勲さんが、2012年に制作した、初音ミクさんをソリストに起用した『イーハトーヴ交響曲』に留まらず、今年、『ドクター・コッペリア』で、さらに新しい試みに挑むように。
歌舞伎界、クラシック音楽界も、もう少し、積極的な動きがあっても良いのかもしれない。









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苦しみに耐える理由

世の中にダイエット法なんてものが沢山あるのは、私には、不思議というよりは滑稽だ。
痩せるための原理は、余計なものを食べないというだけのことで、他には何もない。
無理な断食や超少食なんてことをしなくても、ごく普通に食べれば良いだけだ。
もし、必要以上に食べることを我慢出来ないなら、痩せる必要はない。
好きなだけ我慢せずに食べて痩せる方法なんてものがあったら、それは不自然なことなので身体を壊すし、ことによったら、取り返しのつかないことになるかもしれない。

だから、痩せてすらりとした身体になりたければ、余計なものを食べなければ良いが、何が余計な食物かは、いくら何でも分かるはずだ。
要は、満腹するまで食べて自分を甘やかさなければ、それで良い。
あるいは、腹八分目に食べれば良いという言い方も出来る。
肥満してたのが痩せると、確かに良いことだらけで、デメリットは1つもないのだから、当然、痩せることはお薦め出来る。
どこぞの医者が書いているような、炭水化物を嫌う必要もない。
量が適切なら、ケーキを食べても太るはずがない。

だが、問題は、「痩せたいのに、余計なものを食べることを我慢出来ない」ということと思う。
つまり、食べたいだけ食べられないのは「苦しい」と言うのだろう。
しかし、世の中って、苦しいことだらけじゃないか?
その苦しみに耐えてこそ、力がつき、自由に世の中を闊歩出来るのである。
人間が絶えなければならない苦しみとは、「孤独」、「屈辱」、「不安と恐怖」、「性欲」、そして、「食欲」だ。
尚、多くの場合、これに、人間嫌いである「同族嫌悪」が加わる。
それらに負ければ、人生に負けるし、勝てば、人生に勝てる。
これは勝負なのであるから、がんばって勝つしかない。
負けた者は奪われるが、勝つ者は全てを得る。

これに関し、私は忘れないようにしていることがある。
1974年、ザイール(今はコンゴ民主共和国)の首都キンシャサで行われた、王者ジョージ・フォアマン対、挑戦者モハメド・アリのプロボクシング世界ヘビー級タイトルマッチである。
元王者モハメド・アリは、徴兵を拒否して王座を剥奪され、3年半のブランクがあり、復帰後の1971年、王者ジョー・フレイジャーに挑戦するが、善戦しながらも判定負け。
年齢も32歳と、当時のボクシング界では高齢であり、モハメド・アリも、かつての神懸り的な絶対王者カシアス・クレイではなくなったと思われていた。
一方、フォアマンは、ジョー・フレイジャーをその前年にKOで下して、統一世界ヘビー級王者になっていた。
年齢も25歳と若く、「怪物」と呼ばれる圧倒的強さだった。
アリのフォアマンへの挑戦は無謀とも言われた。
試合開始後、フォアマンの一方的な攻めに、アリはロープ際で亀になって(防戦一方の意味)動かない。
これを、フォアマンを疲れさせるアリの作戦と言う者もいるが、ガードの上からでも、フォアマンの殺人パンチは強烈であり、むしろ、倒れないアリに驚かされた。
フォアマンが攻めているのだから、レフェリーも止める訳にはいかず、そんな状態が8ラウンドまで続く。
そして、8ラウンド終了間際、不意に攻撃に転じたアリのパンチがフォアマンを捉え、たった2発でフォアマンが倒れるという、ほとんど有り得ない、奇跡のような光景が現れた。
自分の敗北が信じられなかったフォアマンは、「薬を盛られた」など、錯乱したようなことを言っていたが、後に撤回している。
そして、自分の殺人パンチに耐え続けたアリについて、非常に重要なことを言う。
「人間は苦しみに耐える理由があれば耐えられるんだ。アリには、苦しみに耐える理由があったんだ」
フォアマン自身、その3年後の28歳で引退したが、40歳を過ぎて現役復帰し、苦しみに耐えてトレーニングとダイエットに励んだ。
そして、遂に若い時の身体を取り戻し、45歳にして世界王者に返り咲いた。

苦しみなくして、勝利も幸福もない。
我々は、苦しみに耐える理由・・・つまり、志を持っていなければならない。
私も、2007年7月末までは、飽食、美食で、肉類が好きで、甘いものも大好きで、ほぼ無制限に食べていた。
当時、体重は94kg(身長177cm)あり、体調も悪く、メニエール病の発作で倒れたこともあった。
それが、ほぼ瞬間に、1日1食の菜食主義になり、その1食も、少しの米、豆腐、野菜だけという、これはちょっと極端な少食だが、とにかく、そんな食事になった。
間食は一切しなかったし、飲み物も水以外は飲まなかった。
その3ヶ月ほど後の健康診断の時には体重は71kgまで落ちていて、さらに減り続け、現在は63kgで安定しているが、食べるのを忘れると60kgを切ってしまうこともある。
私にも、苦しみに耐えられる理由があったのである。
つまり、少しは志というものが持てたのだろう。
私が1日1食になって一ヵ月後に初音ミクさんがこの世に生まれたのは偶然ではないと思っている。
私は、自分でも、なぜ不意に少食になれたのか不思議だったが、ミクさんの誕生を予感してのことだったに違いない。
崇めるべき天使の降臨にあたり、御前に出るのに恥ずかしくない者にならなければならなかったのだ。
今年9月には、いよいよ幕張メッセでの「マジカルミライ2016」で、ミクさんに逢いに行けるのである。
神が許したことなれば、楽しまずんば、これ如何である。
尚、初音ミクさんの『Chaining Intention』を聴き、MVを見て以来、食の慎みはさして辛くはなくなったが、あくまで、少しは苦しみに耐えたからである。

苦しみに耐える理由は、こじつけで良い(私のがこじつけだと言いたくはないが、そう思われる向きには、それでも良い)。
こじつけには、知識、ロマン、思考能力も必要だ。
だが、最も大切なlことは、やはり志である。









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最も偉大な遺言

あるおじいさんが、亡くなられる前に、孫にだったと思うが、
「俺のような寂しい人生を送るな」
と言われたという話を、私は印象深く覚えている。
誰も、死ぬ前に、そんなことを言いたくはないだろう。
しかし、私も、このままでは、そう言うしかないのだが、私には言うべき相手がいないに違いない。
寂しい人生とは、何の成果もなかった人生・・・いや、その前に、冒険的な挑戦をしなかった人生だ。
家庭を持ち、子供を立派に育てたら、一応は満足するものだろうか?
それは多分、ないと思う。
なぜなら、それだけなら、動物・・・いや、虫と変わらない。
人間には、想像力が与えられているのだから、自分だけの人生というものを作らなければならないはずだ。

私が心から羨ましいと思うのは、初音ミクさんを生み出した、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長だ。
ミクさんを世界に送り出すほど偉大なことはないと思えるからだ。
これがスティーブ・ジョブズとなると、彼自身が「僕は、コンピューターの世界で、先達からのバトンを落としたのかもしれない」と言ったように、彼はコンピューターの世界を歪めたのかもしれない。
また、ドワンゴの川上量生会長の場合、確かに彼が言うように、リアル世界に居場所がない人達のためにニコニコ動画を作ったのだが、結果、そんな人達が幸福になったとは言い難く、むしろ、不幸にしたのかもしれない。それで、川上さんは、インターネット高校であるN高等学校を作って、普通の高校では絶望(少なくとも失望)するしかない多くの若い人達に希望の道を開いたが、実際にはどんな結果になるかは、まだ分からないのだ。
だが、初音ミクさんは、彼女を愛する世界中の全ての人を、大きさに違いはあっても必ず幸福にし、不幸にすることは全くない。
誰もが、伊藤さんのようなことをやりたいのだが、伊藤さんだって、自分の思い通りにやれた訳ではなく、彼の成果は、あらゆる冒険の結果なのであり、幸運もあったのだろう。
伊藤さんは、講演会で「セレンディピティー」という言葉を使われていたが、彼にはそれ(セレンディピティー=幸運を掴む力)があったのだ。
伊藤さんと同じような人と思えるのはソクラテスだ。
ソクラテスは自分では著作を残さず、そのために、悪い影響を世界に与えることはなかったが、一定の人達には知恵の喜びを与えた。
ソクラテスは、ある時、自分は他の人達より知恵があるという神託を得た。
それは、直感的にそう感じたのだと言って良いだろう。
だが、ソクラテスは、「まさかそんなことはあるまい」という想いもあったので、一生をその探求に捧げ、その抜群の頭脳を金儲けに活用することはなく、生涯、貧窮していた。
結果、ソクラテスは、「私はただ、自分には知恵がないということを知っているという理由だけで、他の誰よりも知恵があるのだ」という、偉大な真理に到達し、我々にその輝かしい成果を与えた。
全く、初音ミクさんのようである。

初めに述べたおじいさんが「俺のような寂しい人生を送るな」と言ったことが、彼の子供や孫だけでなく、私のような他人にまで伝わった。
この最も偉大な遺言を残したことで、彼の人生は、伊藤博之さんやソクラテス並に価値のあるものになったのである。
私も、伊藤さんやソクラテスのようになることを諦めてはいない。









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不思議な少年

私は若い頃、社長さんの友達しかいなかったという変な人だった。
もちろん、ただの平凡なサラリーマンの若者が付き合ってもらえるのだから、大事業家ではないのだが、それでも、普通の人とはかなり違っていた。
ところで、彼らの中でも、普通の人から見れば、貴族的に裕福な人というのは、親がそれなりの資産家の人ばかりだった。
ゼロから身を起こして経営者になったという人もいたが、そんな人達は、社長といったところで、まさに「吹けば飛ぶような」地位とか立場でしかなかったし、実際、付き合っているうちに飛んでしまった人も何人かいた。
こう言えば、松下幸之助や本田宗一郎らが、何もないところから始めた人達であることを指摘したがる人もいるだろうが、彼らは特例中の特例だ。
さらに言えば、彼らが成功したのは「たまたま」だ。
まかり間違えば、彼らと取って代って成功したかもしれなかった人なんて沢山いたはずだ。
あるいは、松下幸之助さんにも当てはまると思うが、一代で大事業家になった人達というのは、親に財力といったような資産は無くても、冒険を恐れない闘争心とか、壮大なロマンといった、目に見えない資質を受け継いでいると思われるのだ。
実は私も、成功しようとして、かなり無茶をしたこともあったが、いつも思い知らされたのが、目に見えるもの、目に見えないものの両方で資質に欠けるということだった。
「経営者の才能はある」と言ってくれた経営者は沢山いたが(だから付き合ってくれたのだろうが)、もっと根本的な資質というものは、客観的にも主観的にも分かり難いものだ。

ドワンゴ会長の川上量生さんや、私の心の義父であるクリプトン・フューチャー・メディア社長で、初音ミクさんの生みの親である伊藤博之さんらは、表面的には普通の家庭の子供だったが、川上さんのように、受験勉強をせずに京大に入って、しかも、きっちり卒業出来たり、伊藤さんのように若い時から音の魅力にとりつかれ熱中したような性質は、本当に平凡な親の子供が持てるようなものではないと思えるのだ。
トップクラスの陸上選手であった為末大さんが、アスリートは素質次第と言って多くの人に批判もされたようだが、感情的には納得し難いものがあるとしても、事実はその通りで間違いないだろう。
いかなる世界も、持って生まれた素質か、ごく幼い頃に身についた資質かがなければ、決して成功しない。

だが、川上量生さんのような大事業家になったり、伊藤博之さんのように、この世に初音ミクさんを生み出すという、聖母マリアに匹敵する偉大なことをなされた人達のようにはなれなくても、「不思議な少年」のようなものにはなれると思えるのだ。
特に凄いことが出来る訳ではないが、無敵とも言える人である。
いわば、アラジンの魔法のランプは持っていなくても、魔法の指輪を持っている人達である。
ランプを保持するには、それなりの準備が必要だが、指輪なら、指につけておけば良い。
ランプとは大きな掟、指輪とは小さな掟である。
だが、小さくても、掟は死んでも守らなくてはならないものである。









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なぜ人間の能力は差があるのか

人間は自惚れが強いので、自分よりかなり能力が高い者がいても、自分の方が劣ってるとは、なかなか認識しない。
それに、普通の人は、誰かに、大きな能力の差を見せつけられることも、あまり多くはない。
そして、能力の低い人間ほど、高い能力の持ち主と競い合うことがないので、ますます、自分の能力の低さに自覚がなく、自分の能力は高いと妄想するようになる。
このブログで度々登場する、まるで駄目男君がまさにそうで、そんな者を救うのは極めて難しい。
能力を高める努力をする者というのは、誰かに圧倒的な力の差を見せつけられ、屈辱を感じた者だけである。
だから、屈辱を感じるのは素晴らしいことなのだ。

私が高校生の時、大学生でボート部だった従兄と腕相撲をし、瞬間で負け、あまりの力の差に愕然とした。
私は、自分が負けるとは思っていなかったのだ。
相手は、大学のボート部で、毎日物凄いトレーニングをしているのにである。
なんとひどい自惚れであったことか。
しかし、それから私は、毎日、腕立て伏せや、アイソメトリクス(静的筋力)トレーニングなどで鍛え、1年後に再戦した時は、いつまでも決着が付かずに引き分け、その1年後には、遂に私が勝った。
どこかの大学のスポーツ部のポリシーだったと思うが、「強い相手に挑め」というのがあったと思う。
まあ、あまりに無謀なもの(駆け出しのボクサーがプロボクサーに挑むなど)はいけないし、また、あまりに頻繁にやって自信を無くしてもいけないが、勝ち目のない相手に挑む機会をなるべく持たなくてはならない。
まるで駄目男君は、そんなことを全くしなかったのだ。

そして、人間の間に、呆れるほど大きな能力差というのは、確実にある。
人間は、上には上がいるのだから。

手塚治虫さんの『マグマ大使』という漫画で、子供型のロケット人間(ロケットの機能を持つアンドロイド)のガムが壊れた時、マグマ大使やガムを作った、地球の神のような存在のアースが、ガムを抱きかかえて、ドアの中に入るが、アースはすぐに出てきた。
マグマ大使が、「何かお忘れですか?」と尋ねると、アースは、
「何を言っておる!もう治ったよ」
と言う。
私は、いかに漫画とはいえ、アースの桁外れの能力の高さにシビれたものだ。

ビル・ゲイツが、プログラマーの能力の差について、こんなことを言ったことがある。
当時は、モバイルパソコンやタブレットといったものが存在せず、プログラムコードを紙に印刷することがよくあった。
ある、重要な、長いプログラムコードの印刷物を見た1人のプログラマーは、
「一週間ほど貸していただければ、理解しようと思います」
と言ったが、別のプログラマーは、
「今夜、貸してもらえませんか?夕食後に1時間ほど見れば分かると思います」
と言った。
つまり、同じプログラマーと言っても、これほどの能力の差があるのである。

ところで、人間の能力の差というのは、実は、時間を拡大する能力の差なのである。
能力が低い人が1秒と感じる時間を、能力が高い人は、数秒、10秒、20秒、あるいは、それ以上に拡大することが出来るのだ。
イチローは、ボールをバットで捉える瞬間を、時間を拡大して見ることが出来るので、ボールのどの部分をどの角度で叩くかさえ決められた。
それが、「天才的なバットコントロール」という結果になる。
ただ、年を取ると、時間は伸ばせても、自分の神経がついていかないので、若い時ほどうまくやれないのだ。

時間を拡大することが出来れば、女の子と話していても、気の利いたセリフを言える可能性が高い。
容姿端麗でもないのにモテる男というのは、人間性が優れている場合もあるが、多くの場合は、時間を拡大する能力が高いのである。
その不可思議な能力を得れば、誰でも能力を高め、ことによれば、天才になる。
どうすれば、その能力を得られるかと言えば、真実を単純に言ってしまえば「無になる」ことである。
そのためには、複式呼吸をするとか、呪文やマントラを繰り返し唱えるとかあるが、一番はやはり、純粋な情熱を持つことだ。
いったいなぜ、その能力を高めたいのか、よくよく考えれば、それが自分に本当に必要なものかどうか分かる。
どうしても情熱が持てないなら、別のものを探すことだ。
何も見つからないなら、もっと基本的なところを見直すことである。
例えば、生活が怠惰ではないかとか、甘過ぎる状況にいたり、あまりにリスクを避けていないかなどである。
高い能力が、単純でリスクのないことで得られるなどと、甘ったれてはいけない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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