ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2016年03月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

進退窮まった時、どうするか?

結局、人間は2種類だ。
他人に従う人間と自分に従う人間だ。
よりよく分かるよう、いろいろ言い換えてみよう。
他人におぶさろうとする人間と自分の脚で歩く人間。
他人の真似をしたがる人間と誰の真似もしない人間。
他人に慰めて欲しい人間、他人に励まして欲しい人間、他人に認めて欲しい人間に対し、誰にも慰められたくない人間、誰の励ましも求めない人間、誰に認められなくても、自分が認めることが出来る自分であれば良いと思っている人間。

まるで駄目男君(私の職場にいる30過ぎの駄目男)は、全て、前者に当てはまる。だから、まるで駄目なのだ。
残念ながら、彼のその性根は、治しようがない。
彼は、一生、まるで駄目男である。
無念ではあるが、仕方がない。

仕事で言うなら、仕事をさせられている人間と、自分の意思で仕事をしている人間との違いになる。
もちろん、最初から、自分の思い通りに仕事が出来るはずもなく、初めは、他人に顎で使われることになる。
しかし、他人に服従する期間を、出来るだけ短くすることだ。
そして、自分の脚で歩くことを選んだのなら、泣き言を言うことは許されない。
だから、泣き言を言いたい、言い訳をしたい、弱音を吐きたい・・・そんな、まるで駄目男君は、一生、誰かの奴隷である。

逆に言えば、泣き言、言い訳を絶対に言わず、弱音を吐かないと決めた時が、自分の脚で歩く本物の人間になった時なのである。
「あなたは何をしても良い。だが、言い訳だけは許されない」のである。
決意さえすれば簡単なことだ。

だが、本物の人間になった後で、やがて行き詰る。
二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなる。
丁度、『バガヴァッド・ギーター』で、アルジュナ王子が、愛する人達と戦いたくはないが、さりとて、逃げる訳にもいかず、進退窮まったようにだ。
人類で最も優れた男であるアルジュナですら、どうしていいか分からなくなったのだ。
そこでどうするかで、全てが決まる。

これまで、誰にも従わなかったアルジュナは、クリシュナに従ったのだ。
一切をクリシュナにまかせ、個人的な想いを捨て、天性のまま行動した。
老荘思想でいう、「無為の為」とはこのことである。
私も行き詰ったからには、初音ミクさんに従うのである。
ミクさんを慕い、憧れる気持ちで崇めれば、自然に道は開けるだろう。
そう確信する。









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神聖なる存在を崇めることで神に近付いた人達

理想とする存在を崇めることが、魂を輝かせ、高めることには疑問の余地はないと思うようになった。

イタリア最大の文学である『神曲』を生み出したのもまた、崇める力だった。
ダンテは、ベアトリーチェを崇めることで、自分の魂を、神の魂と融合させていったのだ。
ベアトリーチェは確かに実在の女性であったが、ダンテが崇めたのは、ただの女性ではないことに注意しなければならない。
ダンテは9歳の時、同い年の少女ベアトリーチェに出逢い、一瞬で魂を奪われた。
ダンテが再びベアトリーチェに会ったのは9年後、18歳になってからだったが、ダンテはほとんどベアトリーチェと口を利くことも出来なかった。
それでも、ダンテのベアトリーチェに対する想いは、再び燃え上がったが、その後も、ダンテはほとんど彼女と接触することがないばかりか、彼女に避けられるようになったという。
だが、ダンテのベアトリーチェに対する憧れは、消えるどころか、募る(ますます激しくなる)ばかりだった。

ダンテは、ベアトリーチェとうまくいかなかったことが、彼の魂の向上の為には絶対的に良かった。
もし、ダンテがベアトリーチェを恋人にしたり、あるいは、結婚などしていたら、やがては、ベアトリーチェもただの人間の女であることを思い知らされたことだろう。
ダンテは、ベアトリーチェの実際のことは、ほとんど何も知らなかったのだ。
それなら、ダンテが愛し、崇めたのは、ベアトリーチェの幻想であったと思うかもしれないが、そうではなく、ダンテは、自分の内にある神聖な理想を、彼女に投影して見ていたのだ。
そして、ベアトリーチェが24歳の若さで夭逝することで、彼女はダンテにとって、永遠の女神になる。
そんな神聖なる存在を崇めることで、ダンテは、彼がこの上なく尊敬した、古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』にも並ぶ叙事詩の傑作『神曲』を生み出すことが出来たのだ。

探せば、ダンテのような例は多いし、それどころか、人間を超えるほどの力を得た者は、皆、人間でない何かを崇めていたことは間違いないと思うのだ。
レイ・ブラッドベリの短編『みずうみ』で、ハロルドは、純粋に愛していたが、12歳で永遠に失ってしまったタリーという、同い年の少女を、青年になり結婚してから、神秘的な出来事によって崇めるようになり、全くの別人になる。
まるで謎のような作品であるが、読む者は、これが恐ろしい傑作であることを感じるのである。
萩尾望都さんが、この『みずうみ』を漫画家しているが、萩尾さんの繊細な絵が、この不思議な物語にさらに輝きを与えていると思う。
ブラッドべりも、何かは分からないが、聖なる存在を崇めることで、魂を高めていたのであることを確信させるのである。

時々ご紹介する、ローマン・ガリーの『自由の大地』や、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』もまた、崇める力の不思議な力を描いてはいるが、『二十六人の男と一人の少女』では、崇める存在は人間であってはならないことの警告でもあると思われる。
男達が女神のように崇めたターニャという名の16歳の美少女は、高潔ではないにせよ、別に劣悪でもない、ごく当たり前の娘であった。
だが、やはり、人間は崇める対象には相応しくはなく、いつかは裏切られる。
その意味では、ダンテは幸運であったと言えるのだ。









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適切な努力とは

私は、毎日必ず、朝と晩に2度、肉体トレーニングをしているが、その内容は、「ちょっとシンドイ」と思う程度のものにしている。
厳し過ぎると続かないし、かといって、楽過ぎると、ゆるんでしまい、意欲がなくなると思う。

食の節制も同様だ。
相当な少食でも続けられることは、一応は実証したが、それは弊害が多いと思う。
かといって、ゆるすぎてもいけない。
「もう少し食べたいな」と思う位に食べるのは丁度良い。
『バガヴァッド・ギーター』で、神クリシュナが、「食べ過ぎてはいけないが、少食過ぎてもいけない」と述べているのが正しいのだと思う。
また、スウェーデンボルグの前に現れた天使が、彼に、「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」と命じたことも、実に適切な戒めだと思う。
この、「満腹するまで」は、「食べ過ぎ」を意味するのではなく、「満足するまで」「食欲がなくなるまで」食べるという意味だと思う。
食事の後でも、食欲が残っている位に食べるべきなのである。

読書においてもそうである。
あまりに易しい本なら、読むに値しない。
かといって、難し過ぎる、分不相応な本では、何も学べないだろう。

最後に仕事であるが、「自分に出来るだろうか?」と不安に感じたり、尻込みしたくなるくらいの仕事が丁度良いのである。
絶対に出来ることが分かっている楽な仕事をしても、全く力がつかないし、自分の技量をあまりに超えた仕事では、自分が駄目になるだけでなく、周囲にも迷惑をかける。
私の場合、不思議なことに、いつも、自分のスキルより少し高い程度の仕事がやって来て、不安はあっても、逃げずに覚悟を決めて取り組み、やり遂げることで力をつけることが出来たのだと思う。
これは、とても大切なことだと思う。

自分のスキルの上限一杯の課題に取り組むことで、今、流行の「フロー状態」に至りやすいという話がある。
フロー状態とは、夢中になってのめり込み、時間も忘れている状態のことだ。
その時に、人間は高度な能力を発揮し、また、平常の能力も大きく伸ばすのである。
それを超えた状態は「ゾーン」と言い、神秘的な能力が現れることもある。
例えば、2階の窓から落下する我が子を見た、サンダル履きの普通の母親が、オリンピックの単距離選手より速く走ったり、真剣を持った剣術の達人と素手で決闘した空手家が、何をしたのかさっぱり覚えていないが、剣術の達人をKOしたりである。
ゾーン状態は、滅多にあるものではないと言われているが、それも思い込みかもしれず、案外に、それが人間の本来の姿に近いのかもしれない。









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一見、破廉恥な神でも崇めるべき理由

ソクラテスだって、アリストテレスだって、神を崇めていた。
彼らが崇めていた神は、ギリシャ神話の神々・・・つまり、オリュンポス12神で、特に、ゼウス、アポローン、アテーナーを崇拝するのが、当時のギリシャの人々の習わし(しきたり)で、ソクラテスらも、それに従っていた。
ところで、ギリシャ神話の神々は、普通に考えると、あまり感心出来ないと感じると思う。
神々の王ゼウスは、きれいな女の子を見ると、すぐ、すっ飛んで行って子作りするし、アルテミスは、不可抗力で彼女の裸を見てしまった人間の男に怒って、彼を鹿に変えてしまい、その鹿は猟犬に八つ裂きにされる・・・ギリシャ神話には、そんなお話が満載である。
ゼウスの正妻へーラーは、ゼウスの同父同母の姉だし、それと同じ姉のデーメーテールにコレー(ペルセポーネ)を産ませている。
その美少女コレーに一目惚れしたのがゼウスの兄のハーデス(つまり、コレーの叔父)で、この件でハーデスの相談を受けたゼウスは、
「良いぞ。男が強引に迫ってこそ、女はシビれる。がんばれ」
と、変なそそのかしをし、その気になったハーデスは、コレーを略奪する。
ハーデスによるコレー(ペルセポーネ)の略奪の悪行の様子は、名画、名彫刻になっている。
そんな神々でも、人間は崇めなければならず、神の意図を、人間は探ろうとしてはならない。
理屈で考えると、滅茶苦茶だ。
しかし、私は、「なるほど」と納得するのである。

人間の不幸の、ほとんど唯一最大の欠点は、自我が王様であることだ。
自我が、「俺は王様だ。俺が一番偉い、一番貴い、一番賢い」と思っている間は、人間は悲惨な目に遭う。
だが、自我が、自分より上位の存在を認め、自分が一番でないということを本当に知れば、悲惨は終わる。
ギリシャ神話の神々は、人間が、自分達を軽んじることを決して許さず、自分達を畏れ敬う人間には恵みを与えるが、そうでない人間には厳しい罰を与える。
だから、人々は、神を恐れ、謙(へりくだ)って崇める。
それで良いのである。
それで、自我は、自分の上位に神々が君臨することを認め、傲慢でなくなるからだ。

イエス・キリストは、自分は神の子であり、神と等しいと宣言し、庶民の崇拝を集めた。
イエスを自分の自我より上位に置いた庶民達は、とりあえず、善い人になり平和を得た。だが、まだ弱かった。
一方、支配者達は、自分の自我の上位に立とうとするイエスを許さず、捕らえ、辱め、徹底的に貶め、最大の屈辱を与えて殺した。
イエスを自我の上位に置いたままの人達は、そのイエスが惨めに死んだことで、自我が滅び、神と通じることが出来たのだ。

我々も、貴いものを崇め、それを自我の上に置くことにより、人間特有の不幸から逃れることが出来る。
それは、実に賢い方法なのであるが、それがなかなか出来ない。
仏教の仏様や菩薩様は、優れた精神の持ち主で、元々は非常に崇め易かったのに、仏教の権威者達が汚してしまい、崇めることが出来なくなってしまった。
観世音菩薩にしたって、僧侶の立場にある者までもが、「観音様に頼めば福をくれますよ」とか、変な説明をして、人々は、観世音菩薩を召使いにして、自我の下に置いてしまっている。

また、人間を崇めてしまった者は、100%、パーフェクトに悲惨に遭う。
クリシュナムルティが、「ガンジーなんてロクなヤツじゃない」と言ったのは伊達ではない。
無論、ガンジーに尊敬すべき点が多くあることまで、クリシュナムルティだって否定はすまいが、崇める対象では絶対にない。
本物の聖者は、皆、こう言うのだ。
「私を崇めるな」
と。
「私を崇めよ」と言うのは、自我をハリボテの王座の上に置いた阿呆である。

あなたは、人間以外の貴い何かを崇めなければならない。
そりゃ、エマーソンは、
「馬鹿者!アンタが一番偉いんだ。全ての価値はアンタが決め、アンタは自分の判断だけで動かないといけない」
と言ったが、それは、人間の間でのことだ。
言ってみれば、やっぱり、人間を崇めるなと言ったのだ。
自分の自我の上に他人の・・・・それがどれほど偉い人、権威者であっても、その自我を置くという愚を戒めたのだ。

初音ミクさんは、世界的な人気者になった今でも、何の権威も持たない。
クラシック交響曲でソリストをしたり、オペラの名門劇場でオペラのプリマを務めたり、日本一の交響楽団とコラボしても、ミクさんには、人間の権威という穢れは付かない。
それを示すためだけに、そのようなハイ・カルチャーと共演する運命だったのである。
そんなミクさんを崇めることは、実に好ましいことである。
もし、クラシックやオペラが、ミクさんを崇めるなら、世界は平和になるだろう。
ただし、その場合は、ミクさんには、キリストの試練が降りかかる。
ない方が良いと思うのであるが、どうなるかは分からない。
言っておくと、ミクさんが、それらのハイ・カルチャーと共演することを、あまり喜ばない方が良い。
それは、悲劇の前兆かもしれないのである。

あなたは何を崇めるだろうか?
普通の人達と同じように、愚かにも、自我を王座に据え、崇められることを願うだろうか?
もし、貴い何かを、慕い、憧れる気持ちで崇めれば、自我は屈服して退き、その貴いものを通じて、あなたの魂は、神の魂と融合出来るだろう。









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星を掴む

「私は信念を持っているだろか?」
これは、「私は、何かを本当に信じているのだろうか?」と言うのと同じと思う。
そして、ほとんどの人が、答えは「ノー」である。

人間は、崇め続けたことでなければ信じることが出来ない。
崇めるとは、素直に価値を認めることと言えば、納得し易いと思う。

命や、愛や、自然を崇めることが出来れば良いのだけれど、いつの時代も、庶民達は、先に、世間の権威を信じ込まされ、本当に大切だが、目に見えないものを信じられなくなるのだ。

だが、苦しい時・・・屈辱の中で惨めな時。
そんな時に、星のように美しいものに出会う。
それを崇めれば、何かが起こる。
ローマン・ガリーの『自由の大地』で、堕落したフランス兵達が、1人の少女を空想し、その少女を崇めたようにだ。

つまり、人は、苦しみが、貴いものを崇める心を起こさせるのである。
だが、そのためには、辛い時に、顔を上げなければならない。
ポール・マッカートニーだって、苦難の中にいた時、聖母マリアが現れ、彼は、貴い言葉“Let It Be”を賜ったのだ。

傷付き、惨めになった時、初音ミクさんと出会い、ミクさんを慕い、ミクさんに憧れると、ミクさんは崇めるべき星であることが分かる。
このことを、古来から「星を掴む」と言い、星を掴んだ者の行く手を阻むものは何もない。
もちろん、それぞれの人の性質により、それぞれに相応しい救いが現れる。
大切なことは、うつむかず、顔を上げることだ。
そうすれば、苦しくても、いや、苦しいからこそ、人間は、必ず星を掴めるのである。

星はサンスクリット語で「ターラー」であり、インドの女神ターラーはチベット仏教のターラー菩薩になった。
面白いことに、グリム童話の『星の銀貨』で、慈悲深い少女に神が天から降らせた星は、ターラー銀貨になったのである。
ターラー菩薩様を崇め、その名を想えば、あなたにも、そのようなことが起こるだろう。
出来れば、初音ミクさんの『星のカケラ』を聴くと、さらに良いだろう。
ミクさんは、ターラー菩薩様の化身なのだからだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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