「前畑ガンバレ」と言ったら、何のことか分かる人が多いと思う。
1936年のベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎ決勝で、日本の前畑秀子選手が優勝争いをする中、ラジオ放送で実況していたNHKのアナウンサーが興奮のあまり、20回以上も絶叫した「前畑ガンバレ!」が非常に有名になったもので、レコード化もされたらしい。
「頑張る」は、「我を張る」からきていて、これは自己中心的になることだから、本当は悪い意味だと言う人もいるかもしれないが、それはひねくれ過ぎというもので、頑張ることは良いことである。
人間は頑張らないといけない。
なぜ頑張るのが良いのかというと、普通には、頑張った分、利得が得られるからである。
人間は、肉体の維持のためにはお金も必要なので、ある程度の頑張りは必要だ。
では、親が資産家で、働かなくても食べていける場合は頑張らなくて良いのかというと、その資産が一生持つということはないだろうし、持ちそうだとしても、何かが起こって失ってしまうこともあるだろうから、頑張ることを忘れないためには、やはり頑張らないといけない。
だが、本当に頑張りが必要な理由は、頑張っていたら、「ゆるまない」からなのである。
人間は、ゆるまなければ、必ず幸福になるのだし、ゆるめば、必ず不幸になる。
ただし・・・
では、前畑秀子さんのようになれば良いのかというと、そうではない。
塾で、「○○校合格」を掲げ、企業で「売上○○円達成」、「目標店舗数○○件」などをスローガンにして頑張るというのも、ある程度は必要なことかもしれない。
だが、大切なことを言うと、
「自分以外の者に『がんばれ』と言われたことを頑張ると、いくらかは自分が自分でなくなる」
のである。
さっき述べた、「受験合格」「売上増進」のスローガンというのは、かなりの部分が、他から押し付けられたものだ。
多くの人達が、それを頑張るために、洗脳され、誘導されているのである。
そんなものを頑張るとどうなるかというと、
「やらされて頑張っていること以外ではゆるむ」
のである。
さらには、
「ゆるむために頑張る」
ことになるのだが、これは分かると思う。
今の世間では、受験合格、就職なんてものは、手段のはずがゴールになってしまい、達成したら、「遊ぼう」、「もうどうでもいい」、「楽になれる」と思っているのである。
いずれにしても、うまくいこうがいくまいが、「やらされて頑張る」ことはいつかは終わるのだが、その時に待っているのは、絶対のゆるみ、そして、絶望である。
頑張るというのは、ゆるまないよう努力することなのに、人にやらされる「頑張る」は、ゆるむことが目標になるのである。
本当に良い教えを聴き、心の奥では何かを感じているのに、
「なるほど、本当はそれが楽なんですね」
「それを気持ち良くやれたら良いですね」
と、おかしなことを言う人が多い。
ずっと、他人の「頑張れ」に従って生きてきた人達だ。
自分の思惑で、他人を頑張らせる・・・つまり、他人を利己的に利用する者は、
「こうすれば本当は楽なんだよ」
「これをすれば気持ち良くなるんだよ」
と言って騙すのである。
それに繰り返し騙されてきた人達だ。
本当に頑張るべきことは、決して楽ではないし、気持ち良いこととは何の関係もない。
本当に頑張るべきことは、
「ゆるまないこと」
であり、そうであれば、
「自分が自分でいられる」
のであり、そして、そうであれば、
「心の底から満足する」
のである。
それは永遠に続く満足だ。
重要な真理を、あえて言葉で言えば、
「真に頑張るべきことは、誰にも『頑張れ』と言われないこと」
なのである。
真に誰かを愛し、地球を愛し、自然や生命を愛することを、自分以外の者に「頑張れ」などと言われるだろうか?
そんな「頑張れ」を言う者がいたら、それはおかしい人であることは明らかだろう?
だが、「○○校合格、頑張れ!」、「売上○○円達成、頑張れ!」、「鬼畜米英人を殺せ、頑張れ!」は、「楽」や「気持ち良い」を巧妙にすり替えたものなので、表面的にはおかしいと感じず、騙されてしまうのである。
受験合格も、売上向上も、戦争での殺人も、避けられない義務として行わねばならないこともある。
それらは、やむなきこととしてやるのであり、「頑張る」ようなことではない。
このあたりは、『バガヴァッド・ギーター』に神の言葉として詳しく書かれていると思う。
そして、自分以外の者にやらされる「頑張る」には終わりがあるが、真に頑張るべきことには終わりはない。
極めて重要なことなので、まとめて述べると、
真に頑張るべきことは、誰にも「頑張れ」と言われないこと。それは永遠に終わらない。
である。
もし、ピンときたら、忘れないで欲しい。
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1936年のベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎ決勝で、日本の前畑秀子選手が優勝争いをする中、ラジオ放送で実況していたNHKのアナウンサーが興奮のあまり、20回以上も絶叫した「前畑ガンバレ!」が非常に有名になったもので、レコード化もされたらしい。
「頑張る」は、「我を張る」からきていて、これは自己中心的になることだから、本当は悪い意味だと言う人もいるかもしれないが、それはひねくれ過ぎというもので、頑張ることは良いことである。
人間は頑張らないといけない。
なぜ頑張るのが良いのかというと、普通には、頑張った分、利得が得られるからである。
人間は、肉体の維持のためにはお金も必要なので、ある程度の頑張りは必要だ。
では、親が資産家で、働かなくても食べていける場合は頑張らなくて良いのかというと、その資産が一生持つということはないだろうし、持ちそうだとしても、何かが起こって失ってしまうこともあるだろうから、頑張ることを忘れないためには、やはり頑張らないといけない。
だが、本当に頑張りが必要な理由は、頑張っていたら、「ゆるまない」からなのである。
人間は、ゆるまなければ、必ず幸福になるのだし、ゆるめば、必ず不幸になる。
ただし・・・
では、前畑秀子さんのようになれば良いのかというと、そうではない。
塾で、「○○校合格」を掲げ、企業で「売上○○円達成」、「目標店舗数○○件」などをスローガンにして頑張るというのも、ある程度は必要なことかもしれない。
だが、大切なことを言うと、
「自分以外の者に『がんばれ』と言われたことを頑張ると、いくらかは自分が自分でなくなる」
のである。
さっき述べた、「受験合格」「売上増進」のスローガンというのは、かなりの部分が、他から押し付けられたものだ。
多くの人達が、それを頑張るために、洗脳され、誘導されているのである。
そんなものを頑張るとどうなるかというと、
「やらされて頑張っていること以外ではゆるむ」
のである。
さらには、
「ゆるむために頑張る」
ことになるのだが、これは分かると思う。
今の世間では、受験合格、就職なんてものは、手段のはずがゴールになってしまい、達成したら、「遊ぼう」、「もうどうでもいい」、「楽になれる」と思っているのである。
いずれにしても、うまくいこうがいくまいが、「やらされて頑張る」ことはいつかは終わるのだが、その時に待っているのは、絶対のゆるみ、そして、絶望である。
頑張るというのは、ゆるまないよう努力することなのに、人にやらされる「頑張る」は、ゆるむことが目標になるのである。
本当に良い教えを聴き、心の奥では何かを感じているのに、
「なるほど、本当はそれが楽なんですね」
「それを気持ち良くやれたら良いですね」
と、おかしなことを言う人が多い。
ずっと、他人の「頑張れ」に従って生きてきた人達だ。
自分の思惑で、他人を頑張らせる・・・つまり、他人を利己的に利用する者は、
「こうすれば本当は楽なんだよ」
「これをすれば気持ち良くなるんだよ」
と言って騙すのである。
それに繰り返し騙されてきた人達だ。
本当に頑張るべきことは、決して楽ではないし、気持ち良いこととは何の関係もない。
本当に頑張るべきことは、
「ゆるまないこと」
であり、そうであれば、
「自分が自分でいられる」
のであり、そして、そうであれば、
「心の底から満足する」
のである。
それは永遠に続く満足だ。
重要な真理を、あえて言葉で言えば、
「真に頑張るべきことは、誰にも『頑張れ』と言われないこと」
なのである。
真に誰かを愛し、地球を愛し、自然や生命を愛することを、自分以外の者に「頑張れ」などと言われるだろうか?
そんな「頑張れ」を言う者がいたら、それはおかしい人であることは明らかだろう?
だが、「○○校合格、頑張れ!」、「売上○○円達成、頑張れ!」、「鬼畜米英人を殺せ、頑張れ!」は、「楽」や「気持ち良い」を巧妙にすり替えたものなので、表面的にはおかしいと感じず、騙されてしまうのである。
受験合格も、売上向上も、戦争での殺人も、避けられない義務として行わねばならないこともある。
それらは、やむなきこととしてやるのであり、「頑張る」ようなことではない。
このあたりは、『バガヴァッド・ギーター』に神の言葉として詳しく書かれていると思う。
そして、自分以外の者にやらされる「頑張る」には終わりがあるが、真に頑張るべきことには終わりはない。
極めて重要なことなので、まとめて述べると、
真に頑張るべきことは、誰にも「頑張れ」と言われないこと。それは永遠に終わらない。
である。
もし、ピンときたら、忘れないで欲しい。
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